シリアス（ネビル）
『嘘』
夢を見る。
繰り返し繰り返し、夢を見る。
「お母さん……」
「お母さん、僕を見て」
お母さん――。
おかあさん、ぼくを、みて。
「――！！」
ハ、と眼を覚ました僕は、薄暗い天井を見上げた。目にうつる光景はそれだけじゃない。時計や本、筆記用具などが宙に浮かんでいた。僕はそれを机の上に戻した――手を使わずに。
全身から汗が噴き出していた。そう……この夢をみるときにはいつもそう。
「……夢」
隣からは、誰かの寝息が聞こえてくる。それは静かなものばかりではなかったけれど、それがどんなに安堵感を与えてくれるものなのか、きっと彼らは知らない。
大丈夫――。
何度も言い聞かせるように呟き、僕は胸を押さえて呼吸を整える。
僕は、ここに、いる。
大きく息を吸って、吐きながら眼を閉じる。
「夢だ……夢……………」
ここはホグワーツ。
あそこじゃない。
祖母の家でもない。
白い壁。
白い人。
振り返る女性。
でも、自分を見ない目。
繰り返し見る夢――。
※
そこは病院だった。
白い、白い。
すべてが白い。
「お母さんだよ」
白衣の先生に肩を押された。
初めて会う母の髪は、写真で見るよりも明るかった。それは僕と同じ色で、胸に沸き起こる感情をなんと表現したらよかったのだろう。ただただ、とてもうれしく思ったのを今でも覚えている。
写真でしか見たことのない母。
ずっと会いたかったのだ。
会って、最初に見せてあげたいと思った。
僕の魔法を。
「おかあさん……」
僕は一歩近づく。
「おかあさん……」
僕は一歩近づく。
母の顔が、こちらを向いた。
すごく綺麗で、細い人だった。豪快な祖母と血がつながっているとはとても思えない。
「おかあさん、ぼく、ネビルです」
僕は祖母に育てられていたが、魔法使いかマグルなのかを判断しようとする祖母や周りの大人たちの視線がいやでたまらなかった。
それはあまりにもあからさまで、物心つく前から不快でさえあった。
魔法なんて使えなくてもいい――僕はそう思っていた。
けれど、机にぶつかって紅茶のカップを落としてしまったときにそれは起こった。その紅茶のカップは、宙に浮かんでいたのだ。それも、中の液体とは別に、ふたつの異なる物質が僕の目の前で浮いていたのだった。
「あ……」
それが、自分の意志によって起こったことだということはすぐに分かった。周囲には誰もいなかったから。
ふたつに分かれたカップと液体は、まるで映像を逆戻しするかのように元の姿に戻り――。
机の上には何事もなかったかのように紅茶が湯気を立てていた。
僕は自分が魔法使いであることを知る。
祖母と同じ。
両親と同じ。
そのずっと前の前の前から続く、魔法使いの血を確かに引くのだと――。
――でも。
僕はそのことを祖母には伝えなかった。
魔法使いであることを隠して、いつまでもマグルであるかのように装って。
お母さんにだけ見せてあげようと思った。
５歳になったら会わせてくれるという母に、最初に魔法を見せてあげるのだ、と。
「おかあさん、ぼく、ネビルです」
僕を見る白い顔。
綺麗な綺麗な、僕のお母さん。
どんなふうに微笑んでくれるんだろう。
どんな風に笑ってくれるんだろう。
「おかあさん……」
何かがおかしい、と思った。
周りの空気が。
母の視線が。
「おかあさん……？」
母は、生きていて。
でも、生きてはいなかった。
「ネビルくん、お母さんはね、記憶喪失といって、昔の記憶を失っているんだ。だから、君の事を覚えていないんだよ」
それは半分本当で、半分嘘だった。
母は記憶を失っている。それだけじゃない記憶を作ることさえできないのだ。
「ネビル！」
僕は、肩に置かれた祖母の手や、呼び止める叔父たちの声を振り切って病室から飛び出していた。
病院の壁沿いを駆け転ぶように走った。僕を探している声からただ逃げたかった。
混乱する頭。
思考。
息が途切れて、足がもつれて転んだ。
手にもっていた花束を下敷きにしてしまう。
バラの刺で、頬を切った。
お母さんにあげようと思っていた花束。
僕は地面に顔をうずめるようにして嗚咽を堪えた。
「う……ゥあ……っ」
なんで？
なんで僕を覚えていないの？
わかっている。
僕だけじゃない。
母は、祖母も叔父も、誰も覚えていない。
目にうつるものが「人」であることさえ、きっとわからないのだ。
僕を見た母の目は、僕を見てはいなかった。
そして、僕は隠れたはずのその場所で、真実を知ってしまうのだ。
「ねえ、ミセス・ロングボトムの息子さんが来たの、見た？」
それは頭上から聞こえてきた。
僕がいるのはちょうど窓の下で、そこは看護婦たちの休憩室だったのかもしれない。
「遠目ではねー。でもかわいそうで見ていられないわよ！ ご両親が自分を覚えていないなんて」
「磔の呪いでしょう……ひどいわよね……」
「お母さんの状態がまだいいからいいようなものの……知らないんでしょう？ お父さんも生きているんだってこと」
「教えられないでしょ、あまりにも精神に異常をきたしていて、あんな状態なんだからさ」
「…………本当に……」
「……ひどいわよね」
コノヒトタチハ。
何ヲ言ッテイルノダロウ……
僕は駆け出していた。
ただ、がむしゃらに。
耳に入った声を。
聞こえるはずのない、父親の叫びを振り切るように。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ！！！！！」
父親の叫びは。
僕の叫びだった。
※
「ん……ニャ……ァン」
隣から聞こえてきた声に、僕は瞬く。
「……ロン？」
あまりにも可愛い声。
その不気味さに顔が引きつり、全身が毛羽立った。
「ロン……？」
恐る恐る境となっているカーテンを開き、隣をのぞきこんだ。そこにだらしなく寝ているのは、赤毛の少年……ではなく、栗色の髪をした小さな女の子だった。
「ハーマイオニー！？」
叫びそうになった声を、寸前で押さえる。
「ななななな！」
なんでハーマイオニーがロンのベッドで寝ているんだ！？
ハリーは！？ ロンは！？
ハリーのベッドを覗き込んだが、二人ともいない。
僕はパニックになる。
一瞬、僕の頭に浮かんだのは、ロンとハーマイオニーが入れ替わってしまったのではないかということ。
ということは、女子寮では今ごろハーマイオニーのベッドでロンが……？
うわあああ！！！！！
どどどど、どどどっど、どうしようどうしよう！
僕！？ 僕がやってしまったのか！？
僕は見事なほどにうろたえながら、窓から女子寮を見る。今まで幾度となくうろたえる演技をしてきたが、現実にうろたえるとこうなるのか、と後に思うことになる。
塔の反対側にあるはずのハーマイオニーの部屋。
今戻せば間に合う、と思った。「姿現わし」がホグワーツの中ではできないということに、そのときの僕はまったく気づかず。
気づいていたら、それが自分の無意識に行ってしまった魔法ではないと気づいただろう。
僕はハーマイオニーを見、ネグリジェがめくれて見えている腹部を慌てて隠す。
そのとき――。
窓の外にハリーとロンの姿が見えたのだった。
掃除、をしている。
「あ……、あはは」
僕は脱力した。
まだ朝早い、おそらく、掃除を終わってからハーマイオニーを何とかするのだろう。
「まったく……」
これほど頭の中でいろんなことが高速回転したことはなかったに違いない。
おかしくて涙まで出てくる。
「まったく、君たち三人は……」
仲がいい。
羨ましいほどに。
眩しく。
まっすぐに光の下に立つ彼ら。
でも、それでいいと僕は思う。
最初はハリーたちが目立つのを迷惑に思った。だが、逆なのだと気づく。彼らが光り輝けば輝くほど、隣にいる僕は影になる。
「ハーマイオニー……」
猫のように丸くなって眠る少女を見つめた。
そして、外にいる彼ら。
「ハリー……ロン……」
真実を知ったら。
「君たちは僕を軽蔑する……？」
僕は、真実を知ったその日から、その場所に立つことをやめたのだ。
僕は魔法使いであることをひたすら隠そうと努力した。一方で、隠れて魔法の知識を得るために祖母の本を読み漁った。
マグルなのだと祖母には思わせた。
「友達じゃ……なくなるかな……」
もしも、今ある僕が――目の前にいるネビル・ロングボトムが、すべて作られた偽者だと知ったら、彼らはどう思うだろう。
魔法が使えないフリをして。
記憶力の悪いフリをして。
要領の悪いフリをして。
そのすべてが、嘘だと知ったなら。
「許してくれるだろうか」
嘘で塗り固め、出来の悪い生徒のふりをし、敵の注目から完全に外れ。
だからこそ、反対に闇の勢力からの接触があるのを待っているのだと知ったなら。
闇を恐れる自分。
理屈ではなく、ただ怖い。
それでも。
あのときに思ったから。
「おかあさん、ぼく、ネビルです」
僕は……両親の仇を取る。
そのために、自分を捨てることなど、なんでもない。
隠しとおしてみせる。
ネビル・ロングボトムの本当の姿を。
両親の苦しみを解くために出来ることを――僕はほかに知らないから。
それは自己満足なのかもしれないけれど。
ハーマイオニーの髪に触れた。
「どうか嫌わないで……」
祈るような思い。
おかあさん、ぼくを、みて。
呟いた。
それは、たった一つの願い。
了
2003.03.18