ギャグ
『クラップとゴイルと秘密』
ビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイルが鼻を動かした。
甘味探知機でも備わっているのだろうか。スリザリン寮の巨漢二人は、食べ物の匂いに――特に甘い匂いに敏感だった。
「いい匂いがする……」
二人は匂いに釣られるまま、ふらふらと歩いていく。
「チョコレートの匂いだ」
「……うん」
「バターの匂いもする」
「うん……」
「いや、これはクッキー……」
二人は立ち止まり、視線を合わせた。
「チョコレートクッキーだ！」
二人はダダダと巨体を揺らして走った。間違いなく、それは「手作り」という誘惑と魅惑の響きをおびていたのだ。
ホグワーツの長い回廊を、匂いを頼りにひた走り、二人が立ち止まった場所は……。
「魔法薬学……教室……？」
間違いじゃないよね、と二人は顔を見合わせた。魔法薬学はスリザリン寮監であるセブルス・スネイプ教授の担当教科だ。
甘いお菓子とスネイプではまったく正反対に位置する。
――そんな場所からなぜ？
ビンセントとグレゴリーは眉をひそめたが、疑問よりも食欲が勝った。
「ま、いっか」
「うん」
二人はそっと扉を開いた。
「薬草の量を間違えないで」
声の主は、小柄でずんぐりとした魔女だった。薬草学の教師スプラウトだ。
中では薬草学の授業が行われているらしい。
「とろみがつくまで薬草は磨るのよ。さっき作ったのはおやつだけど、今度作るのは本当の薬だからね」
甘い匂いが漂ってくるが、扱っているのは魔法薬学と同じ実験用具だった。
グレゴリーが首をかしげる。
「何をやっているんだろう」
そこにいるのは女性だけだった。同学年もいれば上級生もいる。下級生の姿は見えなかった。
「料理教室か？」
ビンセントが呟いたとき――。
「あら」
教室の一番後ろにいた栗色の髪をしたグリフィンドールの生徒と目が合った。ハーマイオニー・グレンジャーだ。
二人はドキリと心臓を高鳴らせた。
ふだん、ドラコと一緒に彼女を馬鹿にしているだけに、こうして彼女と会うと戸惑ってしまう。昔ほど彼女を馬鹿にすることはなくなったけれど。
「二人とも甘い匂いに釣られてきたの？」
グレンジャーの目が細められた。少し楽しげな口調。だが、馬鹿にするような感じではないのでホッとしながら、ビンセントは小声で聞いた。
「何をやっているんだよ」
「特別授業」
にっこりとグレンジャーが笑う。二人はますます戸惑った。四年のクリスマスパーティーのときの彼女を見てから、なんだかドラコも、そして自分たちもおかしい、と二人は思う。いや、ドラコはその前からおかしかったけれど。
「珍しい薬草が入ったのよ。それでここを貸してもらっているというわけ。スネイプ先生は嫌そうだったけど」
くすくすと笑うグレンジャーに、背を向けていた黒髪の少女が振り返った。グリフィンドールでも目を引く美少女パーバティ・パチルだ。
「どうしたの？ いきなり笑って――あら」
パチルの視線を受けて、ビンセントとグレゴリーは頬を赤くした。
「チョコレートクッキーの匂いがしたんだ」
「うん」
パーバティはにっこりと微笑んだ。
「入っていらっしゃいよ。調理場からちょうどクッキーが焼きあがってきたところなの」
「ちょ、ちょっと、パーバティ」
「いいじゃない、ハーマイオニー。――いいわよね、パンジー」
キッと目つき厳しく振り返ったのは、同じスリザリンのパンジー・パーキンソンだった。パンジーはグレンジャーとパチルを見て眉をひそめ、次に足元を見て眉を吊り上げた。
何でここにいるのよ、とその目が語っていた。
どうやらグリフィンドールとスリザリンが同じ班になってしまったために、彼女のご機嫌はかなり斜めらしい。
「やめてよ、餌を与えるのは。またブタになるじゃない」
パンジーの言い方には容赦がない。ドラコがいないときはいつもそうだ。
「いいじゃない。この薬草にはうってつけの人物だもの」
パーバティとパンジーは互いに囁くように言い争っている。
ビンセントがグレンジャーに目を向けると、彼女は苦笑した。
「痩せ薬に使われる薬草を使っているのよ。――食べる？」
ビンセントとグレゴリーは瞳を輝かせた。
くれくれ、と。贅肉に埋もれたつぶらな瞳がウルウルとグレンジャーを見上げた。
「先生」
グレンジャーが突然手をあげた。
「はい、ミス・グレンジャー」
スプラストが顔を上げ、そして、グレンジャーの足元にいる二人に気づいて瞬いた。
「先ほどのクッキー、試食してもいいでしょうか？」
「――ええ」
スプラストは笑う。
「いいわよ。けれど、一度には食べさせないで」
食べていい、ではなく、食べさせないで――その言い方の違いに気づいた生徒たちがビンセントたちに気づいた。
「あら」
上級生たちがかわいい子犬を見つけたかのように集まってくる。
「スリザリンの子ね」
「ほら、四つんばいになっていないでこちらにおいでなさいな」
巨体の二人も、上級生のお姉さまたちにかかれば子供扱いだ。スリザリンの生徒は恥でもあるかのように溜め息をついて無視してきたが、寮の性質もあるのだろう、ハッフルパフの生徒はたいがい優しい気質の者が多いことを二人は知っていた。
「ほら、お食べなさい」
もしも「ワンとお鳴きなさい」と言われたら、二人は迷わず鳴いていただろう。
悲しいかな、女性に囲まれるという至福の時に、ドキドキしているのはお姉さまたちにではなく、甘いお菓子の匂いにだった。
二人は白い紙に乗せられたクッキーを受け取る。
パク。
パク。
蕩けるように口の中にクッキーが解れた。
「おいしい？」
二人はコクコクとうなずいた。
お姉さまたちが笑う。
「ダイエットなのに甘いのを控えなくちゃいけないなんて辛いでしょ？ そのためのお菓子なのよ」
「はい、もうひとつどうぞ」
パク。
パク。
「おいしい？」
こくこく。
こくこく。
二人は至福の笑みで頷いた。
ふと、それに気づいたのは見ているだけだったレイブンクローの生徒だった。
「ねえ、ちょっと」
「なによ」
「その子たちの身体……」
「あら。本当」
「え、なに？」
「細くなってない？」
「え？」
人がどんどん集まってくる。
ハッフルパフ、グリフィンドール、レイブンクローの女性とに囲まれたビンセントとグレゴリーは、口の中にあるクッキーをゴクンと飲み込んだ。
「…………」
「…………」
「まあ。本当だわ」
「薬草の分量を間違えたのかしら」
「…………」
レイブンクローの生徒の目がキラリと光ったのを二人は見た。
「もっと食べさせましょう」
「え」
「さあ、お食べなさいな」
二人の目の前でクッキーが揺れた。
食べたらダメだ、と何かが警告する。だが、ビンセントもグレゴリーもクッキーの魔力に勝てなかった。
パク。
パク。
二人は、出されるお菓子を嬉々として食べた。
二人を見る女生徒の数がさらに増え、ざわめきもまた広がっていくことに彼らは気づかなかった。
そして。
「おやめなさい――！」
異常事態に気づいたスプラウトが慌てて止めたときにはすでに遅かった。
「きゃああああああ〜！！！！」
「うそーーー！！」
「信じられなあああいいいい！！！」
ホグワーツに嬌声が響き渡った。
※
ビンセント・クラッブとグレゴリー・ゴイル――このふたりが痩せたという噂は、１５分もしないうちにホグワーツを駆け巡り、スリザリン寮にはひと目二人の姿を見ようと多くの生徒が押し寄せてきた。
それを追い払うのは、スリザリンの女性陣だ。パンジーを筆頭に、訪れる人を足蹴にしかねない勢いで追い返している。その喧騒が、談話室にはいやというほど耳に入ってきていた。
いつもの定位置――ソファーに腰をおろしているドラコ・マルフォイは深い溜め息をついた。
「ドラコ〜」
「ドラコ〜」
甘えたように擦り寄ってくるのは、今や一躍、時の人、ビンセントとグレゴリーだ。
「寄るなっ」
ドラコは二人に手首を振る。
「ドラコ〜」
「ドラコ〜」
二人はウルウルと瞳を潤ませた。
ドラコは溜め息をついた。
なんでこんなことに、とドラコは思う。
視線の先には、長身で（ほとんど外に出て活動することがないために）色白な、タイプの違う二人の男子生徒がいた。髪と瞳の色は確かにビンセントとグレゴリーのものだ。しかし、その姿は今までの巨漢を思わせるものは何一つない。
スマートな――今すぐにモデルにでもなれそうなくらいの細身の腰、長い手足。
幼い頃から肉付きのよい彼らしか見たことのなかったドラコには、目の前の二人がビンセントとグレゴリーだと言われても戸惑うばかりだった。
悪い夢でも見ているんじゃないだろうか、と思う。
太っていたときの姿を思い浮かべ、確かに肉に埋もれていたが不細工な顔つきではなかったよな、とドラコは思った。
しかし……。
この二人が痩せた――それだけであるのなら、他の寮生たちがこれほど騒ぐこともないだろう。
問題は、あの贅肉の下が恐ろしいほどの美形だったということで。
ビンセントは男らしい容貌だが、やはり細身で貴族的な顔つき。グレゴリーは少々女顔、美少年といってもおかしくはないほど小顔で秀麗になってしまった。
笑う声すらもどこかさわやかだ。
ドラコは溜め息をついた。
「さてと、夕食だな」
ドラコは立ち上がり、後に続こうという二人を見上げた。軽く小首をかしげるように。
「お前たちは残るか？」
「え！」
「え！！ なんで！？」
「なんでって……」
なんでだろう、とドラコも思う。
「みんながお前たちを見るぞ？」
「別に平気だよ。な」
「うん」
「それに、行かないとご飯が食べられないじゃない」
「そうだよ！」
「……まあ、いいか」
ドラコは外見は変わっても中身の変わらない二人に苦笑した。その笑みに、二人もやっとホッとしたような笑みを浮かべた。
寮を出ると「おおおーーー！！」という男子の声と、「きゃあああ〜！！」という女性の声がスリザリンの地下に響いた。
一体何人いるんだ、というくらいに人が集まっている。
グリフィンドールの赤毛の双子を筆頭に、生徒はドラコたち三人を囲み、大騒ぎとなった。
どけ！と叫んでも、押し押せてくる波に逆らえない。埋まりかけて、つぶされかけて、さすがにヤバイ――とドラコが思ったとき。
「何をしている！」
響いた声に、ざわめきは一瞬で止んだ。
スリザリンの寮監は、長く黒い上着の裾をひるがえしながら近づくと、騒ぎの中央にいるドラコたちを見、双子を見た。
「夕食の時間に遅刻して減点されたいのか、ウィーズリー」
まさに鶴の一声。３０秒後には、まるで蜘蛛の巣を散らすかのように生徒はいなくなっていた。
「……」
スネイプはドラコを――そして、その背後の二人を見た。
ビンセントとグレゴリーを見て片眉が上がる。
「………………」
さすがに、誰だ――とは言わなかった。
噂は聞いているのだろう。ただ、小さな溜め息を漏らしただけ。
「夕食に遅れる。行きなさい」
その日の夕食は、ざわめきが止むことはなかった。だれもが目の前の豪勢な食事ではなく、スリザリンの一角を見つめていたのだ。
教師の多数も面白げにその光景を見ていた。
その視線にまったく気づいていなかったのは、当の本人たちだけだろう。
「おいしい」
「うん！」
「グレゴリー、あれも取ってくれ」
「これ？ はい。あ、僕はあれがいいな」
「この肉、味付けが最高」
「これもいけたよ」
「あれ？ ドラコ、もう食べないの？ ぜんぜん食べてないじゃない。なら、これ僕がもらってもいい？」
ドラコの返事を待つ前に、すでに目の前の料理はビンセントの口に運ばれていた。
ぱくぱくぱくぱく。
ビンセントとグレゴリーの食欲は底をみない。それはスリザリンではいつもと変わらない光景だった。
だが、他の寮の誰もがそのすごさに慄いた。
「すごいな……」
「ああ……」
その囁きがひとりだけのものだったら聞こえなかっただろう。けれど、見ていた誰もが同じようなことを言ったので、それはスリザリンの誰の耳にも聞こえてしまう。
ドラコはさすがに二人を止めよう、と思った。
「おい――」
しかし、その言葉をさえぎった者がいた。
「そこまでよ！ グレゴリー！ ビンセント！！」
凛と響いた声。
パンジー・パーキンソンだった。
彼女は、二人の手をパシリと叩いた。
「痛いっ」
「痛いよっ！ 何するんだ」
「その体型を維持するのに、それ以上の料理は不要！」
「え！？」
「なにそれ！」
そのとき、ちょうどダンブルドアが杖を振ったのか、目の前の料理が消えて、今度はデザートが現れた。
「わーー！」
「おいしそう〜！！」
二人はうれしそうに頬を緩めた。
しかし、またもやパンジーが二人の手を叩く。
「カロリーオーバーで体型が崩れる！」
不満を口にしようとした二人だが、いつの間にか周りに女生徒が集まっていることに気づいた。
「……な、なに」
ビクビクと怯える二人に、パンジーは言い放った。
「ごちそうさまよ！」
二人の左右を女生徒が固め、「うああああん！！！」という泣き声を残し、引きずるように連行して行った。
「すげえな……」
「ああ……」
そんな囁きがもれた初日。
それが朝昼夕食と三日続くに至って、ビンセントとグレゴリーは体型を維持するというよりも、明らかにやつれていた。しかも、やつれているのは二人だけではなく、ドラコもだった。
「ドラコ〜」
「ドラコ〜」
ビンセントとグレゴリーはひと目もはばからず泣いた。
「おなかすいたよう〜」
「おなかがすいたよう〜」
「チョコレート」
「マシュマロ」
「クッキー」
「ケーキ」
「飴」
「おせんべい」
「ういろう」
「サブレ」
「寒天」
「ババロア」
「羊羹」
「カステラ」
「スコーン」
「バタービール」
「ホイップクリーム」
「砂糖漬け」
「コンポート」
「食べたいよう〜」
「おなかすいたよう〜」
「飢えて死んじゃうよう〜！！」
こんな会話が延々と続き、しかもそれは深夜にまで続くのだ。
ドラコの睡眠不足は深刻だった。
パンジーたちスリザリンの女生徒による、二人の体型を維持するための健康管理は完璧だった。
四日目の夕食でもまた食事制限をされた哀れな二人を前に、ついにドラコの堪忍袋の尾が切れた。
「好きなだけ食べさせてやれ！」
ドラコの叫びに、大広間は静まりかえった。
「ドラコ〜！」
「ドラコ〜！！」
ビンセントとゴイルの瞳が神を崇めるかのように輝いた。
パンジーが悲鳴のように叫ぶ。
「何を言っているのよ！ せっかく二人がこんなにいい男だって分かったのに！ そりゃあ、ダイエットは最初がきついからかわいそうだけど、今までと同じ食事の量を取っていたら、あっという間にもとの姿に戻っちゃうじゃない。ドラコだって二人が痩せてかっこいいほうがいいでしょ！？」
「いいんだ！ 太っていても！」
「そんな……」
「僕は、こいつらが太っているときのほうがいいんだ！」
大広間はシーンとなった。
「デブ専……？」
ポツリと呟かれた言葉は、グリフィンドールの席からだった。
大広間はざわめいた。
ドラコが目をやると、慌てて口をつぐんだのはハーマイオニー・グレンジャーだ。
「グレンジャー……！」
彼女もこんなに自分の声が響くとは思っていなかったのだろう。顔を真っ赤にしてうつむいてしまっている。
「くっ！」
ドラコはグレンジャーを睨んだが、忌々しげに視線をそらした。
「ビクトール、グレゴリー」
ドラコは、二人の名を呼んだ。
「好きなだけ食え」
「うん！」
「うんっ！」
二人は両腕にしがみついていた女生徒を弾き飛ばした。
食堂の中はざわめいたままだ。
「デブ専だってよ……」
「デブ専ってなに？」
そんな会話と、二人が目の前のご馳走を片付けていく音だけが響く。
「ドラコ……」
パンジーが小さな声で聞いた。
「あなた太っているほうが好きなの？」
「……」
「私も太ろうかしら……。ねえ、太ったほうがいいと思う？」
「……」
知るか、とドラコは思った。
ドラコは肩の力を抜くと、テーブルに肘を立てて、組んだ手を額に当てた。
「グレンジャー……絶対に殺す……」
その呟きを聞く者はいない。
ドラコは安眠を手に入れ――。
そしてまた、デブ専という不名誉な噂をも手に入れることとなった。
ビンセントとグレゴリーの体型は、1週間後に元の姿に戻った。
了
2003.06.18