シリアス（シリウス×ハーマイオニー）
『望むもの』
夢を見た。
とてもとても幸せな夢を。
「シリウス！」
目を開けると、そこには今にも泣き出しそうな少女の顔があった。
わたしは瞬く。
一瞬、ここがどこで、彼女が誰であるのかがわからなかった。
「……ハー、マイオニー？」
夜の闇は静かにあたりを包み込み、天窓から入ってくる月明かりだけが室内を照らす。
わたしの肩は、四つん這いになった彼女に押さえつけられていた。身動きしようとすると、柔らかい布団が弾む。
ここは、冷気に包まれたアズカバンの石畳ではないのだ。苔むした石の壁、かび臭い空気、漂う汚臭、昼夜を問わず上がる悲鳴に呻き声。そんなものとは一切無縁の世界にわたしはいる。
「どうしたんだ……？」
彼女に揺り起こされたのだと気づいた。
アズカバンから逃げ出して一年、今はマグル界にあるハーマイオニーの家に身を隠していた。グレンジャー家のペットとして。
だが、犬の姿でいたはずが、いつの間にか人の姿に戻ってしまっている。アズカバンでは絶対にありえなかった。
「ハーマイオニー？」
「シリウス……」
彼女は肩から手を離し、寝台にぺたりと座り込んだ。
ハーマイオニーは、大きく息を吐いて肩の力を抜いた。泣きそうな表情はそのままで、彼女はわたしの腹の上に顔を伏せた。
「ハーマイオニー？」
「何でもないの……」
彼女が何をしたいのか、何を言いたいのかわからない。
「怖い夢でも見たのか？」
彼女の頭に手を乗せる。ふわりと、栗色の波打つ髪は柔らかく、触れているだけで気持ちがいい。わたしはハーマイオニーの頭を優しく撫で、上半身を起こした。
「ほら、おいで」
軽く身を起こした彼女の脇に手を入れて、幼児を抱き寄せるように持ち上げて引き寄せる。もうそろそろ１４歳になろうというのだから、一人前のレディとして扱うべきなのだろうが。
彼女が着ているピンク色のパジャマには、同じくピンク色の豚が――彼女が言うには犬らしいが――描かれていた。
わたしの足を跨ぐようにして座った彼女は、瞬きながら軽く笑い、鼻をぐずる。
「あのね……シリウス」
「なんだい」
「……抱いてもいい？」
「――」
わたしは瞬いた。
「それはわたしの台詞だけどね」
思わず苦笑が漏れた。
「泣き虫なお姫様」
ハーマイオニーは頬を膨らませた。何か言いたげだったが、小さな手で私の頭をつかむと、そのまま引き寄せられた。たちまち、柔らかい匂いと感触に包まれる。豊満というほど大きな胸ではないが、これほど優しい腕をわたしは他に知らない。
彼女の腰にそっと手を添えると、頭を抱く腕が軽く緩んだ。
「……あのね？」
「ん」
「私、シリウスが好きよ？」
好きよ――
彼女の胸の鼓動が高鳴る。
戯れではなく。
真実の言葉であることを物語る。
好きよ――
何度も言われた言葉だ。アズカバンに送られる前までは。
「……ありがとう」
彼女の「好き」が、人間として好きなのか、異性として好きなのかはわからない。だが、こんなにうれしいと思ったことはなかった。
「わたしもハーマイオニーが好きだよ」
こんな子供に好きと言われて浮かれているなど、昔の知り合いが知ったら笑い転げるに違いない。
「好き……シリウスが好き」
彼女が私の頭上に口づけているのがわかる。
祈るように――。
何かを堪えるように。
「ハーマイオニー！？」
頭上で漏れているのが嗚咽であることに気づき、わたしは彼女の身体を押して顔をあげた。
「ハーマイオニー！ 何で泣いているんだ」
「うぅ……」
ボロボロと、両目から溢れる涙に驚いているのはわたしだけではなかった。
泣いている彼女自身も驚いていた。
「ううう……っ」
うつむいて――膝に落ちる涙がパジャマを濡らす。
「ハーマイオニー」
わたしは彼女の顔を覆う髪をかきあげた。親指で瞼の上をなぞり、頬の涙をぬぐう。涙に濡れた髪が頬に張りついていたから、ひとつひとつ外して、彼女の耳にかけていく。
ハーマイオニーの両手は、ずっとわたしの胸元をつかんでいた。まるで、手を離したらいなくなってしまうと恐れているかのよう。それは、幼子が風の強い夜に両親の側を離れるのを怖がる仕草に似ていた。
「どうした……？」
彼女の前髪をかきあげ、両手で彼女の耳を挟むと、なだらかな曲線を描いた額に口付けた。
左の瞼に唇を押し当てる。
「私はどこにも行かないよ、ここにいる」
悪い夢でも見たのだろう、と思った。
闇の勢力との戦いははじまったばかりだ。まして、わたしは味方であるはずの魔法界からも追われている。彼女が不安に怯えても仕方がない。
「君のそばにいる」
「うそ……」
ハーマイオニーは首を横に振る。
「うそよ……」
「何がうそ？」
彼女の顎をつまみ、親指で擦った。しっかりと目線を合わせると、彼女は睨むようにわたしを見た。
「シリウスは死にたがってる」
はっきりとした声に、わたしは一瞬、息を飲んだ。
「……なぜ？」
「だって、そう思っている」
「……」
彼女を睨んだ。
「――なぜそう思うんだ」
「……」
「そう言ったもの」
「……いつ」
「……」
彼女の手が震える。止まった涙が、再び目に浮かんだが、下唇を噛みしめ、じっと堪えている。
わたしの問いに答えるつもりはないと、その態度が物語っていた。
なぜ急に――。
彼女の発言に戸惑い、真剣に悩んだわたしは、その理由に気づいて肩の力を抜いた。
「ああ……」
漏れたのは、苦笑。
「……口にしてしまったんだね？」
「……」
彼女が目を伏せた。
悪夢を見たのは彼女ではなく、わたしだった。
それで彼女がわたしを起こしたのだ。うなされたのか、とにかく、何か口走ってしまったのだろう。
「……すまない」
素直に謝ると、ハーマイオニーがわたしの両頬を挟むようにしてパンと叩いた。
「！？」
驚いて目を見張る。
痺れるように熱を持つ頬。
ハーマイオニーが怖いくらいに睨んでいる。
「え……と、ハーマイオニー……？」
「ハリーと私が貴方を助けたのよ」
「――ああ」
「貴方に死んでほしくなかった。生きていてほしかった」
「……ハーマイオニー」
「貴方が生きていて良かったと思ったのよ？」
「……ああ」
大切な人を殺され、友に裏切られ、仲間に疑われ、自分だけが生き残って。
「ハリーと一緒に暮らすんでしょう？」
ハーマイオニーが真っ直ぐに見つめてくる。
「……ああ」
「死なないで」
彼女は言う。何かを必死に堪えるように。
「死にたいと思わないで。死ねばよかったなんて思わないで。――死んでもいいなんて、絶対に思わないでよ……」
彼女の顔が歪む。
「殺してくれ……なんて、思わないで」
「ハーマイオニー」
「お願いだから」
「……ああ」
わたしはの頬を包む彼女の手に、自分のそれを重ねた。
「誓うよ……」
死んでもいいなんて思わないと誓う。
――それは嘘だ。
永遠に、自分は死を望み続けるだろう。それでも――。
これから先の未来。
ハリーとの未来、ハーマイオニーとの未来、仲間たちとの未来を望む気持ちも嘘ではなくて。
彼女の顔を覗き込むように首を傾けた。
「ハーマイオニー。わたしがまたそんなことを口走っていたら、今のように頬を叩いてくれるかな？」
思慮深い瞳が、真実を求めて真っ直ぐに見つめてくる。ああ、と思った。彼女はなんてよくリリーに似ているのだろう。
容姿がではなく、その心が。
やがて、こくりと彼女が頷き、大きく息を吸った。
「思いっきり叩くわ！」
その言い方がやけに自信満々だったので、わたしは少し考える。
「……お手柔らかに、と願いたいが」
「いやよっ！ 両頬が腫れあがるくらいに叩いて殴るわ」
「……顔が変形しそうだね」
「原形もとどめないくらいにね」
「それは……頼もしいね」
苦笑して、彼女の頬に口付けた。ハーマイオニーがやっと笑顔を見せる。
わたしは彼女の頬に手を添え、反応を確かめるように、ゆっくりと顔を近づけていった。
「わたしはもう大丈夫だから、安心しておやすみ。ハーマイオニー」
最初に鼻に口付けた。
軽く、触れるようなキス。くすぐったそうにハーマイオニーが笑う。笑う彼女の唇に、ゆっくりと唇を重ねた。
唇を重ねることが、こんなに緊張するものだとは思いもしなかった。まるで思春期の少年のようじゃないか。
ハーマイオニーが優しく笑った。
「シリウスも、安心して休んで」
その笑顔に、心からホッとして。
拒絶されなかったことに、こんなにも喜びを得ている。
「シリウス、私はここにいるから」
「……ああ」
涙が、出そうになる。
「ああ」
彼女を愛しいと思う。
だが、男としてではなく、あくまでも保護者として――守護者として彼女に接する。
大切に。
大切に――。
決して傷つけることのないように。
決して怯えさせることのないように。
自分の性を隠し続ける。
――欲望を。
でなければ、彼女はこんなに無邪気に接しては来ないだろう。
彼女が自分から離れていくことが、こんなにも怖い。若かったときの自分が、いかに傲慢で愚かな存在だったのかを思い知らされる。
女性は遊びの対象でしかなかった。
人をからかい、傷つけることに快楽を見出し、人の気持ちを考えることもなく、大人になっても、いつまでも子供だった。
ジェームズがリリーに対する思いも、面白がって見ているだけだった。その気持ちがまったくわからなかったのだ。
だが、今ならばわかる。ジェームズの気持ちが。
わたしは犬の姿に変わった。ハーマイオニーがにっこりと笑って首に腕を巻きつけてくる。それは男性に――ではなく、ペットに抱きつくのと同じ。その無防備さには微かな不安を覚えるが。
この安らぎが少しでも長く続けばいい――。
「おやすみ、ハーマイオニー」
「おやすみなさい、ブラック」
優しい言葉が身体を心を癒していく。
ジェームズ。
己の半身ともいえた存在。
この手で殺してしまった、一番大切な存在。それが直接ではなく、間接であったとしても、絶対に許されることじゃない。
許されようとも思っていない。
守ることが出来なかった。――それが罪。
夢を見る。
ホグワーツに入る前。
ホグワーツに入ってから。
ホグワーツを卒業してから。
仲間の裏切り。
赤い――赤い――ジェームズの身体。
転がる杖。
空間を割るようなハリーの泣き声。
突きつけられた真実。
記憶は何度も何度も同じ場面を繰り返す。
ピーターへの怒りだけで生きてきた。
ヴォルデモートを殺すために死ぬわけにはいかなかった。
その思いがあったからこそ、アズカバンで生き延びることができた。
わたしは何度も願った。
殺してくれ。
わたしを殺してくれ。
だがその一方で助けて欲しいと心の奥が叫んでいる。けれど、それを願うことは罪だ。
わたしは罰せられなくてはいけない。わたしにとって、死こそが救いであって、死を求めることは逃げているにほかならないのだから。
わたしにとって、生き残ることこそが償いなのだ。だからこそ、生き残っていることが苦しくて仕方がない。
確信していることがある。
もしも死が与えられるとしたら、その瞬間、わたしは笑っているだろうと。
生きたいと願い、死にたいと願う。どこまでも矛盾した思いの中で、今現在与えられているぬくもりに、涙が出そうになる。
このぬくもりを失いたくないと心から思う。
もう二度と、自分の目の前で大切な者を失わせたりしない。そのために今は生きている――。
大切な者を、これ以上失わせない――。
「ジェームズ……」
大切な友。
彼に会いたい――と、心から思った。
了
2005.02.09