『グロリアスワールド』





　そこには手を触れるのも憚れるような、古い本ばかりが並んでいる。その場所を好みながら、その本へと触れたことは一度もない。文字をひとつ読むごとに文字の中へとりこまれるような、そんな魔法がかかっているのではないかと、強く思い込んでいる。もちろんそんな魔法などありはしない。
　魔法界の連綿と続く歴史と等しく、彼の家名も今に続く。純粋な魔法族の血を、と願い、求めた家は、いまは両手の数ほども残ってはいない。今に残る彼の家は、それ故に稀少価値を増し、それ故に魔法界に傲然と頭をもたげている。純粋は透明から遠く離れ、濃く、密に、その血を凝縮した。しかし、清すぎる川に魚が棲めないように、マルフォイの血は酸の血潮となった。
　図書館の奥深くは、ホグワーツのなかでもクラシカルな神秘に満ちている。エンターテイメント的な魔法の派手さではなく、人がもともと備えている素朴な力が凝縮したそれが、彼の中の血を揺さぶるのだといってもいい。しかし同時に彼は、血が優秀な魔法使いをつくるのではないことも改めて感じなければならなかった。その証拠があの雌獅子だ、と彼はその名を呟く。
　彼女に感じるのは負の感情ばかりで、同情も憐憫も欠片も感じ得ない。邪魔だと思いこそすれ、存在の抹消を惜しむことはない。うるさいばかりの存在だ。むかしも――いまも。
　本棚をひとつ隔てた向こう側から、すすり泣く声がするのは気のせいではなかった。ホグワーツに多く存在するゴーストのひとりではないことも確かだ。何よりその声に聞き覚えがあったから。
　壁についた椅子に腰かけて、背後の窓から入る陽射しを灯りに、薬学のレポートの資料を読んでいた彼は、ひとつ溜め息をついて言った。
「グレンジャー、少し静かにしてくれないか。君の声がうるさくて集中できないんだが」
　驚愕する気配がして、彼は思わず小さく笑みを刻んだ。
「……まさか、マルフォイなの？」
「そのマルフォイさまさ」
　茫然と神に祈る声がかすかに響く。魔女が神に祈るなんて筋違いじゃないのか、と疑問が脳裏を掠めた。
　彼女が誰に泣かされたのかなど知らないし、尋くつもりもない。自分はここにいたのだから、大方スリザリンの誰かに言われたのだろうが、そいつを褒めようとも思わないし興味もない。
　本棚の向こうで立ち直った雌獅子が、小さな声で悪態をついている。淑女が口にするせりふじゃないな、と悪態の数々に彼は呆れた。
「まったく！　どうしてスリザリン生は根性曲がったやつばかりなのよ。信じられないわ」
「おい、陰口ならグリフィンドールに帰ってからにしてくれないか。僕もその根性曲がったやつばかりの寮にいるんだからな」
「あなたの根性が曲がってるですって？」
「君の言によればな」
　ふたりの関係とはまるで反対の、やわらかい陽射しが本へと降り注ぐ。古い紙は厚く手触りが心地よい。彼はページを手繰るのも楽しく思っていた。
「あなたには根性曲がりなんて言葉は生ぬるいわ！　そんなんじゃ全然足りないわよ！」
　ヒステリックに、それでも図書館という場所柄をわきまえてか低く、彼女は叫ぶ。
　ほう、と彼は興味深そうに相槌を打ち、めまぐるしく感情をかえる少女に可笑しくなる。
「……あなた、何か今日変よ。具合でも悪いの？」
「いたって健康だ。僕の体調まで気遣ってくれて嬉しいよ、お優しい首席殿」
「前言撤回。あなたはいつもと同じく、いたってドラコ・マルフォイそのままよ」
「それ以外にはなり得ないからね」
「…………」
　ふと、沈黙が降りた。
　気にしているのかと、マルフォイは意外に思った。
　常から噂のあったルシウス・マルフォイがデスイーターであるという疑惑が疑惑でなくなり、マルフォイのホグワーツでの立場は微妙なものになった。父親の威光が翳り、マルフォイのその立場も地に落ちて久しい。そのことに憤ったこともあったが、それも今となってはどうでもよいことだった。自らが口にしたように、ドラコ・マルフォイはそれ以外になり得ないのだから。
　グリフィンドールの三人組との関係は、今も昔も変わらず険悪だ。歩み寄ることなどどちらも考えられなかった。だからグリフィンドールの三人も、自分と同じく気にしていないのだろうとマルフォイは思っていたのだったが……
「君に気にしてもらうようなことじゃない。財産はいくらか凍結されたが、困らない程度には残っている。まあ、父のことがあるから就職するのは難しいだろうが、僕は善くも悪くもマルフォイでスリザリンだ。どうにでもできる。ホグワーツにいれば父のお仲間もそう簡単に手出しはできないし、卒業まで僕の安全は保障されている。授業は今までと変わらず受けられる、食事もある、寝床もある。他に何か問題があるか？」
「……就職するの？」
　どこか驚きを含んだ声に、マルフォイは当たり前だと短く返す。
「あなたが、働くの？」
　想像がつかないらしい。
「働かないでどうやって暮らすんだ。さっきも言ったがマルフォイ家の財産は凍結されているんだぞ。事の次第によっては家屋敷も没収される」
「……そう、よね…………そうなんだ……」
　頭がいいくせにどこか抜けている。マルフォイは小さく息をつくと、レポートに必要な箇所に付箋を貼ってページをめくった。ぱらりと紙の乾いた音と同時に、
「あなたって以外としっかりしてるのね」と、感心する声がマルフォイの耳に入った。
　思わず目を剥いて、彼女がいる方の本棚を凝視する。彼女の姿は本に隠されてしまっていて見えないが、あのふわふわと広がる髪がこの陽光にきらきらと輝いているだろうことは想像に難くない。彼はしばし口を開けて惚けていたが、くつくつと声を抑えて笑い出した。
「ちょっと……なんで笑うのよ。誉めたのよ？」
「これが笑わずにいられるか」
「なんですって」
　むっとした声がして、どんと棚が揺れた。
「おい、棚を揺らすな。危ないだろう」
「ちょっと寄りかかっただけよ。これくらいで、こんな重い棚が倒れるわけないじゃない」
「いや、君は勢いがありすぎる。もう少し淑女らしく振るまいたまえ」
　もう一度なんですってと声があがった。けれど次に聞こえたのはやわらかい笑い声だった。
「なんだ笑ってるのか」
「これが笑わずにいられるか」
　気取った声にマルフォイが鼻を鳴らす。
「それはまさか、僕の真似をしているんじゃないだろうな」
「似てなかった？」
「似てない」
　本棚ひとつを隔てた場所で、ふたりは同じように笑いあって空を見上げた。大空を統べる色は澄んだ水色、白い雲がゆっくりと流れる穏やかな天気。
「ねえ、マルフォイ」
「何だグレンジャー」
「あの、そっちへ……」
　途切れた言葉にマルフォイは続く言葉を想像した。まあ、こんなことがあってもいいだろう。世界は常に変化している。マルフォイの血が変化するのもおかしくはない。今まで変化しなかったことの方がおかしいくらいだ。本を閉じて、彼女が寄りかかっているだろう本棚に近づく。
「こっちへ来るか？」
　数瞬の沈黙のあと衣擦れの音がし、次いでおずおずと本棚からグレンジャーの顔がのぞいた。かすかに目が赤いが、まだわずかに濡れた瞳が細められているのは愛らしい。
「グレンジャー知ってたか？」
「何を？」
「君はそうしていると案外魅力的だぞ」
「あなたもそうしてると案外いい男よ」
　当然だ、と返す声が笑みを含んでやわらかい。