ジェームズ×リリー
『眼鏡』
ドンという音と、キャという声が重なった。
回廊の曲がり角で、ジェームズ･ポッターとリリー・エバンズがぶつかったのだ。
それに続いて、カシャンという音と、ウワッという声が重なり、最後にパリーンという音と、ゲロゲロという鳴き声が響いた。――ぶつかった反動で倒れそうになったリリーを支えたジェームズから眼鏡が落ち、リリーが持っていた箱から大量のカエルが飛び出し、驚いたジェームズが眼鏡を踏みつけたのだ。
ゲロゲロと鳴くのはもちろんカエルだった。
カエルたちは「チャンスだ野郎ども！」とでもいうかのごとく、四方八方に散っていく。
リリーが小走りであったにせよ、ジェームズの反射神経をもってすれば彼女を避けることは簡単だった――が、とっさに相手がリリーであることに気づいたジェームズが、わざと避けずに彼女を受け止めたのだった。
予想外だったのは、リリーが運んでいた箱の中身が大量のカエルだったということだけで。
「エバンズ、大丈夫かい？」
ジェームズは、リリーの耳元でわざと囁く。
「ポッター……！」
はじけるように顔を上げたリリーに、ジェームズはにっこりと笑った。
「前を向いて歩かないと危ないよ」
「え、ええ……」
ジェームズの胸に抱き寄せられているリリーは、真っ赤になりつつ、両手でぐいぐいとジェームズの胸を押した。
ジェームズはやや残念そうな顔をしたが、あっさりとリリーを放した。
「カエル、逃げちゃったけどいいの？」
「あ！」
リリーは慌てて足元を見回した。落ちているのは運んでいた白いボックスだけだ。
呼び戻し呪文をかけるには生物は危険すぎた。深海から魚を急に引き上げると目が飛び出したり内臓が破裂するように、アクシオを使うとそれと同じことが起こる。ガックリとうなだれたリリーに、ジェームスは申しわけなさそうに謝った。
「ごめんね。僕がちゃんと避けていればこんなことにはならなかったのに……」
驚いたのはリリーだ。
「ちがうわ！ 私のほうが悪いの。急いでいて、前を見てなかったのよ、ごめんなさい」
リリーは、頭ひとつ分は高いクィディッチのエースを見上げたが、ふと、違和感を覚えて瞬いた。
癖のある前髪の下には、ハシバミ色の瞳。
傲慢で見栄っ張りでわがままで、すごく嫌なやつだけど、いつでも真っ直ぐに、真剣に、リリーが戸惑うほどその思いは如実に伝わってくる。
目が合うと、いつもうれしそうに優しく細められる瞳。
「あ――」
違和感の元に気づいて、リリーは口をあけた。
「眼鏡が――」
「ああ――」
ジェームズは苦笑した。
「気にしないで、すぐに直せるから」
直せる、という言葉にリリーが瞬くと、ジェームズが右足を上げる。リリーはやっと眼鏡の破損に気づいた。いや、破損どころか、全壊だ。フレームは曲がり、ガラスも割れ、留め金も外れている。
「ごめんなさい！！」
リリーは慌ててローブの中から杖を取り出した。優雅な手つきで、ス――と杖を振る。
「レパロ！ 直せ！」
割れた物を元の姿に直す呪文が、綺麗に響く。
フレームや、細かく割れたガラスの破片が空中に持ち上がった。それは、まるで映像を逆戻りするかのよう。最初にガラスのパズルが完成し、曲がったフレームも綺麗な曲線を戻して、最後は外れた小さなネジがドライバーを使わずに自動的に回って閉まった。
すっかり元の形に戻った眼鏡は、リリーの手の中に羽が落ちるようにおさまった。
安堵の表情を浮かべて、リリーは眼鏡の状態を確かめる。スカートのポケットからハンカチを取り出すと、ガラスを拭いて汚れを取った。
「本当にごめんなさい」
「こちらこそ」
ニッコリとジェームズは笑う。
「直してくれてありがとう」
リリーから眼鏡を受け取り、いつものようにかける。そして――。
「あれ？」
と言った。
「度が入ってない」
「え！」
リリーは驚き、眼鏡を受け取ると自分でもかけてみる。確かに、度が入っているようには思えなかった。
「そんな……。呪文が失敗したのかしら……」
不安そうに眉を寄せるリリーに、ジェームズはくすりと笑った。
「もともと特殊な呪文が眼鏡にかけられていたんだ。そうだな……ホグズミードの眼鏡店に出せば元に戻ると思う」
「お金は出すわっ！」
「いや――保証が効くからそれは大丈夫。でも、困ったな……」
ジェームズは考え込むように視線を走らせると、ス――と、リリーに顔を近づけて視線を合わせた。
「これくらい近づかないと君だとわからない」
「――ぁ」
顔を紅潮させたリリーが反射的に一歩下がった。
「あの……替えの眼鏡は……」
「これだけなんだ」
「……」
リリーは泣きそうな顔でうつむいてしまう。どうしよう、と一生懸命に考えているのがわかった。そんな様子がどうしようもなく可愛らしくて、ジェームズは身を起こすと小さく笑った。
「ありがとう」
ジェームズの優しい声に、驚いたリリーが顔を上げた。なんでお礼を言われるのかがわからない。怪訝そうなリリーに、ニヤリと笑って肩をすくめてみせた。
「修理に一週間、その間、クィディッチを休める口実が出来たわけさ！ ラッキーだよ」
「でも、そんなに目が悪かったら授業だって困るでしょう……？」
「そうか……それは困ったな」
「そうだわ！ 私のノートを見せてあげる。私が書き写してもいいし」
「そうなると、動く階段も危ないか……」
「手を引けば大丈夫！」
リリーが真剣な表情で拳を握る。ジェームズは内心で笑い、リリーに向かって右手を差し出した。
「じゃあ、それで」
「ええ」
リリーはジェームズを握手を交わす。
「眼鏡が直るまでの一週間、私を手足のように使っていいわよ」
「それは頼もしいね」
ジェームズがウインクをした。女生徒の大多数が頬を染めて嬌声を上げそうな笑みだったが、リリーは戸惑い、視線をそらした。ジェームズは少し悲しそうな表情を見せるが、次の瞬間には普通の表情に戻る。
「カエルはすぐに必要だった？」
「ううん、特には……」
「だったら、眼鏡が治ったら、カエルを集めるのを手伝うよ」
リリーはジェームズを見て、肩の力を抜いた。ふわりと、柔らかい笑みが口元に浮かぶ。リリーは目を細めて、はにかむように笑った。
「ありがとう――」
ジェームズも笑う。
「どういたしまして」
――――その、一連の流れを見ていたシリウスは――ジェームズと一緒にいたのだ――眼前で展開されたやりとりに呆れつつ、親友の企みを知ると、楽しげに眉を上げた。
リリー・エバンズがジェームズ･ポッターの手を引いて授業を移動したり、授業中も細かいサポートをしているという噂は、その日のうちにホグワーツ中に広まった。
二人は付き合いだしたのか――当事者たちに直接聞けない質問は、当然、ジェームズの親友であるシリウス・ブラックへと向かう。
シリウスはありのままを語った。
ジェームズの眼鏡をリリーが壊してしまったこと。修理に出す間、リリーがその手助けをしているに過ぎないと。
ジェームズを慕う女生徒は安堵し、それは、リリーを慕う男子生徒にしても同様だった。
数占いの授業中、黒板により近い最前列の席にジェームズとリリーは座っていた。ジェームズがリリーに顔を近づけて小声で話すと、冗談でも口にしたのか、リリーが口を拳で押さえて小さく笑う。「もう、真面目にやって！」とリリーがジェームスを叩く。はいはい、とジェームズが嬉しそうに笑った。
「幸せそうだね……」
同じ授業を受けているピーター・ペティグリューがポツリとつぶやいた。その隣で、リーマス・ルーピンがあきれたような溜め息をつく。
「バカップルぶりを見せつけて、リリーを好きな男どもを牽制しているのが見え見えだね」
前の席では、シリウスが腰を低くかけながら、長い足と腕を組み、面白そうにジェームズたちを見ている。三人ともジェームズたちとは離れた後方の席に座っていた。
リーマスは前かがみになると、シリウスの真っ直ぐな黒髪を引っ張って囁いた。
「で？ 本当はどういうわけ」
「なにが」
「すっとぼけてもだめだよ、シリウス。なにあれ」
「見たまんまだろうが」
「ジェームズの眼鏡が壊れたって？」
「……ああ」
「――で」
リーマスは目を細めた。
「ジェームズはいつから視力が弱くなったの？」
え、とつぶやいたのはピーターだった。シリウスは無言を通している。
ピーターは、シリウスとリーマス、ジェームズを順に見て、声をひそめた。
「でも眼鏡……」
「だから。ジェームズの眼鏡は、もともと度が入ってない」
「ええっ！」
声を高くしたピーターの頭をシリウスがすばやく本の角で叩いた。ううう〜と、頭を押さえて唸るピーターを横目で見て、リーマスは声を低くした。
「あれ、伊達メガネだろ」
「知らないな」
「……ふうん」
「……」
「なるほど」
ふふ、とリーマスは笑った。
「じゃあ、そういうことにしておいてあげようかな。ピーター、君もこのことは忘れる。――いいね？」
「うん」
「きっと、あとでジェームズが美味しいチョコレートケーキを奢ってくれるよ。――ね、シリウス」
なんで俺にふるんだ俺に、とシリウスは思う。
「ね」
「グエ」
ネクタイを後ろから引っ張られて、首が絞まったシリウスがカエルのような声を上げた。ネクタイを奪い返す。
「犬じゃねえぞ！ リーマス！」
「わんこなくせに」
「わんこ言うなっ」
「ミスター･ブラック」
「あ――」
数占いの教授の声だった。シリウスが振り返ると、教壇で白髪の目立つ老婦人が、開いていた教科書を両手で閉じた。
「グリフィンドールは５点減点」
教室内を軽い笑いが走る。
なにやってんの、という目でジェームズが見ている。隣には同じ表情のリリー。
「……」
シリウスは溜め息をついた。
了
【親世代好に57のお題／030】
2005.04.08