同年代設定
『風の道』
「……ル！」
深い森を抜けると、小高い丘が広がる。そこには樹齢１００年という太い幹の針葉樹が一本だけ生えている。
その幹に寄りかかっていた青年は、確かに自分を呼ぶ声を聞いて軽い舌打ちをした。
「サラザール！」
溜め息をつき、青年――サラザール・スリザリンが顔をあげると、光の加減によっては銀にも見える漆黒の髪がさらりと揺れた。
成長期を過ぎてから伸ばしはじめた癖ひとつない真っ直ぐな髪は腰よりも長く、結わずに背に流していた。
２０代の半ばになろうしていたが、雰囲気はそれ以上の年齢を感じさせる。嫌悪以外の感情をあらわすことの少ない顔は、「笑えば１００人中９９人が見惚れる」と言われるほど秀麗だったが、もちろん笑わずとも人目を引く容貌だった。そのかわり「１００人中９９人は視線をそらす」と言われるほど険悪な表情をしている。いや、表情というよりも、目つきや雰囲気がそうなのだ。常に闇を背負っているような印象を相手に与える。
サラザールは寄りかかっていた木から離れた。
長身で細い身体つきにも関わらず、ひょろ長いという印象は与えない。温和とは程遠い、鋭い切れ長の目が、声の主――森の中から現れた少女を捕えた。
「サラザール！」
「聞こえている……」
ぼそりと呟いた。声質は低いが、風に流れる声はよく通り、少女が、遠目にも大きく笑ったのがわかった。
綿毛のような淡い色の髪を跳ねるように揺らして、小柄な少女――ヘルガ・ハッフルパフが駆けて来る。少女――といってもいいのだろうか、年齢だけならサラザールと同じであるはずなのに、彼とは逆にかなり若く見られてしまう。童顔ということもあるだろうが、その身体の内から発する気がとにかく若い。
「よかった、そこにいたのね！」
そんなに慌てているとまた転ぶ、とサラザールが思ったとき、案の定、ヘルガの爪先が盛り上がった土に引っかかって身体が傾いた。
「――！」
「きゃあ……っとっと……！」
両手を左右に広げてバランスをとり、なんとか転ばずに体勢を立て直したヘルガは、手を広げたまま立ち止まる。
「あっぶなーい」
少女は、サラザールの視線と合わさると「えへへ」と笑った。
サラザールは溜め息をついて、再び幹にもたれかかった。
ヘルガはスカートをたくし上げ、大またでゆっくりと歩いてくる。サラザールは彼女から視線をそらした。サラザールの視線の先――森と反対側にあるそこには、大きな湖が広がっている。
心地よい風が彼の髪を揺らす。
大地は緑に覆われ、湖も青く輝く。
空は高く青く。
夏が始まろうとしていた。
「探しちゃった。急にいなくなるんだもの。子供たちは先生がどこに行ったか知らないっていうし」
サラザールは、ヘルガがとなりに立った後も彼女を見ようとはしない。
身長が１８５センチあるサラザールに比べて、ヘルガは３０センチも低く、目線を合わせて会話するには、少女が顔をあげるか、青年が座るかしかなく。
だが、ヘルガもそれを気にした様子はないまま話し続ける。視線は湖に。
「フラワーちゃんは元気かな」
ヘルガの言葉に、サラザールの眉間に皺がよった。
ヘルガは小首をかしげながら、目を凝らして何かを探す仕草を見せた。
サラザールが溜め息をついた。
「イカに変な名前をつけるな」
あら、とヘルガはサラザールを見上げて笑った。
「ロウェナは良い名前ねって言ってくれたけど」
「……」
青年が口の中で呪いの言葉を呟く。ロウェナ・レイブンクローならば、ヘルガが変容させた――本来「海」に棲むはずの生物になんと名付けようとそう言うだろう。おそらく、他人が名付けたのであれば小馬鹿にするに違いない。
ヘルガは腰をおろして膝を丸める。視線は湖に向けたまま、両手で王冠を作って指を動かした。
「だって、イカの足って花びらみたいでしょう？」
「……」
「ね？」
「俺に同意を求めるな」
くすりとヘルガは笑う。
「ヘルガ。……何のようで来たんだ」
ヘルガは、黒に近い深緑の瞳を輝かせて、目を細めた。
あのね、と笑う。
とてもうれしそうに。
「ここに決まったわ」
それはとても静かな声で。
「それを伝えにきたの」
「……」
サラザールは、なにが、とは聞かなかった。
足元から返ってくる優しく穏やかな笑みをただじっと見つめた。
「良かったね」
「……」
サラザールは上半身をかがめた。前髪が顔を覆い、たちまちその表情は見えなくなる。
「……寝る」
「あ、うん」
ヘルガは木の幹を背に、慌てて草の上に腰を下ろした。ふわりとスカートが舞い上がり、それを押さえると、太ももを叩いた。
「はい」
「日が暮れる前に起こしてくれ」
「うん」
昔、同じような状況で「いつ起こせばいいのかわからなかった」と、深夜になって目覚めたことのあるサラザールが、起きる時間を指定する。
サラザールは慣れたように腰をおろして、身を横たえると、ヘルガが用意した枕に頭を乗せた。その表情は、彼を知る１００人中９９人が驚くほど穏やかで。
ヘルガは声に出さずに笑った。
自分の髪がサラザールの顔にかからないように、後ろでひとつにまとめる。
「……良かったわね、サラザール」
ヘルガは、そっとサラザールの頬にかかる黒髪を払いのけた。そのまま、髪を梳くように髪の流れに沿って手を動かした。
ふたりがまだ幼い頃。
最初は二人の少年が抱き、やがて二人の少女も抱いた夢の、第一歩。
ヘルガは、丘に吹く風に目を細めた。
「気持ちがいい風……」
未来へと続いていく風。
ヘルガもまた目を閉じ、背をそっと木にもたれかかった。
やがて、ここで多くの魔法使いの卵たちが育っていく。
ひとりの魔法使いに弟子がつく――その時代は終わろうとしている。
人間と身近であった能力者は、いまや人間たちに異端として追われる身となってしまった。
キリスト教にとって、異教の力を使う魔法使いは弾圧の象徴だった。
正しく受け継がれて来ていた魔力の血が、その血を潜めることによって消えつつある。
人の血が混ざり、その子供は、自分が魔力を持つことを知らずに育つ。
専門の知識をもった者に魔術の基本と知識と力の制御を学び、さらに最大の目的――魔力を持つ者を保護する場所が必要だった。
最初はひとり、ふたり。
そして、百年、二百年、千年と続いていくだろう、夢の学び舎。
この地に、巨大な学校を作る。
「やっと……」
ヘルガの呟きは風に流れた。その口元に浮かぶのは笑み。
――夢がかなう。
ヘルガは目を開けて、風に笑う。そして愛しげに呟いた。
「ようこそ、ホグワーツへ」
風が言葉を運ぶ。
千年後の今も、きっと変わらない風が吹きつづける。
そして、そこにいる者たちにヘルガの祝福を与えてくれるだろう。
了
2003.06.02