ネジ×ヒナタ
６、痴話げんか
中天の太陽が傾きかけている。
キュイ――という鳥の鳴き声に顔を上げ、それが伝令ではないことを確認すると、オレは陽光のまぶしさに目を細めて宗家の門をくぐった。
このところ立て続けに任務が続き、この門をくぐるのは久しぶりだった。
予め来る事は伝えていたのだが、玄関にたどり着く前に同じ分家の者から宗家当主が五代目に呼び出されて不在であることを知らされた。
上忍就任を報告に来たのだが、この分だと五代目から直接聞かされてしまっているだろう。
苦笑するような思いで火影岩を見上げる。
どちらにしろ、自分でも報告に来なくてはいけない。一旦帰ろうとしたオレを引き止めたのは、穏やかな笑みを浮かべた少女だった。
「ネジ兄さん」
「ヒナタ様」
自然と笑みが漏れてしまう。
日向ヒナタ。ずっと短くしていた紫紺の髪は、ここ二年で背の半ばほどにまで伸びていた。
お久しぶりです、とオレは目を細めた。
「お元気でしたか」
「う、うん。あの……あのね」
おどおどとした仕草は昔から変わらない。昔はそれが怯えているように思えて苛々としたものだが、ただ人と話すことが恥ずかしいだけなのだとわかれば落ち着いて彼女の言葉を待つことができた。
「すぐに帰ってくるので、待ってもらうようにと父が」
そう言って、彼女は指をくるくるといじった。
「でも、いつ帰ってくるかわからないから、忙しいなら……」
「いいえ」
オレは笑い、彼女に持っていた風呂敷包みを渡した。
「待たせてもらいます」
「うん」
包みを受け取った少女は、ホッとしたように笑った。
座敷でただ待つのも退屈だと、宗家の屋外修練場で汗を流そうと思ったのだが、あいにく土を均しているので使用できないという。
仕方がない、とオレは中庭が見える縁側へと腰を落ち着けた。
中庭に植えられた一本の木に鳥が集まっている。
ここへくると、いつも昔のことを思い出す。オレがまだ幼く、父が生きていたころのことを。
それは長い間辛い記憶でしかなかったが、今では優しい思い出へと変化を遂げていて、その懐かしさに笑みさえこぼれるようになっていた。
物の見方や心構えひとつで、人の思いとはこうも変われるものかと、おそらく誰よりも驚いているのは俺自身だ。
「ネジ兄さん……」
遠慮がちな呼びかけに顔を向ければ、お盆を手にした少女が廊下の端に立っていた。近寄ってもいいものか躊躇った様子に俺は笑う。
「どうぞ」
彼女をまとう空気がやわらかくなって、足音もなくすうと近づいてくると、おっとりとした仕草で腰を下ろして正座した。湯のみと菓子器を俺のそばへと置くと、そのままお盆を胸に抱いて俺と同じように中庭を見つめた。
ちらちらとオレを気にしているのがわかる。
オレは苦笑した。彼女が何を気にしているのかはわかっていたが。
「なにか？」
「上忍に就任……したの？」
下忍から中忍になるのとは違い、上忍となるのに公開試合といったものはない。それ相応の実力と実績、複数の上忍の推薦とそれを火影が認めればいいだけだ。しかし当然、そう簡単になれるものではなく、半期にひとり上忍が誕生すればいいほうだという。
「ええ、おかげさまで。正しくはまだ特別上忍ですが」
「おめでとうございます」
上司に対する配慮からか、敬語を使う彼女がほほえましい。俺は気楽に笑って頭を下げた。
「ありがとうございます。――オレに敬語を使う必要はありませんよ」
彼女はふわりと笑った。
「すごいね」
先日、中忍となったばかりの彼女が心から称賛してくれているのがわかる。
「ヒナタ様も中忍昇格おめでとうございます。あのときの怪我はもう癒えたようですね」
白眼をもってすれば、体内の気の流れがわかる。二日前に彼女を見かけたときにはすでに中忍試験で傷ついた左腕で淀んでいたチャクラは正常に流れていた。
「サクラちゃんが毎日来てくれたから」
「ああ……」
オレと同じ時期に中忍となった春野サクラは、五代目火影の愛弟子として確実に医療忍者への道を歩み始めている。いまだ中忍だが、実力だけなら上忍となってもおかしくはない。
「ヒナタ様も負けていられませんね」
「…うん」
声に元気がない。どうしたのだろう、と彼女を見た。以前よりも身体に丸みを帯びてきたが、テンテンのような化粧っけはまったくなく、容貌はいまだ幼さが抜けていない。
「……名前」
ポツリと、彼女がつぶやいた。
「呼んでくれないね」
「は？」
湯飲みを手に、俺は小首をかしげた。
「誰のです」
「……私の」
俺は瞬いた。――名前？
「ヒナタさま」
――と、いつもそう呼んでいるが。
彼女は少しだけ不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。髪は伸ばしているが、額の上でまっすぐに切りそろえられた前髪だけが変わらない。幼く見えるのはそれが原因かもしれない。
ふと、彼女が幼いころから短くしていた髪を伸ばしている理由が気になって、それを聞いてみようかと思ったときだった。
「呼び捨てにしてくれない」
「はい？」
「名前」
ああ、とオレは破顔した。
「ヒナタ、――と？」
「――」
彼女の頬が染まっていく。こくっ、と勢いよくうなずいた。
「みんなには呼び捨てなのに、どうして私にだけ様をつけるの」
にらむように俺を見つめてくる。
風が吹いて、日向一族特有の癖のないまっすぐな髪がさらりと音をたてた。髪質はやはりオレと同じ――だが、手を伸ばして触れたくなってしまう。
オレは彼女から視線を外した。
「それはできませんよ」
「――なんで？」
疑問というよりも、怒ったように。
「私が宗家だから、だから敬語なの？」
「ヒナタさまだってオレのことを兄さんと呼ぶでしょう」
「だってそれは……！ 年上だし！」
「ヒナタさまがオレのことをネジと呼び捨てにしてくれるなら、オレも敬称はつけませんよ」
「そんなのずるい」
むう、と眉を寄せる。その表情があまりにも可愛いので、思わず顔を背けて笑ってしまった。
「ネジ兄さん！」
背中をお盆で叩かれた。
はは、とオレは声を出して笑ってしまう。
「何でそんなことにこだわるんですか」
「ヒナタって呼んでほしいだけ」
「じゃあオレのこともネジと呼んでください」
う、と彼女は詰まる。
「それは……だめ」
「どうしてですか」
「だめ」
オレはくすりと笑った。
「簡単でしょう」
「簡単じゃ…ない、もの」
「ネジ。二文字ですよ？ ほら、簡単です」
「ヒナタ。私だって三文字だよ」
「オレのほうが短い」
「じゃあ、私もヒナでいい」
「ヒナさま？」
「〜〜！」
彼女はまたお盆でオレを叩いた。
まるでイタチごっこだ。
「もう知らない」
ぷいと、頬を膨らませて彼女はそっぽを向いた。
その視線の先に、ひとりの少女が腰に手を当て立っていた。十歳になったばかりだがすでに下忍となっている少女は、呆れたように半目となってオレたちを見ていた。
「ハナビ」
妹の姿に、姉の声が優しく響いた。
宗家の跡目を姉妹が争うという状況下にあっても、姉の中には妹に対する憎しみや嫉妬というものは存在しなかった。
「お邪魔でしたでしょうか、姉上」
「ううん、なあに？」
「父上がお帰りですよ。ネジを呼んでいます」
視線はにらむようにオレを見ている。
本当に姉妹なのかと思いたくなるほど、すべてにおいて対照的な二人だった。妹のほうはこうしてオレを呼び捨てにするのに、なぜ姉だけがそれを拒むのか。おそらく、ヒナタ様もそのことに気づいたのだろう、複雑な表情でオレを見る。
オレは再び声を出して笑ってしまう。とたん、真っ赤になった少女は再びお盆でオレを叩いた。
「ネジ兄さん……っ」
「すみませ……」
口を拳で押さえ、吹き出すのをこらえるように小さく頭を下げる。
リーやテンテンがこんなオレを見たら驚くに違いない。
何に対しても関心を示すことがなく、笑うということもなく、笑い方さえも自分で忘れてしまっていたと思っていた。
それなのに。
「ネジ兄さん、ひどい。もう笑わないで…っ」
「はい」
彼女に対しては、自然と顔がほころんでしまうのだ。そう、まるで、初めて彼女に出会ったときのように。
再び漏れそうになる笑いを隠すように、オレは彼女から視線を外した。
「ヒアシ様が呼んでいるので行かないと」
視線を感じて顔を上げれば、ハナビ様がにらんでいる。
オレはそれを無視して立ち上がると、ヒナタ様に手を差し出した。
７、名前
「またネジ兄さんと一緒の任務があるといいのにな」
応接間に向かう廊下の途中で、ヒナタ様がくすりと笑った。
彼女と一緒に作戦行動を取るような任務は今までに二度、ＢランクとＡランクの、いずれも人員を多く必要とする合同任務のときだけだ。
オレが中忍で彼女が下忍で、だからといって私情を挟んで彼女を守ったり、特に会話を交わすようなこともなかった。
確かに以前はオレと顔を合わすだけでもびくりと怯えた様子だったことを思えば、格段に進歩したといえるのかもしれない。
「どうしてです」
不思議に思っていると、少女は小さく笑う。
「任務のときはヒナタって呼んでくれるから」
「……」
オレは呆れた。
まだこだわっているのか。てっきり先ほどで話は終わっていたと思ったのに。
「上司なのに部下を様付けするわけにはいかないでしょう」
「うん」
彼女は笑う。
「だから嬉しい」
「そうですか」
オレは微苦笑をもらした。
――もしかして、様付けされることを嫌味と思われているのだろうか。
ふと浮かんだ疑問に、オレは彼女の横顔を見つめた。凛とした横顔に揺るがない瞳。
任務のときは彼女をひとりの忍として対等に扱うが、それは誰よりも彼女自身が望んでいたことだ。もし彼女をフォローする者がいるとすれば、それはオレではなくキバやシノであるべきで。
足手まといになるのではなく、少しでもみんなの役に立ちたいと願い、常に努力している彼女は立派なくノ一になっている。
歴然とした力の差を前にして、死の寸前であっても諦めずにひるまないその心。
――オレは、すでに初めて彼女と戦った中忍試験のときから彼女を認めているのだろう。
今でも彼女を守りたいとそう思う心に変わりはなく、いや――むしろ、以前よりも強くそう思うようになっている。
だが。
彼女はオレと一緒の任務が嬉しいというが、オレはその逆だ。もし、彼女が敵に捕らわれたらと思うと背筋が凍る。
任務を取るのか、彼女の命を取るのか。それを選ばなくてはいけない状況になったとき、オレはどうするのだろう。
――もし、彼女の額にも、呪印術が刻まれていれば。
それは決して望んではいけないことだ。それでも、近頃はそれを強く思うようになった。
確かなことはただひとつ。
もし、彼女の額にオレのように呪印が刻まれたなら、オレは彼女の名を呼び捨てにすることができる――。
宗家の跡目をハナビ様に譲れば、同じ分家として、彼女と対等の立場で対等に話すことができるようになる。
「ネジ兄さん？」
きょとんと、不思議そうな顔でオレを見上げる少女。
問題は、オレが守りたいのはハナビ様ではなく、彼女だけだということだろう。
「どうかしたの？」
彼女に跡目になってもらいたいという思いと、同じ分家になってもらいたいという思いの狭間で、心が揺らぎ続ける。
「なんでもありません」
オレは静かに笑った。
了
【ナルト字書きさんに25×4で100の課題】
2006.05.15