紫呉×透 　　　『熱』 　深夜。 　山の中に建つ一軒の普通の民家の玄関先に一人の男性が立った。今は新月、空に月明かりはなく、星も見えない。恐ろしいくらいの暗闇だった。不用心にも鍵をしていなかったのか、玄関の戸は静かに開き、男はただいま、と声に出さずにつぶやいた。 　彼がこの家の主。男は玄関のかぎを閉めて、そのまま明かりもつけないで家に上がる。 　洗面台に向かい、手を洗い、うがいをして――。 　そして、二階に上がった。 　静かな夜。 　暗い家に、外から漏れる月の光さえもない。 　遠くで、犬の遠吠えがした――。 「紫呉さん……」 　透は熱で朦朧としたまま、その気配に囁く。 「おや。なんで分かったのかな」 「ふすまの開け方がみなさん違うのです」 　透はくすりと笑う。 「ふうん……」 　紫呉が感情のこもっていない表情で透を見た。この家に同居している二人の少年はいずれも慊人に呼ばれてここにはいない。猫まで呼ぶことがひどく珍しい。もっとも、呼んだだけで謁見までは許さないだろう。 　紫呉もまた慊人に呼ばれたのだが、二人を置いて先に帰ってきてしまったのだ。少年たちが後で知ったら怒るにちがいなかった。 「熱はどう？」 「はい……。とても熱いのです……」 　くすりと紫呉は笑う。少しだけ目を細めて、透の頬に手を伸ばす。乾いた唇に親指が触れる。 「ああ、本当だ。とても熱い……」 　透は紫呉の手の冷たさに心地よさを覚えて目をつむった。 「ご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ないです……」 「吐息も……」 　紫呉は身を落とし、小さく開いた唇に自分のそれを重ねた。 「あ……」 　驚いて目を開いた透に、紫呉は唇を重ねたままクスリと笑う。 「熱いね。……もっと熱くしてあげようか」 　汗をかけば、すぐに治るよ、と囁いて。 　返答に困った透に、紫呉は身体を起こしておかしそうに笑った。 「冗談冗談。あんまり透くんがかわいいからさ。――ゆっくりと眠りなさい」 　ごめんね、と目を細めて紫呉は優しく透の前髪を後ろに撫であげた。あらわになった額に、今度は優しい口付けを落とす。 「紫呉さん……」 　離れようとする腕を、透は捕らえた。手ではなく、着物の袖を。 「紫呉さん……っ」 「どうしたの、人寂しい？」 「あの……その……」 　透は困ったように紫呉を見上げる。身体を起こすと、世界が回るような強いめまいがしたが、それでも紫呉の袖は離さない。 「透君？」 「行ってはだめです……」 「なに」 「行かないでください……」 　透は紫呉を見つめる。紫呉から匂いがした。口付けたとき――。 「行かないで……」 　涙が溢れた。言葉にならない。ただ、行かないでほしいとしか言えなくて。 「行かないで……」 「どうしたの、子供みたいに」 「そばにいてください」 「……」 　濡れた紫呉の髪。 　この家にあるシャンプーや石鹸とは違う匂い――。 　草摩の家に行ったときの――。 　タバコの――。 「透君……？」 「……なんだか……」 「なに」 「紫呉さんが回ってますう」 「わわわ！　透君！？」 　きゅううん……と布団の上に折り曲がった透の肩を、紫呉が慌てて起こした。触れて――透のパジャマが汗で濡れきっているのに気づく。寝ていたシーツも水をこぼしたかのように濡れいていた。 「熱は引いてきてるみたいだけど……」 　慊人に呼ばれてここを出たのは四時間前。誰もいない家に透を一人にするのは躊躇いがあったけれど、こんなことならずっとそばにいてあげればよかったと思う。 「透君。パジャマ、着替えるけどいい？」 「……はいいいいい……」 「よいしょっと」 　ついでに布団も別の物に、と。親父臭い言葉を使いながらも、紫呉は透に布団を巻いて、軽々と少女の身体を持ち上げた。 「ふふふ……」 　急に笑い出した透に、紫呉が笑う。 「どうしたの」 「力持ちですねえ。すごいです」 「それはどうも」 　苦笑し、紫呉は透を強く引き寄せた。ふわり、と透の頭が紫呉の頭上に降る。 「紫呉さん……」 「……透君？」 「お風呂に入りたいです」 「熱があるでしょう」 「でも……入りたいです」 「ちょっと……透君？　なんで泣いてるの」 　紫呉の頭に顔を埋めて。 「このシャンプーはイヤです」 「――」 　熱がなければ絶対に口にしないようなことを。 「この匂いのときは――いつも紫呉さん……辛そうなのです」 「……」 　なにが、と口にしない。ふすまの開け方ひとつで相手が誰かわかってしまうくらい、彼女の洞察力はすごいのだ。いつもは恐ろしいくらい鈍感で、何も気づいていないように見えるのに。 「だから……きっと、いつもの匂いになったら……元気になるのです」 「……」 　紫呉は顔を上げると、透の口に自分のそれを重ねて目を閉じる。 「一緒に入ろうか。髪の毛……洗ってよ」 　はい、と漏れた小さな声に、紫呉は心地よく笑った。 　了 2005.02.28