ロイアイ←ハボ
『バレンタイン』
今年の２月１４日は土曜日だ。翌日は日曜。
バレンタイン当日を迎え、ロイ・マスタング大佐の機嫌は最高潮だった。
休憩時間、お茶を出しに行った俺に大佐が問う。
「ハボック少尉、明日の朝、一緒に過ごす女性はいるのかね」
俺はタバコを吹かし、にっこりと笑った。
「セントラルへ出てくる前まではいましたがね」
嫌味を言えば、なんだ、とつまらなそうな声が返ってきた。すでに大佐の机の上には、可愛く飾られた四角や丸い包みが山積みになっていた。
甘いチョコの匂いさえ漂ってきそうだ。けれど、漂ってくるのは香水の匂いだけ。
「まだ次の女性が捕まえられないのか」
「ええそうなんですよ」
俺は引きつりそうになる頬をこらえた。
「責任をもって、今晩、大佐が付き合ってくれますか」
バレンタインの夜に大佐と二人で過ごそうものなら、いったいどんな噂が立てられることやら。
今晩の相手はよりどりみどりであろう大佐は、余裕の笑みを浮かべて「いいだろう」と言った。
「私に相手がいなければね」
こんな日は仕事にならない。
仕事中も休憩時間も、ひっきりなしに訪れてくる軍属の女性と一般市民の女性たちは、隣の応接室で大佐が対応している。
応接室は女性で埋まり、俺たちは大佐のキザで甘い言葉の数々と嬌声をＢＧＭに、棚にある書類の整理をしたり、調書を作成したり。
俺は、棚にある資料を分別しながら、そういえば、と振り返った。
「フュリー曹長」
黒渕メガネのレンズを拭いていたフュリーが顔を上げる。
「はい？」
「中尉はどこへ」
フュリーはメガネをかけた。
「ホークアイ中尉なら、総務に呼ばれていて今日は朝からむこうに詰めてますよ。昨日、そう言っていたじゃないですか」
「そうだったか？」
「この日はいつもですね」
フェルマンがボソリと呟いた。
そういえば、バレンタインの日はいつも彼女の姿を見ない。
「ああ……そうか」
俺たちは応接室の扉を見た。
「そうだな……」
彼女は今夜、誰と過ごすのだろう？
ひと段落ついたのか、応接室の賑わいが急に途絶え、大佐が「やれやれ」と肩を回しながら現れる。
「なんだ、ホークアイ中尉はまだ帰ってきていないのか」
大佐は疲れた様子でソファに腰を沈めたが、それ以上に嬉しそうだったために「お疲れ様です」という言葉は誰の口からも出てこなかった。そのかわり、というわけではないだろうが、フュリーがすばやく立ち上がって、大佐のためにコーヒーを作る。愛情からではなく、この面子で一番新米である彼の仕事のひとつだ。
「昼食も向こうでいただくとのことです」
「ありがとう、フュリー曹長」
大佐はソファーに腰をおろして、コーヒーを受け取る。
「総務はそんなに忙しいのか？」
俺はタバコの煙を吐いた。
「大佐ほどではないですよ、きっと」
「なんだ少尉、やけに絡むな」
「気のせいでしょう。それよりも仕事、溜まっているぶんを終わらせておかないと、今夜デートできなくなるんじゃないっすか」
「それはいかん」
大佐は慌てて立ち上がり、机の上のチョコレートとプレゼントの数々を、用意してあったダンボールの中に入れた。毎年不思議に思うが、あれらは全部大佐が食べているんだろうか。以前、聞いたときには「私はチョコレートを食べているのではない。彼女たちの愛情を食べているのだ」とかなんとか言っていたけど。俺が食べるとしたら一年かかってしまいそうな量だ。チョコレートって冷凍保存できたっけ？
３時ごろになると、ちょうど休憩時間が重なるのだろうか、各課の女性代表がやってきて「みなさんで食べてください」とチョコレートの箱を置いていった。これはセントラルに限らず、東方司令部でも毎年のことだったのでありがたく頂戴する。彼女たちは大佐に対して渡したかったようだが、大佐は猛烈な勢いで机に向かって書類と格闘しているため、とてもじゃないが話し掛けられるような雰囲気ではなく。
けれど笑顔で「ありがとう、ありがたく頂戴するよ」という言葉を忘れず、再び仕事に戻るその様子に、彼女たちはうっとりとした表情のまま惜しみつつ退出していった。仕事が出来る男の姿に惚れ直したってところだろうか。つくづく大佐は要領がいい。
定時をすぎて５分後、ホークアイ中尉が総務部から戻ってきた。
金色の髪の毛を見つけて、大佐が目を細めた。
「お帰り、中尉」
上官と今日はじめて会うのか、中尉は表情を変えることなく、ピシリと敬礼する。女性にしては高い身長。すらりとした肢体で綺麗に敬礼する姿は、男じゃなくても目を奪われてしまうだろう。
大佐は午前中のロスがあったためか、定時をすぎても仕事が終わりそうにない。それでも１５分もしないうちに終わるほどの量になっていた。さすがというかなんというか。
中尉の視線が、部屋の隅にあるダンボールの箱に向かった。
あ、と俺たちは思うが、彼女は何も言わずにデスクを周り、俺の前に立つ。
「ハボック少尉」
「は。なんですか」
「はい、これ」
中尉は手にもっていた細長い箱を俺の前に差し出した。
「はい？」
大佐を含め、みんなの視線を感じて緊張した。俺は背筋を伸ばす。これは間違いなくチョコレートの包み。受け取る俺の手は緊張に震えていた。
「あ……ありがとうございます」
中尉はにっこりと笑った。
「総務部の女性たちから、みんなにね」
「は？」
「みなさんで食べてくださいって」
ぷ、と笑ったのは大佐。くそう。
フュリーやファルマン、ブレダまで笑っていやがる。
中尉は軽く首をかしげた。
「みんなはチョコレートをもらえたの？」
「ええ、各課からたくさんね」
俺はチョコレートの包みをフュリーに渡した。
「休憩時間のおやつを１週間分いただきましたよ」
「なるほど。去年と同じと言うわけね」
「まあ、ありていにいえば」
「そう」
中尉は自分のデスクに戻り、一番下の引き出しから手のひら大の包みを四つ取り出した。
俺たちは瞬く。
「はい」
中尉は、俺たちにその包みをひとつずつ手渡した。そこに色気はなく、まるでカードを切って渡すような感じだったが。
手に残る確かな重み。リボンなどないとてもシンプルな包みだったが、チョコレートに間違いない。
中尉の金髪が揺れる。
「これは私から。手作りじゃなくて申し訳ないけど」
「とんでもない！ いただきます！」
フュリーの瞳が輝いた。素直に、わーいと喜んでいる。
ファルマンとブレダ、俺たちは、喜ぶよりも驚いた。
「ありがとうございます、中尉。ですが、どういう風の吹き回しです？」
東方司令部にいたとき、彼女がこの行事に参加することはなかった。むしろ、一部のファンから彼女自身がチョコレートをもらっていたくらいで。
「たまにわね」
ふふ、と中尉が笑う。
「ホークアイ中尉」
大佐が両手を差し出していた。
「私にはないのかね」
この中で、唯一、中尉からチョコレートをもらっていない大佐がひどく可愛く見えた。
「チョコレート」
「持って来ていません」
中尉がいつものようにさらりと言う。
「大佐はたくさんいただいているでしょう」
「それとこれとは別！」
ほれほれ、と大佐は両手を差し出す。
「隠しているのはわかっている。出しなさい」
「本当にありません」
「……」
「ありません」
「うそだ」
「では、机の中をご覧になりますか？」
「……家に置き忘れた……とか」
「いいえ」
「途中で買う……とか」
「あ。そうでした。私、今夜、コール中尉の代わりに宿直になりました」
「……」
大佐の動きが止まった。
「……だからなに」
「今日は宿直なので、これで失礼致します」
「いや、でも、今夜は」
大佐が慌てて立ち上がった。
「バレンタインだろう？」
「そうですね。良い夜をお過ごしください」
「や、だから……」
「私は総務部の宿直室にいますので、何かありましたらご連絡ください――では」
しゅた、と敬礼して、中尉は部屋を去って行った。
静まりかえる室内。
ドロドロとした空気が漂うのは大佐がいるあたり。恐くて俺たちは振り向けない。
「さ……さぁてと、俺たちは帰りますかね」
俺たちはいそいそとコートを羽織った。
「……ハボック少尉」
「はい！？」
ビクー！と俺は飛び上がった。
声が低い。声が低いッスよ、大佐！
「先ほど、朝まで過ごす女性がいないと言ったな」
「は……はい……言いましたが……先ほどというか、ずっと前というか……」
「では、今夜は私に付き合いたまえ」
「……は」
俺は瞬いた。
「……はい？」
「少し待っていなさい。すぐに片付ける」
「……あ、あのう……」
冗談……だよな……？
大佐はものすごい勢いで判を押し始めた。内容をちゃんと確認しているんだろうか。
大佐がイラついているのは、その表情よりも、判を押す力の込め具合でわかるわけだが。
「……他の女性でも誘われてはどうですか……？」
「……」
判を押す音がさらに強くなった。
自爆してしまったらしい。
「ハボック」
背後から、ぽん、と肩を叩かれた。
「良い夜を過ごせよ」
ブレダが爽やかに笑っていた。
ファルマンやフュリーまでが爽やかに……。
「良い夢を」
「辛かったら月曜日は休んでください」
「ははは……」
俺も爽やかに笑った。
「さあてと……俺も帰ろうかな」
「……ハボック少尉」
恐ろしいくらいの重低音。
振り向けば、大佐の右手にはいつの間にか白い手袋。
ヒ！ たち悪っ！！
俺は降参のポーズをした。
「付き合います付き合います！ どこへでも付き合わせてください！！」
「では、そこに座りたまえ」
俺は椅子に思いっきり腰掛けた。
「ええもう、床でもソファーでも机の上でもベッドの上でもどこでも待ちますよ」
俺は溜め息をつきつつ、天井を仰いだ。
月曜日……どんな噂が立てられることやら。
「大佐、……中尉と約束をしていたわけではないんですか？」
「……」
ないらしい。俺は溜め息をついた。
「今度から、他の女性からのチョコレートは断わったらどうです」
「チョコレートをもらえと言ったのは中尉のほうだ」
「はあ？」
「女性たちの心を無下にするのは良くないと」
そういえば、３年位前は仕事中にまでチョコレートの受け渡しは行われていなかったような気がする。
でも、それからだ。
中尉がこの日に別の用事を作っていなくなるようになったのは。
俺はおかしくて笑い出した。
大佐が目を丸くする。
「いきなりどうした」
「あはははは！ 大佐も中尉も、本当に」
俺は立ち上がり、中尉からいただいたチョコレートの包みを軽く振った。
「俺は帰らせていただきます」
「おい？」
「出待ちがいるかもしれませんし？」
もし、一人でも俺にチョコレートを渡してくれる子がいるのなら、容貌に関わらず、どこかに誘ってみよう。
「中尉の宿直を代わってさしあげるほど、俺は親切じゃありません」
「は？」
「宿直。――別に、中尉ひとりでなくてはいけないってこともないと思いませんか？」
大佐は、ようやく気づいたらしい。
「なるほど」
大佐は白紙にペンを走らせ、俺に手渡した。
「なんスか、これ」
「出待ちがいるのであれば誘うといい」
紙には、セントラルでも有名な高級レストランの名前が書いてあった。
「予約は７時からだ」
「……どうも」
俺はありがたく受け取った。
使うかもしれないし、使わないかもしれない紙を。
この後の、中尉と大佐のやり取りを想像して、俺はかすかに笑った。
部屋を出ると、軍服を着た赤毛の少女が立っていた。寄りかかっていた壁から慌てて離れる。
「あ、あの！」
「ああ、大佐？ いま中にいるからどうぞ」
「ち、ちが……その、あの」
彼女はうつむいて、けれど、顔が髪のように真っ赤に染まっているのがわかった。
「ハボック少尉に……」
俺は、ホークアイ中尉からもらったチョコレートをコートのポケットに隠した。
大佐の幸せを祈ろうとは思わないが。
どうか、中尉に幸せな夜を。
了
2004/02/15