環×ハルヒ
『陽だまり』
桜蘭高校、南校舎の最上階、北側廊下のつきあたりに第三音楽室はある。
そのまま舞踏会でも開けそうなくらい広い室内には、なぜか接客用のセットがいくつも配置されていて、音楽室と分かるようなものはグランドピアノが一台あるのみ。ベートーベンやバッハ、モーツァルトの肖像といった音楽室にありがちな装飾はひとつもない。
昨年、理事長の息子である須王環が高等科入学を機に活動を始めた桜蘭高校ホスト部は、運動部にも文化部にも属さず、顧問すらいない。部員はＡクラスの中でも家柄成績においてトップの選ばれた面々のみ。その中に、ただ一人庶民で特待生の――しかも女である私が、とある事情から性別を隠して参加している。
一応、自分が女であることは部員のみんなしか（カサノバ君とか例外はあるにしても）知らないことになっているが、本当に女性だとバレていないのかどうかは果てしなく疑問だった。教師は当然知っているわけだし、ホスト部に入る前は女子トイレにだって入っていたのだから、男子生徒はともかく、クラスメイトの女の子たちはわかっていて知らぬふりをしてくれているような気がするわけで――。
もし鏡夜先輩にそのあたりのことを確認してみたら、ニヤリとした笑いが返って来そうで怖い。すべてが計画のうち――なのだろう。八百万円の壺を割ってできた借金は確実に減ってきているが、時折増えたりするので、借金が今いくら残っているのかをまったく把握していなかった。
私は広い音楽室を見渡した。
「まだ誰も来ていないのか……」
いや、鍵が開いているから誰かは来ているのだろう。
双子は職員室に呼び出されているから、先輩たちだろうか。準備室にいるのなら支度を手伝わないと……と頭ではわかってはいたが、音楽室の中をぐるりと見回すと、自然と足は日向のソファに向かっていた。
ふわあ、とあくびが漏れる。
昨日、夜遅くまで本を読んでいたので、授業中も眠くて仕方がなかったのだ。ちょうど本の終わりが近くて止められなかったとはいえ、良くない傾向だ。こんなことで普段の勉強がおろそかになったら本末転倒。
良質のソファーは居心地がよくて、陽だまりも手伝って瞼がとろんと重くなっていくのが分かる。
「営業時間まで……」
あと30分。先輩たちが来たら起こしてくれるだろう。それまでなら……。
――寝ていてもいいよね。
ふ、と意識が途切れるのは早かった。
桜蘭高校の女学生たちは庶民の学校に通う女学生とは違って、笑う声もさわやかで小鳥がさえずるよう。
常に清潔な身なりでいい匂いがしている。性格もおしとやかで穏やかな生徒が多く、指の先、髪の毛の先まで一部の隙もなく綺麗で輝いていた。
くすくすと、可愛らしい女の子たちの声が耳をくすぐる。
優しい声と。
暖かい毛布に包まれて――。
まあ、寝ていらっしゃいますのね。
可愛らしいですわ。
どうかこのまま寝かせておいてあげてくださいませ、姫君たち――
――ふと目が覚めると、目の前には金色の髪。
ハニー先輩？
「気づいたようだぞ、環」
鏡夜先輩の声に振り返ったのは、環先輩だった。
「ハルヒ」
紫のような紺色のような、澄んだ青の瞳がすごく綺麗。その目をじっと見ていると、ふわりと先輩は笑んで、私の手を取った。
「おはよう、ハルヒ」
「おはよう……ございま、す？」
がば、と私が起きると、身体の上に掛かっていた制服の上着が落ちそうになった。慌ててそれを押さえた。自分のじゃない――環先輩のだ。
「あ、あの――」
「寝不足はお肌に悪いぞ、ハルヒ」
「お客様は」
「ん？」
もう営業時間だろうか、と思った次の瞬間、環先輩がにっこりと笑った。
「もう終わったよ」
「え？」
「営業時間は終了」
「え――？」
問うように鏡夜先輩を見上げれば、副部長はメガネをキラリと輝かせて見ていたファイルを閉じた。
「お客様はすでにお帰りだ。お前が寝ていた間にな」
「――――」
さああ、と血の気が引くのがわかった。
「すすすす、すみません……！」
「あー！ ハルちゃん起きたの〜」
準備室からぴょこんとウサギのようにハニー先輩が顔を覗かせた。続いてモリ先輩に双子たちが姿を見せる。
「おはよう〜」
にっこりと可愛い笑顔でハニー先輩が笑う。
「おはようございます。あの、すみませんでした」
「いいのいいの。みんなねぇ、ハルちゃんの寝顔を見て楽しんでいたからね」
「楽し……？」
思わず鏡夜先輩を見上げると、魔王はフッと笑った。
「ハルヒ指定のお客様は寝ているお前を観賞することで満足されていたから、今回は客を取ったということにしておいてやろう」
――うわー。
なんだか、わざと起こされなかったんじゃ……。
ちらりと環先輩を見れば、にっこりと笑顔が返ってきた。きっと、この人が起こさないように言ったのだろう。そこにあるのは打算はなく、純粋な優しさだ。
「よく眠れたかにゃ？」
「……はい」
ありがとうございますと私が呟くと、環先輩の手がのびてきて、頬についていた横髪をそっと払った。
「安心したよ」
「はい？」
先輩はくすりと笑い、視線を左右に走らせて、声を潜めた。
「寝起きが悪いのはハニー先輩と鏡夜だけで十分だからな」
「――」
そうですね、と。
私は思わず笑ってしまった。
了
【無邪気な君へのお題／01 陽だまり】
2007.04.15