墨村正守×春日夜未
『白』
「研修旅行？」
はい、と真面目な顔でうなずいたのは夜行のナンバー２だ。一枚の紙を手渡し、全員参加なのだと彼女は云う。
「大人も子供も？」
夜未が問えば、ええ、とうなずく。
「男は寺に泊まります。女、子供は近くの民宿に――とはいっても、双方ともに自炊ですが」
「……持参するものに『水着』って書いてあるけど」
「海が近いんです。水着、お持ちではありませんか？ でしたら、今度皆で買いに行く事になっていますのでご一緒に」
「え、ええ」
いや、そういうことを言いたかったのではないのだが。
帰ろうと思っていた矢先、刃鳥美希に呼び止められて、研修旅行へ行くのでよろしくと言われたのはつい先ほどのこと。聞けば、すでに参加することが決定事項となっていることに夜未は動揺した。
え、なにそれ、私も参加しないといけないわけ？ ――と口にしたいが、気軽に言える相手ではない。
「その日は必ず空けておいて下さい。詳しいことは、後日、旅のしおりを渡します」
「……旅のしおり」
「子供たちが作ります」
美希はさらりと口にし、それでは、と一礼して下がっていく。
夜未は手元の紙を見つめた。ということは、いま手元にあるのはただのお知らせであるらしい。それって本当に研修旅行なの？
「え、あ――！ ちょっと待って」
去っていく美希を慌てて呼び止めると、すらりとスタイルのいい身体が静かに止まって振り返った。
「何か？」
「あ……あの」
思わず呼び止めてしまったものの、夜未は言葉に詰まってしまう。まるで当たり前のように参加することになっているけれど。
――私は。
美希はまっすぐに夜未を見つめて、言葉を待ってくれている。彼女が上司である男に言われて来たのだということはわかる。だが、自分が夜行に所属しているのかいないのか、当の本人でさえよくわかっていないのに、彼女たちはどう思っているのだろう。夜未が夜行の一員だと言っているのは棟梁である男だけなのだ。
美希とて、他の者とて、墨村正守が言うから従うだけで、本心では歓迎してはいないはずだ。
――あの男は。
本当に、何を考えているのか。
「……ごめんなさい。なんでもないわ」
美希は軽く首を傾げたが、夜未を安心させるような小さな笑みを返してから去っていった。
言葉通り、後日、手渡された「旅のしおり」を見て、夜未は大きな溜め息をついた。
「彼女を寄越した時点で策略を感じるのよね……」
それは刃鳥美希に限らない。あの男以外の者からの誘いであれば、夜未は断る術をしらない。
力がすべてである裏会において、自分が最弱である自覚はある。実行部隊である夜行の者にしてみれば、なぜ春日夜未が、と眉を顰めるしかないだろう。それは、言葉にしないだけで誰もが思っていることだと夜未にはわかってしまう。
もし研修に誘ったのが正守であれば、夜未は即座に一蹴していただろう。それがわかっているから――。
だから、あの男は彼女を遣わせたのだ。
額に傷がある男の顔が脳裏に浮かび、夜未は下唇を知らずに噛んだ。
――私にかまわないで欲しいのに。
あの男は夜未の恐怖がわからない。
力を持つ者が、力を持たぬ者を見る目に晒される恐怖が。
「ヨミ」
夜未の不安を感じ取ったのか、小鬼が名を呼んだ。手のひらサイズの小さな鬼。鬼使いである夜未の、これが力のすべてだ。
なんて弱弱しいのだろう。
「ヨキ……。大丈夫。――大丈夫よ」
夜未は笑んだ。気をつけなくては、と思う。また、ヨキに力を求めるような心を持たせないようにしなければ。この純粋な小鬼は、夜未の心が求めるものを感じ取ってしまう。
ヨキはヨキだ。強い力などいらない。いてくれるだけでいいのだと、ヨキを一度失ったあのときに思い知ったのだから。
夜未は旅のしおりをもう一度見た。
「……旅行」
三泊四日も、いったいどこに行くのだろう。
しおりには活動内容だけで、場所については書いてない。
夜未は、帰り道で夜行に所属する妖獣使いの女に声をかけて、そのことを聞いてみた。
返って来た答えは、
「知らないわ」
――だった。
夜未は瞬いた。あまりにもあっけらかんとした物言い。夜未に隠しているわけではなく、本当に知らないのだと分かる。
「知らないの？」
「ええ。この旅行は全部子供たちが計画して、子供たちの指示に大人が従うのよ」
研修先の行動はすべて子供たちが計画を立てて、その場所すら楽しみの一つとしてみんなは聞かずに当日を迎えるという。
いかにもお祭り好きな夜行らしい――とは思うけれど。
「研修……なのよね？」
夜未は手に持っていたしおりに視線を落とした。
「……この、『海で遊ぶ』というのも？」
「もちろん」
女が笑う。
「大切な研修のひとつよ」
どこが、とツッコみたい。
海で泳ぐ、ではなく、海で遊ぶ、なあたりツッコミどころ満載だ。
まあ、子供たちも夜行の一員なのだ。全員が異能の力を使って全力で遊ぶ――ともなれば、研修に相応しい仕様にはなるのかもしれないが。
夜未と妖獣使いの女は、水着を買いに行く日にちと時間の確認をして別れた。
「水着……」
夜未は溜め息をついた。
「海……」
呟きは夜の闇に紛れて消える。
――いったいどこに行くのだろう。
それは、夜行における夜未の立ち位置をも意味した。
※
「眩しい……」
夜未は遠い目をして、目前に広がる海を眺めた。
太陽の光が海面に反射してキラキラと輝く。波は穏やかで、風もない。
宿泊所という名の廃寺から長い階段を降りた先が入り江になっていて、ちょっとしたプライベートビーチになっていた。
「本当に遊んでいるだけじゃない……」
海パンと水着を来た男女が奇声を上げながら浜辺を突き進み、キャッキャギャアギャアと戯れている。
ふ――と夜未を覆う影に顔を向ければ、墨村正守が海パンに赤いパーカーという姿で立っていた。
「君は入らないの？」
「ええ」
「泳げないの？」
「泳げる」
「じゃあ、泳いできなよ」
「海だからって、泳ぐだけが楽しみじゃないでしょ」
「水着ウォッチ？」
「あんたと一緒にしないで」
夜未はギロリと男を睨んだ。外見年齢は三十路を超えてそうなのに、これがまだ二十台前半だと、誰が信じよう。
「春日さん、水着、買ったんでしょ？」
「……」
夜未が無視するも、夜行のトップは前屈みになって夜未の顔を覗き込んでくる。
「色は白」
言われて、夜未はパーカーの胸元をつかんだ。膝丈のパーカーはチャックがすべて閉められて、中の水着は分からないようになっている。
「――なんで知ってんのよ」
「直感、かな」
男はニッコリ笑う。
「泳がないの？」
「さっき泳がないと言ったはずよ」
「そうだったっけ？」
男はニコニコしたまま、海で戯れる子供たちに手を振り返した。
夜未はこの男が隣にいるだけでイライラしてくる。いちいち話しかけてくるのは、夜行に入った後もひとりでいる夜未を放っておけないとでも思っているのだろう。それは仲間意識なのか、夜行トップとしての保護意識なのか。
ひとりでいることなど慣れているのに――。
話しかけられても、嬉しくなんかない。そして、一番嫌なのはそう思う自分だった。
「呼んでいるわよ、行けば？」
むしろ、早くどっか行け、くらいの感情を抑えて口にする。
「一緒に行こうよ」
「やだって言ってるでしょ！」
「ええ？ そんなこと一度も言ってないじゃないか」
もぞもぞと夜未の胸元が動いて、男の表情が怪訝になった。
「今、胸が動いた」
「ヨキ」
夜未はパーカーのチャックを開けて、胸の谷間にすっぽりと入った小鬼に笑いかけた。
「やっと起きた。ヨキも泳ぐ？」
およぐ、とはしゃぐ小鬼に夜未は微笑んだ。
「じゃあ、行きましょ」
すたすたと、ビーチサンダルを履いたまま歩いていく夜未の腕を、正守が掴んだ。
「春日さん」
「なによ」
「なんでそんなところに入れてんの」
「え？」
夜未はきょとんと瞬いた。
「ヨキのこと？」
「パーカーにもポケットがあるだろ」
「別にいいじゃない」
正守はなぜか機嫌が悪そうに口をへの字に曲げている。
「よくない」
「はあ？ なんでそんなことあんたに言われなきゃいけないわけ」
その間も、ヨキは夜未の胸をグニグニと揺らしている。正守は、夜未の胸に挟まっているヨキをつまみあげた。
「ちょっと！ 何するのよ！」
「それは俺のだ」
「は？ それってなによ！？」
「それはそれ」
「ヨキは私のよ！」
「違う。これのことじゃない」
「意味不明なことを！ 早くヨキを返して！」
「だめ」
「ふざけないで！」
「一緒に泳ぐなら返す」
「だからこれからヨキと泳ぐんだから、返して！」
「……俺とは？」
「なんであんたと！」
「……じゃあ返さない」
男は拗ねたように言うと、虫かごサイズの結界の中にヨキを閉じ込めてしまった。しかも、夜未が跳ねても手の届かない位置。
「ちょっと……！」
――これが裏会幹部の一人であり、夜行のトップがすることか！
「返しなさいよ！」
夜未は足元の砂を握ると、男に向かって力強く放った。
「あのー。副長」
「なあに」
刃鳥美希は目を閉じたまま返事をした。丸い浮き輪の中央で、気持ちがよさそうに海に浮かんでいる。
「えっと、そのー。あそこで頭領が夜未さんを襲ってんですけど」
遠方でギャアギャアと騒いでいる二人を、夜行の面々が興味津々な視線を送っている。
刃鳥美希は目を閉じたまま答えた。
「馬に蹴られたくなければ、あのバカっプルのことは放っておきなさい」
「でも、いいんスか、あれ？」
ちょうど正守が夜未のパーカーを剥ぎ取ったところだった。夜未はパーカーを掴んで返せと主張している。
どう見ても、正守のやっていることは夜未に嫌われることばかり。それは、小さな子供が好きな女の子をいじめる――のと極めて似ている。
「あれじゃ夜未さんに嫌われる一方だって教えてあげたほうがいいんじゃ……」
フッ、と美希は笑った。
「それすらも楽しんでいるからいいのよ」
「頭領もドMなんだかドSなんだか分からないっスね」
「あら、知らなかったの？ 頭領はドMでドSなのよ」
了解です、と男は敬礼して仲間のもとへと泳いで行く。
美希は目を開けて溜め息をついた。さすがに正守がやりすぎたら止めるしかないだろうが、ギャンギャンと騒いでいる二人を見て、美希の口元には小さな笑みが浮かんでしまう。正直、正守が笑っている――そのことが美希にとってはなによりも重要なのだ。
春日夜未は最も新しい夜行のメンバーだが、烏森の一件以前から正守は彼女の存在を知っているようだった。夜未のことを知っていたのかと問うた美希に、正守はあっさりと肯定した。
「彼女は覚えていないみたいだけどね」
笑って、それ以上のことは口にしなかったけれど、二人とも子供のころから裏会に出入りしていたのだから、互いに見知っていたとしても不思議はない。春日夜未の方にはその記憶がないようだが、夜未の記憶には残らないくらい幼い時に出会ったのか、それとも――夜未が記憶を失ったのか。おそらく前者だろうと美希は思う。正守が夜未をからかう行動の裏に、彼女がそのことを思い出すのを楽しみにしている雰囲気が見え隠れしている。
「だとしても」
美希は溜め息をついた。
――馬鹿よね、男って。
本当に子供だ。
今もまた、正守が夜未のパーカーを結界で滅して、彼女の怒声が上がった。仕返しとばかりに正守のパーカーを奪おうとする夜未。それに対する男は楽しそうに声を出して笑い、満面の笑顔だ。それは、決して裏会や夜行本部では見ることのできない顔だった。
夜未の水着を選ぶときも、女性陣が彼女に似合うものを、とすすめたが、実は「春日さんの水着は白」と言った正守の好みが反映されていることを彼女は知らない。
夜未に対して優しくしようと思えばいくらでも出来るのに、正守がそれをしないのは自分を偽っていないからだ。言い換えれば、正守が本音を晒せるのは春日夜未の前だけということになる。
それを恋や愛というのかどうかは知らないが。
「ヨキに負けているようじゃ、まだまだよね」
夜行のトップの最大のライバルが、ひ弱な小鬼であると誰が信じよう。
あの二人に関しては、放っておくに限る。――そう結論付けて。
「副長〜！」
美希は自分を呼ぶ子供たちの声に微笑み返した。
了
【漢字一文字100題／071】
2009.12.10