ハク×千尋 　　　『鱗２』 「千尋」 　ハクは柱の影で待っていた少女の髪を引いた。 「もういいよ」 「ハク……」 　竜体になって鱗を抜いたハクのこめかみに、かすかな汗が光るのを千尋は見つけて息を飲んだ。人型になっているため鱗はないが、痛みは同じはずだ。いまさらながら、自分が口にしてしまったことの愚かさを知って千尋は動揺した。 　だが、ハクはそんな千尋の様子を察して笑う。 「気にしないで、千尋。僕は大丈夫だから」 「でもハク……ごめんなさい」 　――靴べらなんて嘘。本当は自分のお守りにしたかったの。大好きな大好きなハクとの思い出に――。 　そんな思いは言葉にならない。 「じゃあ、これ。お父さんによろしくね」 「うん……。ありがとう」 　千尋は自分の気持ちを隠して無邪気に笑った。そうでもしないと泣き出してしまいそうだったから。 「何か、お礼できるものがあればいいんだけどな」 「気にしなくていいのに」 　鱗を抜いた左腕の傷口から血が流れて袖を濡らしていたが、ハクはそれを隠して、千尋の嬉しそうな顔をただただ喜ぶ。 「でも、そうだねえ……」 「なにかある？」 「もらえるものはあるけど……」 「え、なに？」 　千尋が立ち止まった。そんな彼女の頬を両手で包み込んで、ハクはにっこりと笑った。 「今、もらってもいい？」 「今？　――う、うん」 　千尋はなんだかドキドキする胸の鼓動に、顔を赤くする。ハクの綺麗な顔をこんなに間近で見るのはやっぱり照れる。 　少しだけ視線をはずした千尋にハクは笑い、そっと顔を落とした。 　 「……！」 「ありがとう、千尋」 「ハクっ……！」 　口を手の甲で押さえ、真っ赤になった千尋がかわいくて、ハクは千尋の腕をつかんで下ろすと、もう一度口付けた。今度は前よりも少しだけ長く。 　ギュ、と目をつむった千尋の心臓の鼓動がハクに伝わってきて、思わず声を出して笑ってしまう。 「ハク！」 「だって、すごいバクバクしているから」 「もう知らないっ」 　さっきもらった鱗は本当に靴べらにしてやる！　と千尋が思ったことをハクは知らない。 　ぷい、と真っ赤な顔のままできびすを返した千尋の後を静かに追いながら、ハクは笑いを漏らさないように口を押さえた。 　千尋の揺れる髪を愛しげに見つめる。 「本当にもらうのは数年後だよ、千尋。覚悟してね」 　ハクは静かにつぶやき、先ほど抜いた鱗――２枚のうち、残ったひとつを取り出す。きらきらと輝く鱗は、それだけで強力な守護の力を持つ。 　そっと言葉を紡ぎ、背中を向けたままの千尋に向かって手を差し出した。鱗が浮き上がり、吸い寄せられるように千尋の背に向かって飛んでいき、そのまま通り抜けるように彼女の中へと入っていった。 　千尋はそのことにまったく気づいていない。 　ハクは目を閉じる。少女の中で息づく力を感じる。 「よし」 　小さく呟いた。 　千尋がどこにいようと、その鱗が彼女の場所を教えてくれるし、彼女を守ってくれるだろう。 　水の中でも呼吸できることを知ったら、どんなに驚くだろう。 　ふふ、とハクは笑う。 　いつの間にか千尋が立ち止まってハクを睨んでいる。 「ハク！　なに笑ってるのよ！　もう、本当に知らないからね！」 「ごめんごめん。千尋、許してよ」 「顔が笑ってる！」 「え、本当？　千尋と別れるのがすごく辛いのにな」 「でも……笑ってるもん」 　すねたような少女の物言いに、ハクは目を細めた。千尋の手を握る。 「きっと、また会えることを知っているからだよ、千尋」 「……また会える？」 「会える。絶対に迎えに行くから」 「……うん」 　ハクは千尋の唇に自分のそれを重ねるが、今度は千尋も静かにそれを受け入れた。 「大好きだよ、千尋」 「わたしも。……わたしも好きだよ、ハク」 　これは別れではない、と千尋は思うと嬉しくなる。ただの口約束かもしれないけれど。 　夢かもしれないけれど。 　きっと、現実世界に戻っても、手の中の鱗は消えない……そんな気がした。 　了 【小説掲示板　ログ15】 2001.10.05