伊沢×アキラ
『風船』
鬼面党の溜まり場であるゲームランド「ピーターパン」の前には、すでにいくつものバイクが並んでいた。その中で、いつもの定位置に高村さんの単車が停めてあることに気づいて俺は瞬いた。
「あれ――？」
今日は祥へ会いに行くと行っていたのに――また、フラれてしまったのだろうか。
思わず漏れた苦笑と同時に、コホ、と喉に痛みを伴う咳が漏れた。
「風邪……引いたかな」
昨夜、道場で汗を流した後に電話があって、身体を冷やしてしまったのだ。
高村さんがいるなら風邪をうつさないように帰った方がいいのかもしれないと思ったが、健康優良児の高村さんがそう簡単に風邪をうつされることもないだろう。
それに――。
風邪を引いたら引いたで看病できるかも……なんて甘い考えが脳裏をよぎった。もちろん、そのときは俺が健康であることが最優先事項なのだけれど。
大丈夫だ……うん。
むしろ、こういうときは伊沢が目ざとく気づいて、うるさく帰れと言いそうだった。伊沢にだけはバレないようにしなくては。
俺は喉を押さえながらピーターパンに入った。
「――ッス！」
幹部の登場に一斉に声がかかり、それに頷く。
出そうになった咳を拳で抑えた。
「アキラ、どうした？」
声をかけてきたのは、ちょうど入り口にいたケンタだった。
「ん、ちょっと、喉が」
「ああ――オレ、飴持ってるぜ。やるよ」
ケンタが特服の右ポケットを弄る。
「ケンタ、高村さんはいつから？」
「ああ、ついさっき。ま、いつものことだけど、殴られたみたいだぜ」
「はは……」
俺は苦笑を漏らした。高村さんの親衛隊長である俺が苦笑で済ましてしまう相手――和泉祥。
オレンジ色の髪をした少女は、身体は小さいのにパワフルで、常に前向きで意思が強い。喧嘩っ早いのに、正義感が強くて、そしてとてもかわいい彼女を、ライバルとして――また同じ女としても嫌いにはなれなかった。
高村さんを殴って無事でいられるなんて、祥くらいだろう。ある意味、高村さんにしてみれば、祥とのコミュニケーションのひとつだ……と言ったら、祥に怒られてしまうだろうけど。
「ほらよ」
「ん」
ケンタに向かって手を差し出すと、そこに四角い銀の包みが乗せられた。ポケットに無造作に入れていたのか、四袋。
「これ全部もらっていいのか？」
「――あ」
手の上に載った飴に、ケンタが少しあわてた。
「あ――ああ、うん、いいけど」
「センキュ」
俺はにっこりと笑ってそれを握り締める。
「いや、アキラ――。それ」
ケンタが慌てて、左ポケットから別の飴を取り出した。
「本当はこっち――」
「ん？」
俺は手の中の感触が柔らかいことに気づいた。
「ああ、グミなのか。いいよ、グミでも」
「え――」
きょとんとケンタが目を丸くした。グミじゃないのかな？ 俺は小首をかしげた。
「そっちのアメももらっていいか？」
「ああ――」
「じゃあな」
俺は軽く手を振って二階へと上がる。その背後で、伊沢が入ってきたのがわかった。
俺は、伊沢の前で咳をする前に――と、階段の途中で立ち止まり、銀の包みを開けた。ギザギザになっている切り口から開くが、取り出した中身はグミではなかった。
少し滑って、円の、変な形。明らかにゴムだ。
「……風船？」
階段で立ち止まったままの俺に、伊沢が声をかけてきた。
「どうした、アキラ」
「ああ――」
伊沢に挨拶をして、俺は右手を差し出した。
二段の差があるのに、顔は平行だ。女としては長身で、男の中にいても低くは感じないのに、それでも伊沢とは頭一つ分以上の差がある。
「これ、伊沢にやるよ」
長い前髪の奥で、怪訝そうに伊沢が瞬く。それでも手を差し出したので、伊沢の大きな手に、まだ空けていない銀の包みを落とした。
「風船」
「……」
「のぞみちゃんたちにあげてよ」
にっこりと笑う。
「………………アキラ」
「ケンタにもらったんだ」
「………………」
伊沢がくるりと背後を向いた。
「………………ケンタ？」
よく響く重低音。
階段の下では、ケンタが真っ青な顔で首を横に振っていた。
伊沢の肩から、俺は顔を出す。
「ケンタ。この風船、伊沢にあげてもいいだろ？」
「……ふーせん……」
コクコク、とケンタが頷く。俺は伊沢の肩を叩いた。
「だって。良かったな、伊沢」
「……」
伊沢は、ふう、と重い溜め息をついて、俺の顔を大きな手で覆った。
「中学では習わなかったのか……？」
「え、何を？」
「いやいい」
伊沢は俺の顔から手を離すと、再び背後をむいた。
「俺から教えておく。――いいな」
凍りついたような一階では、ケンタをはじめ全員が真っ青な顔で何度もうなずいている。
「何がだよ」
俺は眉をひそめた。再度、伊沢から吐き出された溜息に、思わず眉が上がってしまう。
「伊沢っ」
「……」
伊沢は答えないまま、急かすように俺を二階へと追いやった。
それはつまり、セーフティーカバー……コンドームだったのだけれど。
「あれって、そういえばどうしたんだろう……」
いつものようにピーターパンの二階で、椅子に座って本を読んでいる伊沢を見て、俺は小首を傾げた。
「なあ、伊沢」
伊沢の手にコーヒーを渡す。
「前にあげたコンドーム、どうした？」
ぶ、と飲んでいたビールを同時に吹き出したのは、高村さんと祥だった。
「わ、何やっているんですか」
俺はあわてて雑巾を取りに走った。
夜桜会が解散したあと、たった一人となった祥は当たり前のように俺たちの溜まり場へとやってくる。走りや集会などには来ないなど、そのあたりの線引きはちゃんとできているためか、文句を言う者はいない。一千万円もの賞金がかかった祥の特攻服を狙ってくる者たちから守るためにもちょうどよかった。
「アキラ……」
目を大きく見開いて、祥がどうしたんだという目で俺を見た。
「ココ、コンドームって」
祥の顔は真っ赤になっていた。変なところで純粋だ。
「前にケンタからもらったのを伊沢にあげたんだ。――な」
「……」
な、と振られた伊沢は、無言のままため息をついた。
「あれは高村に渡した」
「なに！」
祥が眉を吊り上げた。
「し――知らん！ 知らんっ！」
高村さんが必死に首を横に振る。
伊沢を見ると、「渡した。もう使ったんじゃないのか？」とさらりと言う。
「バカ！ 伊沢てめえ！ ギャー！ 祥さん、やめてえええ！」
祥に首を絞められている高村さんを放置して――だってコミュニケーションだから――俺は首をかしげた。
「伊沢は使わないのか？ コンドーム」
「……」
「ちゃんと使わないとだめだぞ？ ナマが気持ちよくたって！ それが男のたしなみだ！」
「アキラ……」
伊沢が頭を抱えたそうな顔をしている。俺は腰に手を当てて胸を張った。
「伊沢が子供好きなのは知っているけど、子供を作るなら結婚してからにしろよな！」
「…………」
「…………」
いつの間にか、高村さんと祥が、ゴクリとつばを飲み込んで俺たちのやり取りを見ていた。伊沢はそれをひと睨み。
俺は、伊沢の頬を両手でつかむと、ぐいと自分のほうへと向けた。
「こら！ ちゃんと聞いているのか？」
「――」
「好きな女性は大切にしろってこと！ なかなか女性からは言い出せないんだからそういうことは！ ――あ、いや、女性からは言い出しにくい……ことだそうだから」
うわーー。危ない危ない。つい、女性の立場になってものを言ってしまった。
思わず焦る俺に、ふ――と伊沢が笑った気配がした。
「……分かった。ちゃんとする」
伊沢は、生意気な俺の言い分に、ぶっきらぼうだが、ちゃんとうなずいた。
「そうか！ うん、よし！」
俺は笑った。
「……伊沢に愛される女性は、きっとものすごく大切にされるんだろうな」
男である俺にさえこんなに優しいのだから――そう思ったら、なんだか羨ましくなってしまった。
弟妹たちを世話する彼の行動を見ていると、きっと、彼女にもあんな感じなんだろう――。
伊沢に愛される女性って、どんな人だろう――？
特定の彼女がいてもおかしくないのに、ふだんからあまり女性の匂いがしないので、考えたことがなかった。
まあ、この容姿だから、女性には事欠かないにちがいない。そう思って、俺はハッとした。
今まで、その女性たちすべてにコンドームを使っていなかったってことか！？
伊沢がいくら子供好きと言っても、限界があるぞっ！！ もしかして、本当はすでに一人や二人……三人……四人の隠し子がいる可能性だって……。
うあ！！ もしかして！
のぞみちゃんたちの本当のパパは伊沢――！？
ある朝、玄関を開けるとそこには赤ちゃんと、『あなたの子です』とだけ書かれた紙が――。
「……アキラ。何を考えている」
「え！？」
「また変な想像をしていただろう」
伊沢の大きな手が、俺の顔を覆った。俺はそれを弾く。
「ば！ 馬鹿なことを言うな！ と、とにかくだ！ 伊沢も高村さんを見習って、子供を作らないようにちゃんと避妊しろ！ これ以上、隠し子が増えたら困るだろ！」
「アキラ？ なにを――」
「な！ 伊沢、おまえ、隠し子がいるのかっ！！！」
高村さんが叫んだ。
「なにーー！！ 伊沢に隠し子！？ マジ！？ どこに！ どこにいるんだ！？」
祥が騒ぐ。
二人の叫びが一階にも聞こえてきたのだろう、ザワッと動揺した声がした。
ピキ、と空気が凍り、伊沢の背後から闇が流出しはじめたことに俺は気づかず。
「あ！ 雷がっ！」
さっきまで晴天だったその日、突然の雷雨となった原因を俺は知らない。
了
2005.08.10