堂上×郁
『今のままで』
てへっ
書庫作業の休憩中、図書特殊部隊の堂上篤は、直属の部下である二名を見つけて立ち止まった。
声をかけようとしたが、それより前に笠原郁が手塚光に向かって照れたように笑うのを見て眉をひそめた。それは、郁が小さな失敗を謝るときによく使う仕草だった。
またあいつは何をしたんだと思う。
郁はさらに違う仕草で「てへっ」と笑った。手塚は両手を腰に当てて首を横に振った。郁は、さらにちょっとだけ舌を出して可愛く「てへっ」と笑った。
「……なにやってんだ、あいつら」
そして書棚に隠れてそれを見ている自分も何をやっているんだ、と思う。今更、声はかけづらい。
手塚はダメだしをするかのように首を左右に振った。郁は眉を寄せ、不満げに唇を尖らせる。一体何を話しているのか、堂上のところまで二人の会話は聞こえてこない。
堂上はふたりに背を向けて、意味もなく棚に並ぶ書物の題名を目で追った。
話の内容が気にならないといえば嘘になる。今は堂上が気配を消しているからいいものの、声が聞こえてくる位置まで近づけば、さすがに二人とも気づいてしまうだろう。口唇術までしようとは思わない。ここは見なかったことにしてそっと離れようと思ったときだった。
「教官」
背後から声をかけられて、堂上は心臓を10センチ浮かせてしまう。声を聞けばそれが郁であることはすぐにわかる。振り向きざま、堂上は怒鳴った。
「ば――馬鹿！ 驚かせるな！」
「ええー？」
郁はただ声をかけただけなのに、と唇を尖らせた。
確かに今のは自分のほうが悪いと自覚するも、わざわざすまんなどと謝ることもできず、堂上は郁の不満を無視して歩きだした。郁もそれくらいは気にしない。
「教官はこれから食堂ですか？」
書庫作業が忙しいときには買ってきたパンやオニギリを食べて済ませてしまうが、作業のはかどりがよかったり暇なときは食堂や外で昼食が取れる。特に返事もしないでいると、ご一緒します、と郁は後ろを付いてきた。
こんなとき、いつもなら小牧と手塚が続き、途中で柴崎が合流することが多い。だが、今日は中澤毬江が来ていたために小牧の姿はすでにない。
「柴崎はどうした」
「手塚と一緒です。近頃、仲が良いんですよあのふたり。手塚は柴崎に借りがあるから昼食をおごることになったとか言ってましたけど」
「この前もそう言ってなかったか？ どれだけ柴崎に借りがあるんだあいつは」
それとも弱みでも握られているのか、と真剣に堂上は思う。だが、それを否定したのは郁だった。くすりと、楽しそうに。
「柴崎はそういう建前がないと付き合えないんです」
女性の機微に疎いと自覚している堂上は意外な組み合わせに軽く驚いた。
――いや、その前に、なんでこんなに胸を撫で下ろしているんだ、俺は。
「……そんなものか」
「そんなものです」
「さっき……」
思わず口にしてから、堂上は言葉は切った。
「なんでもない」
「は！？ なんですかそれ。言いたいことがあるなら言ってください」
「なんでもないと言っている」
「さっきってなんですか」
郁が堂上の袖をつかんだ。自然と足早になっていたので、それを止める意味もあるのだろう。
「教官！」
「だからなんでもないと言っているだろうが」
「そんな言い方されたら反対に気になりますっ。言いたいことを最後まで言わないなんて、教官らしくありません！」
声を荒げるわけではないが、郁の声がどんどん高くなっていく。
堂上は溜め息をつくと同時に立ち止まった。後ろを歩く郁もまた反射神経のよさを見せ付けるかのようにすばやく立ち止まると、真っ直ぐな視線を堂上に向けてくる。それは、上司の命令を待つ部下の顔そのものだ。
堂上は溜め息をついた。
「さっき、何かしたのか」
「は？」
堂上の言葉は予想外だったらしい。郁はきょとんと目を丸くした。
「何かって……なんですか？ 別に何もしていません……けど」
たぶん、堂上が怒るようなことは、と言いたげな表情だ。
「手塚に謝っていただろ」
「謝っていませんよ？」
郁は小首をかしげた。それは、何かをごまかしているのでも、記憶力の低い鳥頭が三分前のことを忘れたのでもないとわかる。ということは、さっきは本当に謝っていたわけではないのだろう。
そうか、と堂上は言った。
「だから……なんでもないと言ったんだ」
堂上は踵を返して歩き出した。
「はあ！？ もうなんですかそれ」
わけがわからずに郁は鼻を鳴らした。彼女が怒るのも当然だ。堂上とて、なぜこんなにも気になるのかわからない。
――ああ。
そうか、と思う。なんとなく仲間はずれにされた気分なのかもしれない。
ふと、今まで後ろを付いてきていた足音が途切れていることに気づき、堂上は振り返った。
「笠原？」
郁は、長い廊下の先で一歩も動くことなく不満そうな顔をして堂上を見ていた。それはまるでデパートでおもちゃを買ってくれるまで動かないぞ、と主張する子供のよう。堂上の態度が納得できないのだ。
本当にガキだな、と思う。――思って、本当にガキなのはどっちだと苦笑を漏らした。仲間はずれ？ ちがう。郁があんな顔を無邪気に見せていることに苛立っていただけだ。
ただの嫉妬じゃないか。
「笠原」
堂上は肩の力を抜くように息を吐くと、目を細めて笑う。
「来い。昼食の時間がなくなるぞ」
郁はなかなか動かない。だが一歩動くのを待ってからすぐに踵を返すと、背後から置いていかれないようにと急ぐ駆け足が近づいてきた。
「てへっ」
郁が額を軽く叩きながら可愛らしく舌を出した。
「……」
堂上は凍りつく。
昼食を食べ終えて一息ついていると、向かいに座った郁が、そうそうと話を切り出したのだ。
「教官、ちょっと見てください」
と。
そして、見せたのが今の「てへっ」だった。
「……何だ今のは」
思わず唖然として呟くと、郁は真面目な顔をして、だから、と言った。
「見てください。――てへっ」
今度は違うパターンでかわいこぶりっこのポーズを決める。それは、先ほど書庫で手塚を相手に見せていたのと同じものだ。
堂上は混乱した。
――なんだ、なにが起こっているんだ？
「頭でもおかしくなったのか」
「違いますよ！ 今のってどうでしたか？」
「どういう意味だ」
「だから、可愛かったですか？」
郁は真剣な顔で堂上に感想を求めてくる。
堂上は唖然とするばかり。郁がどういう答えを求めているのかがまったく読めない。正直「阿呆か」と言いたいところだ。答えずにいると、郁は勝手に一人で納得したようだった。しゅん、と肩まで落としている。
「やっぱりダメかあ」
「……なにがだ」
「柴崎があたしのてへは可愛くないからやめろって言うんです。だから、どうしたら可愛く見えるかなって、ちょっといろいろと考えてみたんですけど」
堂上は呆れた。
「馬鹿かお前は！」
思わず口にしていた。郁が眉をあげる。
「馬鹿ってなんですか」
「馬鹿だから馬鹿と言ったんだ！」
先ほど手塚に見せていたのはこれかと納得する一方で、頭が痛くなってくる。
直情径行すぎる。常日頃から男らしい言動が目立つのに、思考の変なところが乙女そのままだ。
いや、と首を振った。こいつはただ単純にアホなだけだ、と。
堂上は、そんなことを真剣に悩んでいた自分もまたアホらしくなってくる。深い溜め息を漏らして脱力したが、ハッとして顔を上げた。
「お前、それを他のやつにも見せて回っているんじゃないだろうな」
「まだ手塚と教官だけです」
「馬鹿！」
くらり、と眩暈がした。
「まだってなんだ！」
郁はええっ、と不満げだ。なぜ怒られるのかわかっていない。
――こいつは、こんなアホな芸を他のやつらにも見せて回るつもりだったのか！
柴崎が可愛くないからやめろと言ったのは、可愛くみえるようにやれと言ったのではなく、その「てへ」自体をやめろという意味で言ったに違いないのに。
「意見を求めるなら小牧までにしろ。他班の者にまで見せるな！」
「ええっ」
「上官命令だ！」
これ以上、うちの班の恥を他所に晒せるか！ とは口にはしない。
もっとも、小牧に聞いたらツボに入ってろくな意見は聞けないだろう。身体をくの字に腹を抱え、涙を流しながら笑う同僚の姿が目に浮かんだ。
郁は「はあい」と言いながら、また怒られたと唇を尖らせている。
――まったく、フグみたいな顔しやがって。
堂上はトレイを持って立ち上がり、郁を見下ろす。
てへ、と照れ笑う郁の顔が浮かんだ。重大なミスであの表情をされたら頭も来るが、郁はきちんと使い分けている。
「別に、今までと同じでいいんじゃないか」
思わず口にすると、へ？ と間抜けな顔が返ってきた。
堂上は郁の横を通りぬけざまに頭上を拳で軽く叩いた。その顔はやめろ、と思う。
「普通にしてたら十分だ」
「――」
え、と戸惑う郁に、堂上はニヤリと口角を上げた。
「新作はどれもキモすぎて観賞に耐えられん」
「キモ――って！ ひど――――ッ！」
郁が立ち上がった。顔が真っ赤になっている。それは、照れのためか怒りのためか。紅潮したまま、郁が叫ぶ。
「これでも一生懸命に考えたんですからー！」
「一生懸命ねえ」
鏡を前に、可愛い「てへ」を研究して何度も練習をしている郁を想像して、堂上は吹き出した。
了
【恋したくなるお題／12 今のままで十分可愛い】
2007.03.04
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