小牧幹久×中澤毬江
『分かるけど』
パシ、と。
毬江の耳が今でも聞こえているなら、そんな音がしたのかもしれない。
良い子、と頭を撫でられるその仕草がひどく子供扱いされているように思えて、気が付いたらその手を弾いていたのだ。
あ、と思ったときには遅い。
小牧の驚いたような顔に、毬江は動揺した。
謝るべきなのか、それとも訂正するべきなのか、それすらもわからない。口で言えばいいのか、それとも携帯で？
「私、もう子供じゃないです」
そう言いたかったのに、それは言葉にならなかった。
――もう子供に見えないから困っているよ。
そう言ってくれたあのときから、彼氏と彼女の関係になっているのに、扱いは小学生の時と変わらないなんて――。
それがなんだか悔しくて。
「小牧さんのばか」
言って後悔したが、訂正することも出来ずにそこで別れた。小牧からはすぐにメールが来たが、返信はしていない。
毬江はため息をついた。
そんな態度こそが子供なんだと気づいてしまう。
小牧に頭を撫でられるのは嫌いじゃないのに。――そう思って気づく。
これから撫でてくれなくなったらどうしよう……。
はあ、と毬江は溜め息をついた。
あれから三日と空けずに図書館へ来たものの、小牧の姿を見つけることは出来ずにいる。それが残念なのか、ホッとしているのかも自分ではわからなかった。
今日は帰ろうと椅子から立ち上がったとき、ぽん、と軽快に――でも柔らかく肩を叩かれ、振り向くと柔らかい笑顔に出会った。
長身の女性。小牧の部下だ。
「笠原さん……」
「毬江ちゃん、久しぶり。――今、いい？」
手話ではないがジェスチャー混じりで行く先を指で示している。顔の角度は小牧に向かうのと同じくらい上げないと視線が合わない。
毬江が頷くと、笠原郁も頷いて一歩先に進んで歩き出した。
彼女は毬江が難聴であることを知っているため、隣で歩いているときは無理に話しかけてくることはない。――たったそれだけのことだが、いちいち相手の口元を確認しなくていいのは、精神的にも楽だ。
ふと、向かうその先に小牧がいる可能性に気づいて思わず立ち止まってしまう。すぐに笠原も気づいて振り返った。
「毬江ちゃん？」
毬江の戸惑いが伝わったのか、笠原は「ああ」と口を開いた。
「違う違う」
苦笑して、右の手首を振った。
「小牧教官とは関係ないから。――喧嘩しちゃったんだって？」
なぜ知っているのだろう――。
毬江の表情から読み取ったのか、笠原はくすりと笑うように目を細めた。
「小牧教官、休憩のたびにメールが気になって仕方がないみたい。どうしたんですかって聞いたら、毬江ちゃんを怒らせてしまったって。そんなこと私に言うくらいだもん。相当凹んでいるんだよ」
そこまで言うと、急に笠原が振り返って何かを呟いた。早くて唇から読み取れなかったが、その言葉が「堂上教官」であることはすぐに分かった。
小牧の同僚は、歩いてくるなり笠原の頭を拳で叩いた。びく、と驚く毬江に堂上篤は何事もなかったかのように挨拶をした。毬江が慌てて頭を下げると小さく頷いて、堂上は頭を抱えて唸っている笠原に向かって眉を上げた。
「ったくお前は！ 放っておけと言っただろうが！」
「だって、教官〜」
「だってじゃない！」
「教官だって気にしていたじゃないですか」
「だからって本能のままに動くな！ お前は猿か！」
「ひっどーい！」
ぶう、と頬を膨らませる笠原が可愛くて、毬江はくすりと笑った。
「あ！ もう、教官のせいで毬江ちゃんにも笑われちゃったじゃないですかー！」
「何でもかんでも俺のせいにするなッ！」
ガン、とまた頭に拳が落ちる。
「ううう〜」
涙目になる笠原に、まったくと堂上は呟いて、その手を彼女の頭に乗せた。
「泣くな泣くな」
よしよし、と頭を撫でるその仕草が小牧とダブって毬江は驚いてしまう。
あれだけ乱暴な言動なのに、笠原を見つめる堂上の表情はとても優しい。頭を撫でる仕草も子供に対するものとはまったく違っていた。
二人を見ていたら顔が紅潮した。
なんだか、見ているほうが赤くなってしまう。
頭に手をおかれている笠原が、堂上の表情に気づいていないことにも気づいてしまって。
う。照れる。
堂上さん、この人が好きなんだ、と思った。
それに、頭を撫でるからといって、子供扱いしているわけじゃないことも分かって。
――小牧も同じ、なのだろうか。
堂上や笠原と別れ、休憩スペースにあるカラフルなボックスの椅子に座ってガラス越しに中庭を眺めていると、廊下の角を曲がって小牧が歩いてくるのが見えた。
毬江が立ち上がると、名を呼んで近づいてくる。堂上たちに毬江が来ていることを聞いたのだろう。
小牧が目の前に立つと、毬江は丁寧に頭を下げた。
「ごめんなさい」
周囲に人がいないということもあったが、メールではなく、自分の口から直接謝りたかった。
肩を優しく掴まれて、顔を上げさせられた。小牧は首を横に振る。俺のほうこそごめん、と謝ってくるので、毬江は慌てて首を横に振った。
「私のほうが悪かったの。……怒った？」
「怒らないよ」
毬江がホッとしたように、小牧もまたホッとしたような空気が伝わってくる。
毬江は申し訳なくてもう一度「ごめんなさい」と謝った。小牧に子供扱いして欲しくないと怒ったのに、行動は子供そのものなのだから自分でも呆れてしまう。
「まだ仕事中？」
「ちょうど終わった」
座るようにと誘導されるが、毬江は首を横に振って、小牧をボックスに座らせた。
小牧の目の前に立つと、いつもは見上げている彼を見下ろす形になり、互いに立っているときよりも顔が近くなってホッとする。
毬江は小牧に笑うと、片手を彼の頭に乗せて、髪の毛をくしゃりと混ぜた。
小牧は少し驚いた顔で、どうしたの、と小さく笑った。
「なんでもない」
毬江は両手で小牧の髪をかき上げた。されるがままになっている小牧が愛しくて笑ってしまう。
「小牧さんの気持ちになってみたくなったの」
「俺の気持ち？」
小牧は瞬いて、それからふわりと口角を上げた。
「どんな気持ちになった？」
「ええとね」
毬江は一歩足を前に進め、小牧の膝の間に身体を入れると男の頭を宝物のように優しく抱き抱いた。
「こんな気持ち」
「――」
振り払われる気配がないのでそのまま小牧の髪に顔を埋めていると、胸の位置で小さく笑う気配がした。
「……た」
「え？」
毬江の耳では聞き取れない。
なんて言ったのだろう、と身体を離そうとしたら、その前に小牧の腕が腰に回って抱きしめられた。ギュ、と音がしそうなくらいに強く。
ドキドキと高鳴る鼓動が聞かれてしまいそうで、毬江が小牧の頭を解放すると、腰に回っていた腕の力も緩んだ。
「小牧さん」
毬江がそっと囁くと、小牧がうつむいて何かを口にした。
「……何？」
毬江は小牧の言葉を聞き逃すまいと、その場で屈み、いつものように彼を見上げる。両膝を抱えて、首をかしげた。
「小牧さん」
小牧は苦笑を漏らして言った。かすかに頬が赤い。
「先にやられた」
「――」
毬江は目を大きく開いて、それからふわりと笑ってしまう。
先にやられた――と、そう言ったときの表情が、先ほど笠原郁の頭に手を置いている堂上の表情と重なった。
まったく、と呆れながらも愛しいと、そう思ってくれているのがわかる。
なんだか、男の人が可愛く思えてしまった――なんて言ったら怒るかな。
「我慢してたの？」
「してた」
「じゃあ、これからは我慢しないで」
毬江が真っ直ぐに見つめて言うと、小牧は目を細めて「了解」――と笑った。
了
【年の差の恋のお題／02. 大事にされてるのは分かるけど】
2007.11.12
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