「美――！」
かすかに私の名を呼ぶ声がしたけど、定かではない。
階段から転げ落ちると思っていた私は、衝撃もなく、階段の途中で止まっていた。
「なにを――」
背後から、ひどく焦ったような探偵の声がした。
「してるんだ。――着物なのに、いつものように階段を歩こうとしたら転ぶに決まっているだろうっ」
背中で結った帯を、探偵がつかんでいた。
「――探偵さん……！」
私は腰に手を回されて引き寄せられる。階段に両足をつけると、それを合図のように全身から汗が噴き出した。
落ちるかもしれなかったという恐怖心と、助かったという安堵感が一気に押し寄せてきて、探偵が来てくれたという安心感に涙が止まらなくなった。
「探偵さん」
「――僕の心臓を止める気か」
「すみません」
「謝るんじゃない」
「ごめんなさい……」
「同じことを何度も云うのは嫌いだ」
「ごめんなさい――」
私を引き寄せる探偵の腕を放さないようにしっかりとつかんで、私はただただ謝った。
どうか嫌わないで。
また普通に話しかけて。
女学生君！ と元気に云いながら笑って――。
貴方が好きだから、そばにいることを許して欲しい。
「探偵さん……っ」
「泣かなくてもいい。安心しなさい、もう口付けたりしないから」
探偵は私をいったん踊り場に降ろした。私が「探偵さん」と再度口にする前に、探偵は私の膝裏を攫って抱き上げた。
「――！？」
今度はお姫様抱っこだ。
「送っていく」
「た――探偵さんっ」
「こっちのほうが早い」
「それはそうですけど！」
「首に手を回して、しっかりとつかまっていなさい」
「探偵さんっ」
「いいから黙る」
「は、はい！」
思わず叫んでしまう。
私を抱いたまま階段をおりる探偵は、やっぱり歩きにくいのだろうか、立ち止まると私を抱えなおした。
「歩きにくくないですか？」
しかし、返ってきた答えはぜんぜん見当違いのものだった。
「さっき、君が恋の成就を願ったのなら、僕は絶対に叶えないから諦めるように」
「――」
は？
探偵が云った言葉に、私はきょとんとしてしまう。
「探偵……さん？」
探偵は立ち止まった。
「君はカマオロカが好きなんだな」
「……」
は？
思わず瞬いた。何を云われたのか、話の流れが理解できない。
――え？
えええ？ 何、どういうこと？
「それは、私が益田さんを好きかどうかってことですか？」
探偵は答えない。私は混乱してくる。
「もしかして、私が電話もしないで突然来たから怒っているんですか？ 探偵さんに最初に会わなかったから？」
「怒っているのは君だろう」
「私、怒ってません」
「嘘だ」
やけにきっぱりと断言する。
私は探偵を睨んだ。
「怒っているのは探偵さんのほうじゃないですか」
「女学生君のほうだ」
「探偵さんのほうです！」
「カマオロカの前で口付けたから怒っているんだろう」
「益田さんなんて関係ありません！」
「ある！」
「人前で口付けるからですよ！」
「僕の前だと笑わないのに、カマには笑うだろうが」
「はあ！？」
探偵は不機嫌そうに頬を膨らませた。
なんだか話がおかしなことになっている。
つまり、私が笑っているところを益田さんが見て――それを探偵が見たということ？
だってそれは、探偵に会えることが嬉しくて笑っていたり、探偵の行動が微笑ましいからだったりするわけで。
私は探偵の長い睫毛を見つめた。
「私、そんなに笑っていますか」
「……笑ってる。いつもそうだ。僕より、マスヤマと一緒の時の方が笑っている。僕には怒ってばかりだ」
それは探偵が怒るようなことばかりをするからだろう。
「だから、不機嫌なんですか？」
「当たり前だ！」
探偵は眉をひそめて、古書肆のごとく表情を険しくした。
だって。
それって――。
「探偵さん……」
ああ、どうしよう。
嬉しくて仕方がない。
「探偵さん……」
私は声を出して笑ってしまう。
「探偵さん！ 探偵さんっ！」
「何が可笑しいんだ」
私は、探偵の首に回した腕に力を入れて抱きつくように身を起こすと、そのまま彼の頬に口付けた。
「――」
氷が張るように、ピキ――と探偵が硬直したのがわかった。
今なにが、という表情で私を見る。
めったに見ることのない探偵の表情に、私は破顔した。
「――女学生君？」
私はもう一度探偵の首を引き寄せると、先ほどよりも少しだけ長く頬にキスをした。
「これでおあいこです」
「……おあいこか」
「はい」
私は目を細めた。
「私、また来年もここにこれますようにってお祈りしたんです。いつも探偵さんに会いに来ているんですよ？ 益田さんに会いに来ているんじゃありません」
「……」
探偵は真っ直ぐに私の顔を見て、小さく「うん」と云った。うん、ともう一度云って、探偵は顔を傾けると私の頬に口付けた。
そして――。
「わはははは！」
突然笑い出したのだった。
まるで頭が可笑しくなってしまったんじゃないかと思うほど急に。
「探偵さん！？」
私は腰が抜けるほど驚いた。
しかも、急に階段を駆けおり始めたのだ。
「た！ 探偵さん！？」
探偵は声を出して笑っている。
怖い！
怖いなんてものじゃない。私は夢中で探偵の首に抱きついた。止まってくださいと云いたいが、舌を咬んでしまいそうで、ただ目と歯を食いしばって探偵にしがみつくことしか出来ない。
探偵は一気に階段を駆け下りると、一息吐いて、「到着！」と楽しそうに叫んだ。
私は言葉もない。だが、探偵以上に呼吸が乱れている。
「ほら、あっという間だっただろう？」
探偵の呑気な声が響いた。確かに時間にしたら五秒も経っていないだろう。
私は、水を嫌がる猫のように探偵にしがみついていた。
「……お、おろしてください」
一気に喉が渇いたような気がした。
「ええ？」
「おろして……ください」
探偵は不承不承といった様子で、それでも丁寧に身をかがめて私を降ろしてくれた。
地面に足がついた時にはホッとした。
でも。
「腰が……」
情けないことに、立てない。よろめいて、探偵の腕にしがみついて立つのがやっとだった。
「わはははは！ よろよろしているぞ。イカ踊りみたいだ。イカ踊り。女学生君は楽しいなあ」
「――！」
誰のせいだと思っているんだ、この馬鹿探偵めっ。私は探偵を睨んだ。
「私は楽しくありません！」
もう絶対、探偵にお姫様抱っこしてもらうのはやめよう――と思った。お姫様抱っこは乙女の夢、などと呑気に云っていられない。
「僕はすごく楽しいぞ！ 女学生君は楽しくないのか？」
「ええ、探偵さんに１メートル以内へ近寄ってほしくないくらい」
「でも、一人で立てないだろう」
「立てます！」
探偵の腕にしがみつく形の私は、一気に離れようとしたが、すぐによろめいてしまう。
探偵がすばやく私の二の腕をつかみ、ほれみろ、と云わんばかりの息を吐いた。
うう、と唸る私は、もう探偵の顔すら見られない。それでも、しばらく経つとだいぶ鼓動も落ちついてくる。
「もう大丈夫です。――ありがとうございました」
「うん」
頭上から、くすりと笑う声がしたかと思うと、探偵はするりと私の手を取った。
「じゃあ、行こう！」
探偵は楽しそうに云うと、私が諾も否も口にする前に歩き出した。
「た、探偵さん……！」
まるで引っ張られるように歩き出す。
隣に並ぶと、探偵は少しだけ立ち止まって、握った手を揺らした。
私の歩調に合わせてか、ゆっくりと歩いてくれる。
街を歩く人々が、私たちをちらりと見ていく。背の高い美形と、振り袖の少女が手をつないで歩いているのだ。目を引くなというほうがおかしい。
「ずっと駅から歩いて来たのか？」
「え？ ――あ、はい」
「そういう時はすぐに僕を呼びたまえ」
「一人で歩ける距離ですけど」
「違う。ふだんの制服姿も私服も可愛いけど、そういう綺麗な格好をしているときは一人でいるものじゃない」
「はあ」
「はあではない！ せっかく可愛い子と一緒にいるのに、みんなに見せびらかせないとつまらないじゃないか！」
「……」
私は胸を張る探偵を見上げた。
そういう問題なのか……？
三十代半ばの男と、十代半ばの少女は、周囲からどう見えるのだろう。
探偵は年齢よりも若く見えるが、それでも、叔父と姪といったところか。
下手すると親子――。恋人には見えないに違いない。
それでも、探偵が周囲から注目されて気持ち良さそうにしているのは確かだ。
私は小さく笑ってしまう。
なんだかお気に入りの玩具を自慢する子供みたいだった。
探偵が私の顔を覗き込むように身を屈めた。
「笑ったね。女学生君も楽しいだろう？」
私は笑いを堪えようとして――結局は笑ってしまう。
「はい」
探偵と一緒なら、いつだって楽しいのだ。
たとえ周囲からどう見られていようと、探偵は探偵で、私は私だ。
私といると、探偵もいつも楽しいといいのにな。
「探偵さんも楽しいですか？」
私が小首を傾げると、探偵はもちろんだよ、と云った。
「女学生君と一緒だからね！」
「――！」
たとえ彼にとってはそれがただの保護欲であったとしても。
彼に好きな人がいるのだとしても。
「私も」
今、隣にいられるだけで幸せに思えた。
「私も、探偵さんと一緒だとすごく楽しいです」
私の顔を見た探偵は、急に立ち止まった。
「女学生君！」
「はい？」
私も慌てて足を止める。
「どうしました？」
「困った」
「え！ 何がですか」
忘れ物でもしたのだろうか？ それとも、お金を置きっぱなしで来てしまったとか――？
そういえば事務所の鍵を閉めてないんじゃ――。
私は焦って探偵を見上げた。
戻りましょうか、と提案しようとしたが。
「今すぐ口付けたいんだけど」
「……」
え――？
探偵は、本当に困ったように私を見ると、上半身を傾けて囁いた。
「いい？」
了
【榎木津×美由紀フェスティバル投稿】
2006.03.05