榎木津×美由紀
『あなたが一番』
土曜日の昼すぎ、神田神保町にある探偵社へと寄った私は、扉を開けてすぐに慌てて戸を引いた。
「わ――！ すみません！」
人が立っていたのだ。危うくぶつけるところだった、と嫌な汗が背中を伝う。恐る恐る扉を開けて、私は事務所に入った。
見上げるほどの長身。アイボリーのトレンチコートは皺ひとつなく、後姿であるのに、姿勢良く堂々と立つ姿は雑誌に載っているモデルのようだった。
誰、と疑問に思うまでもない。そんな人がそうそういるわけもなく――。
「探偵さん……！ 出かけるところですか？」
「出かけてきたところだ」
探偵は云い捨てると、振り返ることもなく、歩きながらコートを脱いでソファーに投げた。
「和寅、客！」
「はーい！ ただいま行きますー」
掃除をしていたのか、部屋の奥から頭に三角巾を被った和寅さんが慌てて出て来た。
「いらっしゃいませ、どういったご用件――」
でしょうか、という言葉を待たず、和寅さんは笑顔からきょとんとした顔になった。
「あれ？ 美由紀さん、いらっしゃい！」
「こんにちは」
「お客って……」
和寅さんが小首を傾げて私の背後を見る。
「美由紀さんですかい？」
私はどう返していいのかわからない。
「ええと、……はい。たぶん」
客には違いないのだが、依頼人……というわけでもなく。ただの訪問者に過ぎない。
探偵は、「探偵」と書かれた三角錐が置かれた大きな机を回って、大きな椅子にどっかと腰をおろした。機嫌が悪いのは一目で分かる。
和寅さんは首を傾げてから、私を見た。
「依頼がある……わけじゃないですよねえ」
「……はい」
「ま……まあ、とにかく座ってくださいよ」
和寅さんが笑って、ソファーに放ってあった探偵のコートを取った。
「いま、お茶を入れますから」
「ありがとうございます」
私は笑い、でもソファーには座らずに探偵の机のところへと向かった。
「探偵さん、こんにちは」
「……」
いつもなら元気に返してくれるのに、「ん」という短い言葉だけが返ってきた。
「どこに行っていたんですか？」
「……どこに行ってたんだ」
「え、私ですか。私は京極堂に行きましたけど」
「……」
探偵の眉間に皺が寄り、ますます機嫌が悪くなったのが分かった。
なんだろう。
私が京極堂へ寄ることなどいつものことで、それが探偵の機嫌を悪くする原因とは思えない。お昼をごちそうになったのがいけなかっただろうか。探偵は古書屋の細君の食事が大好きなのだ。なぜ自分も誘わなかったんだ、と怒っているとか？ いやいや、それなら堂々と口にすればいいことで。
先に探偵社に寄ってから京極堂へと行くべきだったのだろうか。
探偵が機嫌の悪い理由を考えてみるが、思い当たらずに困ってしまう。
仕事で機嫌の悪いときなら、私が行けば必ず機嫌がよくなるのに――それは、自分勝手なうぬぼれなのかも知れないけれど。
「探偵さん……？」
理由は分からないけれど、謝っておくべきかも――と思ったときだった。
カラン、と背後で扉が開いた。
「ただいま帰りましたー！ うー、今日は寒いっすね！ やっぱりここは暖かいなあ」
益田さんが手を擦りながら入ってきたのだった。目にかかるほど長い前髪が揺れ、身体からは白い冷気が立ちのぼっている。
「ああ、美由紀ちゃん、こんにちは！ どうしたの、立ったまんまで」
「こんにちは」
私が微苦笑を漏らすと、益田さんはにこにこと笑って目を細めた。
「さっきはすごかったねえ。見てたよ、柴田さんと一緒だったでしょう」
「はい」
黒いベンツから降りたときは注目を浴びて少し恥ずかしかった。
――柴田勇治。彼は柴田グループのトップであり、私が以前いた学園の前理事長だった。その学校はすでに閉校となっているが、私が今の学校へ編入できたのは彼のおかげだ。企業家というより、健康的に焼けた肌と白い歯を見ているとスポーツ選手のほうが向いてそうな感じがする。財閥の長とは思えないほど若く、人当たりが穏やかな人だった。
「京極堂でお会いしたんですけど、ここまで送ってくれたんです」
榎木津ビルヂングの向かいで降ろしてくれたのだ。
「へえ」
益田さんがにこにこと笑う。
私は探偵のほうに振り返った。
「そういえば、柴田さんが探偵さんによろしくって云っていました」
詳しい内容は話してくれなかったけれど、探偵社に依頼をして、そのすべてが探偵のおかげで解決したという。おそらくそれは半分本当で半分嘘だ。探偵は事件をかき回しただけで、解決に導いたのは拝み屋にちがいない。
その様子がまざまざと脳裏に浮かんで、思わずくすりと笑ってしまった。
探偵が真っ直ぐに私を見ていた。
「探偵さん？」
「……」
探偵は眉を寄せた。
「…………花を」
「花？」
私は瞬き、ああ、と破顔した。
「お参りに行くというので花束を買ったんです。来る途中で私が選んだんですけど」
小夜子の墓にも供えてくれるというので、小夜子が好きな花を選んだのだった。柴田さんは、私が大切な親友を亡くしたあの事件で婚約者を失っているのだ。
同じ痛みを抱えた人。
車には運転手がいて、私と柴田さんは後部座席に座っていたのだが、私は彼に乞われて事件が起こる前までの学園生活のことを語ったのだ。柴田さんは楽しそうにその話を聞いてくれていた。その間、ずっと私が花束を持っていたので探偵にはそれが見えたのだろう。
「それがなにか？」
私が小首を傾げると、がたん、と探偵は勢いよく立ち上がった。
「女学生君！」
「は！？」
「はじゃない！」
「はい！」
私は背筋を伸ばした。
探偵は何か口にしようとしていたが、結局はじいっと私を見た後にふいと視線を外し、
「なんでもない」
と云った。
「……探偵さん？」
「なんでもないと云っている」
そして不機嫌そうに眉を寄せ、再び椅子に腰を下ろした。
まったく、わけが分からない。
「おや、美由紀さん、まだ立っていたんですか」
台所から和寅さんがお茶を持って現れ、最初に探偵の机に湯のみを置いた。
「先生、煙草を買いに行くって出て行ったのに、もう買ってきたんですかい」
「うるさいぞ、馬鹿寅！」
「はいはい」
和寅さんは肩をすくめて、私に苦笑を漏らした。
「美由紀さんが来るのが見えて、戻ってきたんですかね」
「馬鹿寅！！」
「はいはい。私が買ってきますよう」
和寅さんはソファーに座る益田さんに直接、そして私の湯のみをテーブルに置いた。
益田さんがけけけ、と笑った。湯のみを両手で抱えてホッとした顔をしている。よほど手がかじかんでいたのだろう。
「美由紀ちゃん。おじさんの機嫌が悪いわけ、僕が推理してあげようか」
「……」
私は益田さんを見て、探偵を見た。
「いいです」
思わず笑みが漏れた。
探偵は、珍しく顔を隠すように頭を抱えた。
「私にも分かりましたから」
了
【古風気味な百の題目／093】
2006.03.22
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