榎木津×美由紀
『狙い定める』
ふにゃあ、とか。
うにゃあ、とか。
「榎木津さん、さっきからなんなんですか」
ソファーに座っていた益田は、我慢の限界を超えてついに振り返った。
「具合が悪いんだったら布団に入って寝てくださいよ」
心配するというよりも、愚痴に近い。
大きな机に突っ伏している探偵――榎木津礼二郎は朝から煩い。
やる気がないのはいつものことだとしても、黙って寝ているならまだいい。今日に限ってなぜかずっと唸り続けているのだ。
探偵の机に、寅吉が珈琲を置いた。
「朝からなんですよう」
その声は、いかにもうんざりといった様子。
「歯でも痛いんですかい、って聞いても返ってくる答えはふんにゃあほんにゃあですからね。らちがあきませんや」
和寅、と榎木津が眉を上げた。
「僕はほんにゃあなんて云ってないぞ！」
「うんにゃあでしたかね」
さらりと寅吉は受け流す。
「益田君も先生のことは気にしないで、放っておいたらいいんですよ」
益田の前にも珈琲を置いて、寅吉は台所に戻った。
「放っておいたらって云うけどね……」
気になるよ、と益田は溜め息をついた。
午前に行った調査の報告書をまとめているのだが、背後で変な声が聞こえてくるので集中できないのだ。いつものようにわはは！ と突然笑い出したり、ギャアギャアと騒がれた方がまだやりやすいというものだ。
榎木津はまだふにゃあと云い続けている。
「榎木津さん。猫語を話すんだったら外で話してくださいよ。ここは人間の世界なんですから」
「ボケマスカマオロカ」
「なんで全部つなげるんですか」
「お前はゴミバケツの中を漁ってにゃんこに威嚇されていればいいのだ」
はいはい、と益田は溜め息をついた。どうせ僕はゴミバケツの中を覗いて猫に威嚇されましたよ、とつぶやく。
探偵は再びふにゃあと云った。
「榎木津さん……。本当にそれじゃあまるで発情期の猫ですって」
「……」
榎木津は、ぼうっとした目線のままぼそりとそれだ、と云った。
「は？ どれです」
「発情期」
「……はあ」
猫じゃないんですから、と益田は脳裏で突っ込む。
「もう、しっかりしてくださいよ」
中禅寺のところへ連れて行ったほうがいいかもしれない、と本気で思った。猫の霊でも取り憑いているのだとしたら、これはもう益田の手には負えない。拝み屋の出番だ。
がたん、と探偵は立ち上がった。
「僕は発情期だったのだッ」
「いや、ですから」
おじさんは猫じゃないでしょう、と苦笑しかけた益田は、ギクリと身を固まらせた。
そういえば――と、背筋をいやな汗が流れた。
試験と学校の行事があるからと、呉美由紀が事務所に来なくなって三週間が経とうとしている。少なくとも一週間に一度は遊びに来ていた少女がこれほど長く姿を見せずにいるというのは、本当に久しぶりのことで。
いやまさか。
でも、と頬を引きつらせた。
だからか、と納得しかけた益田は、探偵を見て慌てて立ち上がった。
「榎木津さん――」
「なんだよ」
「どこに行くんですか」
探偵は立ち上がってコートに袖を通している。
「女学生君のところに決まっているだろう。僕は発情期だからな」
「は――」
発情期！？
待ってくださいよ――と益田は慌てた。
「ま、ちょ。榎――、そ…！」
「何が云いたいんだお前は」
「やめてください、榎木津さん、そりゃマズいですって」
事務所内を横切って出口に向かう探偵を益田は慌てて止めようとしたが、榎木津が急に立ち止まるので、そのまま抱きつくような形になってしまう。
「――！？」
急に動きを止めた榎木津を不審に思い、そろりと見上げれば、男は喜色満面といった顔つきで正面を見ていた。
「……？」
益田はその視線の先を追って、あ――と、目を見開いた。
事務所の戸に――くもりガラスに、薄黒い人影が映っていたのだ。
ほっそりとした肢体、揺れる髪。
――呉美由紀だ。
背筋をピンと伸ばして立つ姿が、真っ先に目に浮かぶ。可憐というよりも、佳麗という表現が似合う少女。
美由紀はいつものように深呼吸をした後、トントンと戸を叩いた。
「入りたまえ！」
待ちかねたように、榎木津が叫んだ。
「み、美由紀ちゃん……！」
なんてタイミングの悪い、と益田は焦った。
いや、いいのか？ いやいや、良くないだろう。
貞操の危機だ。
事務所の戸が開き、カランと鐘が鳴った。
最初にさらりと髪が揺れ、ひょこ――と可愛らしい仕草で端整な顔が事務所を覗いた。
榎木津がわははと笑った。
「来たな！」
「探偵さん」
榎木津と目が合うと、美由紀は目を細めて、本当に嬉しそうな表情で笑った。
「――と、益田さんも。こんにちは！ ……二人とも、どこかへ出かけるんですか？」
きょとんとした表情で小首をかしげた美由紀は、もみ合うようにしている探偵と探偵助手の姿に目を丸くしている。
益田は、心だけでも騎士であろうとした。
「美由紀ちゃん、逃げて――！」
「は？」
朝からふにゃふにゃとうるさかった猫は、本当は狼だったのだ。
榎木津が腕を振ると、益田は簡単に放りだされてしまう。
「ああ……っ」
騎士はよろりと倒れ、もうだめだ、と頭を下げた。不甲斐ない騎士を許してね、ガクッと益田はうなだれた。
榎木津は満面の笑みで美由紀に近づいていく。
「女学生君！」
「え、――え？」
怯んだ美由紀が、思わず一歩下がった。うなだれる益田を見、近づいてくる探偵を見上げる。
「探偵さん……」
「うん」
「どうかしたんですか」
わけがわからずに戸惑う美由紀の前に立った探偵は、少女をじいっと見つめたあと、にっこりと笑った。
「発情期なのだ」
「……は？」
問答無用、とはこういうことをいうのかもしれない。
「――え！？ ええええ！？」
狼は、嬉しそうに子羊の身体を抱きしめると、満足げに「ほう」と息を吐いた。
了
【古風気味な百の題目／070】
2006.04.06
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