榎木津×美由紀
『月満つればすなわち欠く』
「おい！」
大通りから低い男の声がしたかと思うと、「あ！ おい！」「手前コラ！ 待ちやがれ！」といった複数の荒立った声が響いた。
人が走る音と、さらにそれを追いかける音、ゴミ容器が倒れる音、制する声がビルの狭間に響きわたる。
やくざか刑事が誰かを追っているのだろう。
「逃がさねえぞ、このボケッ！」
どこかで聞いたことのある声に首をかしげた。
ドスの利いた低音。すぐさま、険のある厳つくて怖い顔が脳裏に浮かんだ。
「木場……さん？」
もしも追いかけるのが木場刑事だとしたら、たとえ自分が泥棒でなくとも、あの声と顔で呼び止められた時点で反射的に逃げてしまうんじゃないだろうか。
声と足音が近づいてくるのがわかる。――良くない兆候だ。下手にぼうっと立っていたら、人質にされてしまうような。
私は左右を見回し、とっさに側の喫茶店に飛び込んだ。
すぐさま、店の前を一人の男が走り抜けていく。私は喫茶店から飛び出すと、男の行方を目で追った。
「どこ行きやがった！」
数十秒遅れて、男達がかけてくる。その中の一人を見て、やっぱり、と私は声をかけた。
「刑事さん！」
その声に、三人の顔がいっせいに私を向いた。中のひとり――木場さんが、軽く驚いたように瞬いた。
「お前さんは――」
「こっちです」
男たちはハッとして、駆けて来る。
私は喫茶店から五つ離れたビルの入り口を指した。
「あの赤いレンガのビルに」
「そうか――おい！」
「はいっ」
若い刑事が二人、私とすれ違うように走っていく。
木場さんの大きな手が私の肩をぽんと叩き、彼もまた仲間の後を追った。
「スリですか？」
「ああ。偶然見つけてな」
木場さんは男から取り上げたサイフを――なぜか三つ――手にしている。常習ですね、と男を取り押さえた若い刑事が云った。
駆けつけてきた制服の警察官にサイフを預け、ありがとよ、と木場刑事は改めて私に礼を云った。
厳つい顔に厚い胸板、丸太のように太い腕。貫禄のある雰囲気は、やはり刑事というよりやくざのようにしか見えない。だが、悪漢とやりあうにはちょうどいいのかもしれない。第一、私が出会った男の人の中で、この刑事さんほど信頼できる人はいない。
初めて出会ったときは警視庁の刑事だったが、今は麻布署に配属されているらしい。
「ええと、花子……じゃなくて、呉さん……だったよな」
「はい」
「どうしてこんなところにいるんだ。こっちの学校に編入したとは聞いているが」
おそらく、私が探偵社に入り浸っていることも知っているに違いない。
「買い物かい」
普通に疑問に思っているだけだろうが、相手が刑事なだけにまるで尋問のようだ。
私は制服姿で、いつもの行動範囲とはかけ離れた場所にいるのだから疑問に思っても当然だろう。
「探偵さんが風邪を引いたんです。それでお使いに」
「あの馬鹿が？」
刑事は眉をひそめた。
「どうせ嘘だろ」
あっさりと口にする。
「で、頼まれて薬でも買いに来たのか。馬鹿に飲ませる薬はねえぞ」
「和野屋のあんみつが食べたいというので」
「……」
あの馬鹿ッ！ と刑事は舌を鳴らした。
「どこまでも迷惑な野郎だな。馬鹿は風邪を引かないと昔から決まっているんだ。あいつは馬鹿なんだから、風邪って云うならそれは風邪じゃなくてただの……」
刑事は私を見て言いよどんだ。あまり女性の前では口に出来ないようなことを口にしようとしたのかも知れない。
私は小首を傾げた。
「ただの？」
「菌だ」
「きん？」
私は笑った。
ここだ、と刑事は和菓子屋の前で足を止めた。和野屋を探していた私に、それなら通りが一本違う、と案内してくれたのだった。
「ありがとうございました」
私が頭を下げると、おう、と刑事は云った。踵を返そうとして、何かを思いついたのか「ああ――それから」と振り返った。
「礼二郎の馬鹿はヤバい菌で脳味噌が侵されているんだ。危ねぇからあまり近づくんじゃねえぞ――」
云いながら、刑事は店先であんみつと何かを指示して購入すると、紙袋を私の手に押し付けた。
「どうせはしゃぎすぎて熱が出たんだろう、心配するほどのことじゃねえよ」
ぶっきらぼうだが、優しい物言いだった。
「じゃあな」
「はい……！」
私は笑って、もう一度礼を云った。
あんみつが食べられなかったら死ぬ――と主張していた探偵だったが、事務所に戻って寝室を覗くと、本当に死んだように眠っていた。私は静かに戸を閉める。
「さっきまで女学生君はまだかーってうるさかったんですがね」
和寅さんが苦笑する。
私は恐縮した。
「すみません」
「とんでもない。美由紀さんが来てくださってよかったです。いつもだったら暴れて大変ですからね」
「暴れ？」
私は瞬いた。頭が痛いぞ何とかしろ！ と無茶を云って暴れる探偵の姿がまざまざと想像できた。
――想像できてしまうのもどうか、と私は思う。
私は和菓子屋の袋を和寅さんに手渡した。
「これ、あんみつです」
すみませんねえ、と和寅さんは云って、あ――と目を見開いた。
「本当に和野屋まで行って来なすったんですかい」
「はい」
和野屋のあんみつが食べたいと探偵が云ったのに、別のところで買うわけには行かないだろう。
「そこら辺のでよかったのに」
どうりで遅かったはずだ、と和寅さんはつぶやいた。
「お駄賃は足りましたか」
「はい。――あ、途中で刑事さんに会って、買ってくれたんです。だから、電車賃だけで」
「刑事？」
「木場さんとちょうど会って」
「木場の旦那と？ ああそうか、和野屋があるのは麻布署の管轄内でやしたね」
私が預かっていたお金の釣りを手渡すと、和寅さんはお金を軽く拝むように持ち上げた。
「そうかあ、木場の旦那とお会いしたんですかい」
「スリを追いかけていました」
「スリですか。刑事っつうのは忙しいですな」
私は、台所に向かう和寅さんのあとに続く。
紙袋の中を覗いた和寅さんは、なにやら楽しげに笑った。中からあんみつのセットを取り出し、寒天に包丁を入れる。
「器に盛ったら、どこで買ったのかなんてわかりませんな」
和寅さんは笑いながら蜜柑をひとつ口につまむ。
私は探偵が気になって、寝室のほうへと視線を向ける。
「お薬は飲んだんですか？」
「いやいや」
和寅さんは苦笑した。
「嫌いなんですよ、お薬が。苦いじゃないですか。もう、子供ですからね、嫌がって飲まないんですわ」
なんとなく、想像はつく。
大丈夫ですよ、と優しい声で和寅さんは笑った。
「風邪じゃなくて、ちょっと熱が出ただけですから」
「……」
思わず、刑事の言葉が脳裏に浮かんだ。
「脳が菌に侵されて……」
「へ？」
「あ、いえ……」
私はもごもごと言葉を濁した。
和寅さんは慣れた手つきですばやくあんみつを用意し、お盆の上に乗せる。
「目の使いすぎ、なんでしょうな。よくあることなんですよ。――これ、お願いしてもいいですかね」
「はい」
私はお盆を受け取り、硝子の器に綺麗に盛られたあんみつを見つめた。
「おいしそう」
二色の寒天が鮮やかで、まるで氷菓子のようだった。蜜柑と黒豆、あんこがトッピングされて、黒蜜だけが食べる寸前にかけられるよう別の器に入れられていた。
「美由紀さんにはこれを」
和寅さんは、袋の中から和菓子をひとつ取り出して、お盆に乗せた。薄い色紙に包まれたそれは、中央に最中と書いてある。
くくくと楽しげに和寅さんは笑った。
「木場の旦那も気が利いてますな」
探偵は最中が嫌いなのだ。おそらく、木場刑事はそれを知っていてわざと購入したのだろう。
ちょっと待ってくださいね、と和寅さんはすばやくお茶の用意すると、お盆の上に湯のみをふたつ乗せた。
「じゃあ、お願いしやす」
「はい」
「私ゃ」
和寅さんはエプロンを脱いだ。
「ちょっと買い物に行ってきてもいいですかね。多分、目が覚めたら桃の缶詰が食べたいって騒ぐと思うんですわ」
美由紀さんは先生に甘い、と彼はよく云うけど、和寅さんこそ探偵に甘いと私は思う。
いってらっしゃい、と私は笑った。
私が寝室に入ると、探偵はやっぱり死んだように眠っていた。
ふだん寝相の悪い探偵が、きちんと布団の中に入っている姿というのは、なんとも不思議な光景だ。
ぐうぐうでも、すうすうでもない。寝息すら聞こえない静まり返った部屋に、私は微かな不安を覚えてベッドに近づいた。
ベッドの隣にある小机にお盆を置くと、探偵の胸が動くのをドキドキしながら待った。
――が、布団はなかなか動かない。
「探偵……さん……」
まさか、という嫌な予感が胸をよぎる。だが、私の声に反応したかのように、すう――と探偵の息が聞こえて、同時に胸が流動した。
私は大きく息を吐いて、胸を撫で下ろした。こっちの心臓のほうが止まりそうだ。
ベッドを軋ませないように気をつけながら、ベッドの端にゆっくりと腰を降ろした。
手を伸ばして探偵の額に触れると、確かに熱がある。
端整な顔は、熱で赤いというよりも、むしろ血の気が引いたようにますます白いのだけれど。
「冷やした方がいいのかな……」
「寝ていれば治るよ」
「――！」
突然の声に、私は叫びを上げそうになった。
探偵の目が開いて、うつろな瞳が私を見上げていた。
「探偵さん」
「どこに行っていたんだ」
「和野屋に」
探偵は少し驚いたように私を見た。
「行ったのか」
「はい」
「そうか」
探偵は目を閉じた。
「じゃあ、食べないといけないな」
「……」
もしかして、ただ適当に口にしただけだったのだろうか。和野屋のあんみつを食べないと死ぬ死ぬ死んでしまう、とか云っていたくせに。
「最中もありますよ」
「それはいらない」
憮然とした声が返ってきて、私はくすりと笑う。
「じゃあ、桃缶が食べたい――とか？」
「うん」
素直な返事が返ってきて、私は笑ってしまう。いつものように探偵が騒がないのは、それだけ辛いからだろう。こういうときに側にいることが出来て嬉しい――なんて思うのは不謹慎だろうか。
探偵は熱い息を吐く。
「女学生君の手は冷たくて気持ちがいいね」
「そうですか？」
私は探偵の額にもう一度手を伸ばした。
額に手を当てて、次に頬を包むと、くふん、と探偵は気持ち良さそうに笑った。
「ずっとそうしていてよ」
「すぐに温かくなりますけど」
「いいから」
探偵は囁く。
「僕が……」
探偵の声が徐々に消えていく。
「目を覚ますまでそこにいるように」
病気になると人肌を求めたくなる気持ちは痛いほどよく分かるから。
「――はい」
私は静かに笑った。
すう、と安心したように寝入った探偵を愛しく思う。
誰もが探偵を好きで、みんな心配している。
刑事さんも和寅さんも。
私がいることで、少しでも彼が安らげるといいのだけれど――。
早く元気になりますように――。
祈るように、私は上体を屈めて探偵の額に口づけた。
了
【古風気味な百の題目／012】
2006.04.09
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