榎木津×美由紀
『裏切り』
「探偵さんは映画とかよく見に行きます？」
珍しく水曜日の放課後に探偵事務所へと顔を出した呉美由紀が、探偵の机の前で小首を傾げた。
ふだんなら喜びそうな探偵だが、なぜか美由紀の顔を見るなり気分を害した様子で、そのことに美由紀も気づいたのだろう、話し辛そうにしている。
また変な勘違いで焼きもちを妬いているにちがいない、と益田は思った。今まで何度もあったことだ。
「君の名は、か」
「あ、はい――」
昨年、ＮＨＫのラジオドラマで人気となった番組が、今度は劇場版となって世間をにぎわせている。
「あれは面白くない」
「……そうですか」
榎木津の突き放すような言葉に、美由紀の声は消沈気味に落ちた。
ここはフォローすべきかも、と益田は明るく声をかけた。
「美由紀ちゃん、見に行くの？」
振り返った美由紀は、微苦笑を漏らしている。
「はい。柴田さんに鑑賞券をいただいたんです」
「ああ〜」
すぐさま榎木津の機嫌が悪い理由を察し、益田は苦笑するしかない。文化祭のチケット事件とまるで同じ展開だ。
「行くの？」
「見に行きたかったので……」
美由紀が最後まで云う前に、榎木津が勢いよく立ち上がった。びく、と驚いたように美由紀が身を縮める。
「探偵さん……？」
「京極のところに行く」
榎木津はそれだけを云い置いて、事務所を出ていった。怒りに任せて扉を閉めるかと思いきや、扉は静かに開き、静かに閉まった。鐘もまたカランカランと控えめに鳴る。いつもの探偵ではないと――それだけでわかる。
小さな溜め息が事務所に漏れた。
美由紀の眉が下がり、泣きそうな顔になっていることに気づいて益田は慌てた。
「あ、ほら、美由紀ちゃん、お茶でも飲んでいって」
「いえ……今日はもう帰らないと」
寮の門限は早い。
美由紀は笑顔を作って頭を下げた。益田はこのまま帰していいものか迷う。
「送っていこうか？」
「大丈夫です。まだ日は高いですから」
「また来てね」
本当に、と益田が云うと、美由紀はハイと笑う。
お邪魔しました、ともう一度頭を下げて事務所を出る美由紀を見送り、事務所に残った益田と寅吉は同時に溜め息をついた。
呉美由紀が今の学校に編入するにあたり身元保証人となった柴田勇治は、柴田財閥の若き長でありながら、真っ正直で正義感溢れる爽やかな好青年だ。薔薇十字探偵社にとっても上客なのだが、ただ一点、鈍さに関してだけは他の追随を許さない。
柴田が美由紀のことを年の離れた妹のように気にかけているのは、同じ事件を共有したという意識がそうさせるのだろう。だが、そのことが榎木津の神経を逆なでしていることに彼はまったく気づいていないのだ。
三十半ばの男が、二十歳も年下の少女に本気で恋をしているとは、普通は想像もしないだろう。だが、榎木津が呉美由紀という少女を特別に思っていることは、誰の目にも明らかで。
益田と寅吉にしてみたら、榎木津がいつ柴田財閥からの依頼は受けないと云い出すか、不安で仕方がない。
「行くのか……美由紀ちゃん」
思わずポツリと漏れた。
榎木津が美由紀の記憶を見て気分を害したということは、鑑賞券は柴田氏から直接手渡されたのだろう。だから、美由紀が事務所に来てすぐ不機嫌になったのだ。
美由紀に行ってほしくないのならそう云えばいいのに、と益田は思う。
常にわがままを云いたい放題の榎木津礼二郎は、独占欲が強いくせに、美由紀の意志というものも尊重しているようで、そういうことは口にしないのだ。行きたいならいけばいい――という考えなのだろう。だが、機嫌は悪くなり、その被害が周囲に――おもに下僕へと及ぶことになる。
「僕、……明日から休もうかな」
益田がつぶやくと、寅吉が悲壮な声で「益田君！」と叫んだ。休めるものなら寅吉だって休みたい。だが、残念ながら彼は探偵と同居しているのだ。
寅吉は目に見えてうろたえた。
「で、電話を……」
「電話？」
「電話ですよう、古書肆の先生に」
「今から台風が行くって忠告してあげるのかい」
「うちの先生の機嫌を直してもらうようにお願いするんでやす」
「……」
いやだ、と云うに決まっている。迷惑そうな表情で顔をしかめる中禅寺の姿は簡単に想像ができた。
きっと拝み屋ならこう云うだろう――。
――榎木津の機嫌なら、君たちを蹴って殴ったら良くなるだろうね。喜んで蹴られたまえ。
ああ、と益田は頭を抱えた。
「あれ？」
土曜日の午後、調査帰りの益田は、榎木津ビルヂングの一階にあるテーラーで美由紀の姿を見つけて瞬いた。
男性服が並ぶ店内の奥で、私服姿の少女がちょこんと椅子に座っていたのだ。
美由紀は店長である老紳士と話していたが、益田に気づいたのか笑顔で立ち上がった。黒や紺色が多いなか、美由紀の淡い桃色に赤い花が散ったドロップウェストドレスは店内を明るくしている。笑顔が花開くように広がり、まるで一輪挿しの花のようだった。榎木津が「可愛い可愛い」と口にする理由もわかるというものだ。――もっとも、美由紀にその自覚はないようだが。
「美由紀ちゃん、何してんの」
益田や寅吉の予想を裏切って、ここ二日、探偵は下僕に八つ当たりすることもなく、普通に起きて普通にゴロゴロしていた。寅吉の必死の泣き言を聞いたわけではないだろうが、古書肆が何かしてくれたのかもしれない、と電話で聞けば、そんなことは何一つしていないという。
益田は店長に頭を下げて店内へと入った。
その服かわいいね、と益田が褒めると、美由紀は嬉しそうにはにかんだ。本当に可愛いなあ、と思う。
「事務所閉まってた？」
「はい」
「そっか。和寅さん、買い物にでも行っているのかな。いいよ、僕と一緒に上がろう」
「あ――」
でも、と美由紀が云った。
「もう時間なので行かないと」
「時間？」
「待ち合わせをしているんです。映画を見に行くんで」
「映画――。今日？」
「はい」
待ち合わせの時間まで余裕があるので、少しだけ寄ったのだという。
「本当に見に行くの？」
「はい」
美由紀の笑顔は屈託がない。
益田はいやな予感に身体を硬直させた。
「まさか、柴田さんとここで待ち合わせをしている……とか」
そんなことをしたら、柴田さんの身が危ない、と本気で心配したのだが、美由紀はきょとんと瞬いて、
「柴田さん？」
と、小首を傾げた。
「柴田さんとは見に行きませんよ」
「え」
益田が知らないところで、榎木津と行くことにでもなったのだろうか、と思ったのだが、それも簡単に否定された。
「お祖父さまと行かれるのですよね」
老紳士がにこりと笑う。
益田は美由紀の顔を見た。
「おじいさま……って、仁吉さん？」
「はい」
「こんなに可愛いお孫さんとデートだなんて羨ましいですな」
「え？ え？？」
益田にはわけがわからない。
「柴田さんは……？」
「柴田さん？」
美由紀は怪訝そうな表情となっている。
「柴田さんは最初から鑑賞券をくれただけです。自分は忙しくて見にいけないから、お友達とどうぞって。……それで、探偵さんを誘おうと思ったんですけど」
「――」
あ、と益田は呆然とする。
――探偵さんは映画とかよく見に行きます？
「美由紀ちゃん、もしかしてこの前、榎木津さんを誘いに来たの！？」
「――あ、あの、……はい」
かああ、と美由紀の頬が紅潮した。
「でも、面白くないみたいだし、私と行っても……たぶん、つまらないんだと」
うあああああ、と益田は頭を抱えたくなった。
そうだ、と唸る。古書肆が云っていたじゃないか。榎木津がわかるのは映像だけだと。そのときに交わされた会話などわからないのだと――。
「そんなことないって！」
益田は否定しながら、やはり「あああ……！」と頭を抱えるばかり。
「あのね、ほら、なんて云えばいいんだろう」
「益田さん？」
美由紀はきょとんとしている。
ううう、と益田は唸った。
「ほら、『君の名は』って女の人が好きでもない男と結婚するでしょ。納得いかないんだね、面白くないんだよ。そういうのが理解できない人だから」
それに、と益田は云う。なぜか必死だった。
「榎木津さんって名前覚えられないでしょう、だから、君の名は、なんて聞く男の気持ちが理解できないんだよ」
思わずするりと出た言葉だったが、益田は自分でもよくここまでスラスラと出てきたものだと感心してしまう。
美由紀はちょっと驚いた表情で――くすりと笑った。
「ああ……そっか、そうですね」
榎木津が出会った女性に「君の名は」と訊ねたとして、女性が自分の名を口にしても榎木津は覚えられないか、もしくは次に会った時は違う名で呼ぶに違いない。
くすくすと笑う美由紀に、益田はホッとして脱力した。
「オジさんには恋愛映画じゃなくて、アクション映画とか冒険活劇物を誘ってみなよ。喜んでいくから」
「はい」
美由紀の肩からも力が抜けたのがわかった。
益田はああ――と思う。美由紀は時間があるから寄ったと云うが、やはり榎木津の態度が気になっていたのだろう。
「大丈夫だよ、美由紀ちゃん。そうだ、今日の映画が終わったら事務所においでよ。そうしたら榎木津さんの機嫌も直るから。――いや、絶対に来て。お願い！」
美由紀は目を細めると、ハイ――と笑った。
美由紀と入れ替わるようにしてテーラーの店長と世間話をしていた益田がしばらくしてから三階へと上がると、確かに鍵は閉まっていたものの、事務所内では長身の男がうろうろと動き回っていた。拝み屋にも負けないような気難しそうな顔をしている。
「榎木津さん、いたんですか」
「いたら悪いのか」
「美由紀ちゃんが来ていましたよ」
「――」
わざと無視した様子から、そのことを知っていたとわかる。居留守を使ったのか、と益田は呆れた。
薔薇十字探偵事務所では、来客を嫌がってわざと居留守を使うことも多い。だが、相手は呉美由紀だ。拗ねるにもほどがある。
なぜか怒りを覚えた益田は、
「今日がデートの日らしいです」
わざとにっこりと笑った。
探偵は立ち止まって益田を見た。
見ろ見ろ、と益田は思う。
せっかく美由紀から映画に誘ってくれたのに、勝手に勘違いして断わったのが悪い。女の子からデートに誘って、あんな断わり方をされたらどんなに傷つくか。もしかしたら寮に帰ってから泣いたかもしれないのだ。
「すごく嬉しそうでしたよ。いいなあ、映画館デート」
「……」
「楽しいだろうなあ」
探偵の眉間に皺が寄る。
もっと苛めてやろう、と益田は思った。自分の記憶を見て、美由紀がどんな服装でどんな笑みを向けていたのかがわかるのだから、二重のいじめだ。
益田はたとえ探偵の八つ当たりが自分に来ようがどんとこい、という気持ちになっていた。
くくく、と益田は笑う。
「美由紀ちゃん、可愛い服着てたなあ〜」
そろそろ蹴りがくるかな、と探偵を見て、益田は呆然とする。
「榎木津さん……？」
怒って当り散らすのかと思っていた探偵の反応は鈍く、むしろ泣きそうなくらいに表情が沈んでいたのだ。
「あ……あの、榎木津さん」
――もしかして、苛めすぎた……？
やばい、とかえって焦る。
探偵の肩が落ちているところを益田ははじめて見た。
「……寝る」
「は、はい！」
予想外の展開だった。
静かに寝室へと消えた探偵を、しばし呆然と見つめた。
「本気で凹んでいる……のか……？」
ここ数日、何事もなかったかのように振る舞いつつ、実はずっと気にしていたに違いない。
柴田氏ではなくお祖父さんと映画に行ったんですよ、と伝えた方がいいだろうか――。
益田は迷い迷って、結局、伝えないことに決める。
「どうせ、あと三時間か四時間だし」
美由紀が来れば、真相は判明するのだ。
益田のアドバイスに従って、来週は榎木津と美由紀が映画にでも行くことになれば、探偵の機嫌も簡単に回復するだろう。
益田は時計を見た。
映画は約二時間。終わってから神田の事務所へ来るまでにはまだ時間がある。
榎木津は今ごろベッドで不貞寝しているのだろうか。
思わずニヤリと口元に笑みが浮かんだ。
それまでせいぜい凹んでいるがいい――
ケケケ、と益田は楽しげに笑った。
了
【古風気味な百の題目／062】
2006.04.21
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