榎木津×美由紀
『夜の散歩』
机に腰をかけ、長い足を組んでいる。
探偵は、ギターを手に笑った。
「何でもいいよ」
探偵がギターの手入れをしているときに来訪したのだが、指慣らしにと、いくつかの曲を弾いた探偵は、私にリクエストを求めてきたのだ。
私と益田さん、和寅さんはソファーに座ってギターを聞く。事務所の中はちょっとしたミニコンサート状態だった。
「美由紀ちゃん、リクエストは？」
益田さんが私の顔を覗き込んでくる。
「榎木津さん、何でも弾けるよ」
私は右手を振った。
「だめ。私、ぜんぜん音楽とか知らないんです」
「でも何かあるでしょう。好きな曲を云ってみたら？」
「――」
私はひるんだ。
曲名と云われても、キラキラ星とか校歌とか、そんなものしか思いつかない。
探偵はぽろんぽろんと弦を弾きながら待っている。
「あ――」
とっさに浮かんだ曲があったが、私は慌てて口をつぐんだ。
「なに？」
ぽろん、ぽろん。
「美由紀ちゃん」
云って、と益田さんが笑う。
「でも――」
困ったように探偵を見れば、楽しそうな顔で私が云い出すのを待っている。
ぽろん、ぽろん。
「あ、あの……」
ぽろん、ぽろん。
「賛美歌……とか」
ぽろ――と、音が止まった。
何でもいいよ、と云ってた益田さんも目を丸くして、「あ」とか「う」と云った。
「それは……」
益田さんが確認するかのように探偵の顔を見た。
ギターで賛美歌。できるのか？ と事務所内が静まり返った。
「あの――無理なら」
神が賛美歌を弾く――という違和感もあって、私は慌てて手首を振った。
なんて馬鹿なことを云ってしまったのだろう。頬が紅潮して、恥ずかしさにうつむいてしまう。
ふと、笑う気配がした。それが探偵のものだと気づいて私は顔を上げる。
探偵はぽろん、と弦を鳴らす。
「いいよ」
「え」
「賛美歌」
「弾けるんですか」
「弾けないよ。知らないからね」
だから、と探偵は笑った。
「どういうのか、歌ってよ」
「それで、賛美歌を弾いてもらったのかい」
中野の古書肆が驚いたように私を見た。
「はい」
私はうなずくと、千鶴子さんがくすりと笑った。
「それは素敵ね」
賛美歌を歌えと云われて首を左右に振った私だったが、やけに盛り上がった益田さんと和寅さんに「歌って歌って」とせっつかれ、結局は自分で云い出したことと度胸を決めて歌い始めたのだった。
途中から探偵がギターを合わせてきたのだが。
「なんだか途中からジャズみたいな感じになっていました」
「まあ」
ふふ、と千鶴子さんは笑う。
「ジャズ風の賛美歌なんて、私も聞きたかったわ」
「千鶴子さんがお願いしたら絶対に弾いてくれますよ」
「そう？ そのときは美由紀さんも一緒にお願いしてね」
「はいっ」
くすりくすくす。座敷に女たちの笑いが楽しげに響く。
古書肆が渋い顔をしているのは、家業が神主だからだろう。ちなみに、古本屋は職業で、拝み屋は副業なのだという。
夏休みに入り、私が中禅寺家に泊まって三日が経っている。
神社の祭礼期間に合わせて巫女のバイトをしないかと誘われたのだった。祭礼は三日だが、御札を作ったり簡単な動作も習うので、全部で十日ほどのアルバイトだ。
夏休みの宿題も持ち込んで、夕飯の後は座敷の座卓で本を読む古書肆と向かい合って宿題をしたりもしている。元教師が目の前にいるので、ある意味、普通に授業を受けているようでとてもはかどりがよかった。
「――あ」
ガラガラと、母屋の玄関が開く音がして私は顔を上げた。
「来たみたいです」
「そうね」
千鶴子さんが立ち上がって出迎えに向かう。そして、なぜか開けてあった襖を丁寧に閉じていく。
「千鶴子」
古書肆が苦い顔をしている。
私は軽く小首をかしげ、目の前の宿題を片付け、鞄にしまう。
――と。
スパン――！ と、ものすごい音を立てて閉まったばかりの襖が開いた。
「うわはははは！」
探偵・榎木津礼二郎の登場だ。
「榎さん……」
古書肆は世界が滅亡した瞬間に出会ってしまったかのような顔をしている。
探偵の後ろから、にこにこと楽しげな細君が顔を見せた。私を見ると、千鶴子さんは片目を瞑って笑った。
「女学生君！ 準備はできたね、さあ行こう！」
探偵は身を屈め、両手を伸ばしてくる。私が自分のそれを重ねると、握られるが早いかふわりと軽く身体が持ち上がり、とん――と両足が畳を踏んだ。
探偵は私を上から下まで見ると、大きな目を細めた。
「うん、やっぱり可愛いな！」
私は浴衣を着ていた。
千鶴子さんのお下がりをもらったのだが、彼女に習って自分で着付けをしたのだ。
探偵の賛辞に頬が染まる。それがお世辞であっても嬉しかった。
「ありがとう……ございます」
探偵は私の両手を握ったままだ。それでますます頬が熱くなる。
「あの、探偵さん」
離してください、と口にする前に手が離れた。現金だが、少しだけ残念に思っていると、探偵はにっこりと笑って、
「回って」
と云った。
「え？」
「自分で着たのだろう。ちゃんと見せて」
「あ――」
はい、と私は両手を広げて、ゆっくりとその場で一回転した。
探偵はまるで小さな子供を褒めるように「可愛い可愛い」と両手を叩いた。
なんだか親ばかなお父さんみたいで可笑しくなる。私が笑うと、探偵は先ほどのように手を伸ばしてきた。
今度は片手。
「さあ、行こう」
「はい」
探偵の手に右手を重ね、私は背後の二人に向かって笑った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
千鶴子さんが笑う。
「楽しんできてね」
「花火が終わったらすぐに帰ってきなさい」
古書肆が本を見たまま云った。
「うるさいぞ馬鹿本屋」
「わっ」
探偵が急に手を引くので、私は彼の胸にぶつかってしまう。そのまま空いているほうの手で抱きしめられた。
「た――探偵さんっ」
「そんなことを言われなくてもちゃんと送ってくる」
「信じていますよ――美由紀君のことに関してはね」
古書肆は顔を上げると、フ――と笑った。
「いってらっしゃい」
了
【古風気味な百の題目／065】
2006.05.09