榎木津×美由紀 ※恋人設定。
『思い出すとは忘れる事よ』
目が覚めると、隣にいたはずの彼女がいなかった。
いや――、いる。
上半身を起こして、ぼんやりと窓の外を見ている。
細い肩だ。
――女学生君、と呼ぼうとして止めた。
彼女は、声を出さずに泣いていた。
透き通るような白い肌。初めて直接触れた肌はふわりと柔らかくて滑るように綺麗だった。
触れるだけで――触れられるだけでこんなに気持ちがいいのなら、もっと早くにそうすればよかったと、そのときに感じたのは喜びよりも後悔のほうが深く。
彼女の涙も、流れた血も、苦しそうな表情もすべてが愛しくて。
紅潮した身体も、漏れる喘ぎも、短い悲鳴も、すべてが僕のものだと思うと、それだけで幸せだった。
熱くて。
暖かくて。
気持ちがよくて。
いつまでも抱いていたいと――離したくないと思ったのに。
それなのに、何で泣いているの。
こんなときに。
失った友達のことを思って涙を流している。
まだ寒いのに、そんな格好でいたら風邪を引くよ。
僕だって寒い。
初めて出会ったときも、彼女は友達のことばかりを考えていた。
理解力のない大人を相手に、ひとりで戦っていた。
一生懸命に友達を守ろうとしていた。
殴られて吐いて泣いて叫んで。
誰にも救いを求めることなく戦っていた。
「何で泣いているの」
驚かせないように声をかけたつもりだったが、彼女はあわてて振り向くと、涙でぐちゃぐちゃになった顔を腕でぐいと拭った。
「探偵さん」
「寒いよ」
彼女の腕を引いて、倒れ込んできた少女の柔らかい身体を背後から抱きしめた。
「ほら、冷えてる」
肩口に唇を当てて、強く抱きしめる。
「探偵さん」
ああ、また泣いている。
「探偵さん」
「なに」
泣かないで、と祈るように彼女のこめかみに口付けた。
「痛かった？」
「痛かったです」
そのための涙ではないとわかってはいたけれど。
僕を嫌いになってしまうのだろうか。そう思うと急に胸が痛んだ。
「気持ちよくなかった？」
彼女の耳に囁く。
僕はすごく気持ちよかったよ。
彼女は殺された親友に心を囚われたまま。
死んだ人間は生き返ったりはしないのに。
いつも、こうして還ってくる――。
「何で泣いていたの」
ごめんなさい、と彼女はささやいた。
「ごめんなさい」
涙がぼろぼろ。
「何で泣くの」
「ごめんなさい」
嬉しいから――じゃないことは確かで。
こんなのは不本意だ。
彼女を抱いたことが、僕だけしか嬉しくなかったなんて。
「だめだよ」
彼女が嫌がっても、もう離すことなどできない。
一番欲しいものが目の前にあるのに。
やっと手に入ったのに。
「もう遅い」
僕以外の者に心を奪われるのは我慢ならない。
「君の友達には渡さない」
「友達……」
きょとんと、戸惑うような声。
探偵さん、と彼女はつぶやいた。
「誰のことですか」
「――誰？」
僕は頭にくる。
初めて抱いた朝に、僕のことじゃなくて友達のことを思って泣いておきながら――。
誰――だと？
「サチヨとかサヨリとか云う」
「小夜子？」
「その娘」
せっかく、ここしばらく彼女の記憶からは消えていたのに――。
何でよりによってこんなときに。
言葉を続けようとしたが、腕の中の少女はくすくすと笑い出した。
「探偵さん……小夜子にまで焼きもちなんて」
くすくすくす。
彼女はおかしそうに笑って、笑いながら涙をぼろぼろと流した。
涙というものに限界はないのだろうか。
私だけ、と彼女は云った。
露になった細い首。
「私だけこんなに幸せでいいのかなって思ったんです」
「良いに決まっているだろうが」
僕の即答に、彼女は驚いたように息を飲んだ。涙を拭い、身体を反転させる。
「だって――」
「だってじゃない。僕が幸せにするんだから、幸せで良いに決まっているのだ」
「だって小夜子は」
小夜子という少女は、教師に陵辱された。
眉を寄せて唇が震える。
「私だったのかも知れなくて」
たまたま教師に陵辱されたのが小夜子であっただけで、それは美由紀であった可能性もあったのだ。
僕はため息をついた。
「サチコが生きていたら、今ここにいるのはサチコだったのかもしれないと？」
そんなのはありえない。
そんな仮定は無意味だし、僕を侮辱しているのと同じだ。
「――」
僕は怒って。
彼女に云いたいことがたくさんあったのだけれど。
「……女学生君」
違うことを口にした。
「いま、幸せ？」
「幸せ……です」
「気持ちよかった……？」
「――っ」
息を飲んで。
彼女の顔はすぐに紅潮した。
何でそんなことを聞くの――と、彼女が思っているのがわかる。
耳まで赤くなって。
「――」
言葉にはしないが、ゆっくりと唇が動いて、小さく……うなずいた。
僕は破顔した。
彼女が愛しい。
愛しくて愛しくて、仕方がない。
どうしたらいいんだろう。
どうしたら、彼女の心も身体も全部自分のものにできるのだろう。
「サチヨの分まで、君が幸せになればいい」
ここにいるのが小夜子だったのかもしれないなんて、想像しても意味がない。
そんなのは絶対にありえない。
「僕が欲しいのはサチコじゃないのだから」
いま、腕の中にある女の子だけが欲しい。ほかには何もいらないと――思えるほどに。
いつから彼女が特別になったのかなんて覚えてないし、思い出そうとも思わない。
今。
そして、これからもずっと僕のものであれば、それだけでいい――。
僕は彼女の頭上に顔をうずめた。
「探偵さんって……」
くすりと、泣き笑うような声で彼女はつぶやいた。胸をくすぐるように吐息が触れる。
「本当に名前を覚えないんだから」
「うん」
「……変なことばかり聞くし｣
目に残っていた涙を拭う。
身体を少し離して、彼女は僕を見上げた。そして目を細めて笑う。
愛しい――と、彼女の瞳が語っている。
「やっと笑った」
嬉しくて、ふふと僕が笑うと、彼女は照れるように笑った。
その笑顔が可愛いから、彼女の額に口付けると、くすぐったそうに笑う。それがまた可愛くて、僕は何度も口付けた。
「探偵さんっ」
彼女は声を出して笑い始めた。離れていると口付けてくるとわかったのか、腕の中に寄ってくる。そっと抱きしめると、彼女もまた僕を抱きしめてくる。
やわらかい身体が、暖かい身体が、彼女の笑い声が、すごく気持ちよかった。
心地いい――。
そう。
彼女といると、心地いいのだ。
「探偵さん――」
彼女の真剣な声に、僕はふざけるのをやめた。
「なに」
「探偵さんは……」
今、幸せですか。
小さなささやきに。
「君がいるからね」
心からの思いを伝える。
君が思うよりも何倍も、何十倍も幸せであると。
思いが目に見えるものであればいいのに――。
「――よかった」
小さな安堵の声。
彼女の身体から、力が抜けた。
「私だけが幸せだったら……いやだなって、思っていたんです」
「君は……」
「はい？」
小首をかしげる少女に、僕は叫んだ。
「可愛いすぎるぞ！」
「は！？」
「もう一度しよう」
「な――なにを」
「何をってことはないだろう！ することはひとつだっ！」
「ちょ――まっ」
顔を真っ赤にして、慌てる姿もまた可愛い。
僕は笑った。
「今度は僕以外の誰も考えさせないようにたっぷりとしよう」
「な――なにが――！？」
「疲れ足りないからいろいろと考えてしまうのだ。もっと疲れてしまえばいろいろと考える余裕もなくなるだろう」
「どういう思考ですか！」
「別に理由はどうでもいいんだけど」
「何でいきなり――！」
慌てる彼女に、僕はにっこりと笑った。
「抱きたくなったからに決まっている」
いつでも。
いつまでも君を抱いていたいと、そっと耳元でささやいた。
了
【古風気味な百の題目／096】
2006.05.09
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