榎木津×美由紀
※初潮（生理）ネタです。嫌悪感を抱く方は見ないようにお気をつけください。
『鮮血』
朝から鈍痛はあったのだ。いや、正確には二・三日前から、へその下から腰にかけてなんとなく重い――そんな感覚が。
もし、今も私の隣に小夜子がいたら、それが初潮の兆しであることを察してなんらかの助言をしてくれたにちがいない。
十五歳にもなって月のものが来ないことは不安ではあったが、個人差があると云われて特に気にはしていなかったのだ。
ズキン、と下腹部が痛む。
また始まった、と私は唸った。せっかく落ち着いてきたのに、再び痛みがぶり返してきたのだ。
手足や頭から、すべての血が下腹部に向かって集まるような感覚。痺れる指には感覚がない。
これが生理だと教えてくれたのは、古書肆の細君だった。
――初潮。
京極堂の母屋の客室に布団を敷いてもらって、私はそこに寝ている。身体が冷えるからと足元には毛布が余分に掛けられている。少し前までは、身体は熱くて重くて、唾液も汗も止まらなかった。身体中の水分が出てしまったんじゃないだろうかと思うほど。今はひどく喉が渇いた。
こんなものが毎月来るのかと思うと、絶望的な気持ちになる。
――何でこんなものがあるのだろう。
小夜子は中学に上がると同時期に始まったという。「もういや」と云いながら毎月三・四日くらいひどく辛そうだったりだるそうだったりしていたが、ここまでの痛みを伴うものだとは思わなかった。痛みにも個人差があるというけれど、むしろ、私も早く来れば良いのに――とまで思っていたのだ。もしあのときにこの痛みを察することが出来ていたら、そんな自分を殴っていたに違いない。
ここにいたるまでの状況を嫌というほど思い出して、私は泣きたくなった。
腹の痛みに身体を丸める。
よりにもよって。
そう、まさに、よりにもよって――だった。
探偵と会っているときに始まらなくてもいいじゃないか――。
最悪だ、と私はつぶやいた。
誰かが言い争っているような声に私は目を覚ました。
あれからどれくらい寝ていたのか。痛みに我慢が出来ずに意識を失ったのだろう。ひどく頭がぼうっとしていた。
眠ってしまえばこの痛みを忘れていられるはずと意識しても、逆にそのまま寝てしまったら二度と起きないんじゃないか――そんな錯覚がして怖かったのに、結局はあっさりと寝てしまったらしい。そんなものかもしれない。
「やっぱり病院に連れて行く！ こんなに手が冷たくなっているんだぞ！」
「馬鹿！ 何でもねえって千鶴さんが言ってんだろうが！ それに病院に連れて行くって云ったのを最初に反対したのはどこのどいつだコラ！ みっともなくうろたえてんじゃねえよ、この淡らボケ！」
「お前だってうろたえていたじゃないか」
「ば、馬鹿っ！ そりゃ血が出てたからだろうが！ 手前みてえにギャアギャア騒いでいたわけじゃねえッ」
探偵と刑事のなんだか恥ずかしいやり取りが聞こえてくる。――枕元で。
「探偵さん……」
「――！」
パッと、探偵の顔が驚いたように振りかえった。薄暗い室内に、隣の部屋からの明かりだけが漏れてくる。
「女学生君」
探偵の顔は影になっていたけれど、まるで私が死のふちから生き返ったような顔をしていた。私は安心させようと笑みを作る。
身を起こそうとして、探偵の手が私の右手を握っていることに気づいた。いや、私が探偵の手を握っているのか。力を抜いて手を離そうとしたら、探偵のほうから握り返してきた。そのまま空いているほうの手で額を優しく押されて枕に戻されてしまう。
まだ寝てろ、と。
「ごめんなさい。もう、大丈夫です。――刑事さんも」
奥の部屋にいるのだろう。
「すみませんでした」
「同寸男に謝ることなどないぞ！」
「うるせえッ！ 病人の枕元で騒ぐんじゃねえよッ！ この馬鹿探偵が！」
「煩いのはお前のほうじゃないか！」
「どちらも煩いですよ」
静かな――けれど威圧的な声が奥の部屋からかかった。京極堂の主、中禅寺だ。透くような声が落ちて、二頭の猛犬は大人しく黙り込んだ。
「美由紀君、寮には連絡をしたから、今日はここに泊まっていきなさい」
古書肆の顔は見えないが、険しい顔をしているに違いない。それでも、声質はすごく優しかった。
はい、と私は答えた。礼儀として一度は遠慮すべきなのかもしれないが、そのやり取りすら今の私には辛い。遠慮なく甘えさせてもらうことにした。
「ありがとうございます……」
腹の痛みはすっかり治まっていたが、身体がだるいことに変わりはない。
「目が覚めたのね」
ふわりと柔らかい声がした。電気は消したまま、千鶴子さんが部屋に入ってきた。
「煩い声に起きてしまったんじゃないの？」
「いえ」
私は微苦笑を返す。
探偵と出かけている途中、麻布署の近くで私が腹痛で倒れたのだった。足を伝う赤い血に、それが何であるのかはすぐにわかったのだけれど。
探偵は木場刑事を呼び出すと、車を出させて中野まで連れてきたのだった。生理痛で倒れて、救急車ではなくサイレンつきの警察車に乗ることになるとは、おそらく一生に二度はない出来事に違いない。刑事は近くの病院に、と云ったのだが、探偵が「千鶴さんのところ」と云い張って譲らなかったのだ。
すみません、と私が謝ると、彼女はふふと笑った。
「気にしないでいいのよ。みんな最初はそうなの。美由紀さんの場合は少し重いみたいだけど――もう起きられる？」
「はい」
「じゃあ、榎木津さんは出てくださいな」
探偵が不満そうな声を上げると、千鶴子さんは目を細めた。
「いいと云うまで入ってきたら駄目ですよ」
奥の部屋から「早く来いよ、礼二郎」という声がかかった。探偵は手を離すと、軽く私の手を叩いてから立ち上がった。
「探偵さん、ごめんなさい……」
私が謝ると、探偵は私を見下ろして静かに微笑んだ。もう一度ひざを突くと、汗でこびりついた前髪を払ってくれる。綺麗で長い指の甲が頬に触れて、探偵は少しだけホッとしたような顔をした。
「何で謝るんだ？」
「迷惑をかけて」
「ないよ」
探偵は笑う。
「木場修が慌てる様を見れて面白かった」
てめえもじゃねえか、と奥から声がした。
「本当に」
千鶴子さんが笑いを堪えている。
探偵があれほど慌てた姿は見たことがないと、古書肆の細君は笑った。
そうなのかな、と探偵を見上げると、にっこりと嬉しそうな顔が返ってきた。ゆっくりと顔が落ちてきて、額に口付けられる。
よく聞き取れないが、優しい囁きが額に触れた。
私だけがお風呂に入った後、その日の夕飯は探偵と刑事も一緒に、と千鶴子さんに誘われて、食卓を五人が囲むことになった。
卓上に夕飯が並べ終わると、探偵はまるで自分が作ったかのように胸を張った。
「おめでたいことなのだから、たくさん食べなさい！」
まるで母鳥がヒナにえさを与えるかのように、探偵はこれを食べなさい、これも食べなさい、と私の取り皿におかずを置いていく。
刑事が呆れたようにそのやり取りを見ている。私を見る視線は、気持ち憐れみが入っているように思えた。私が苦笑を返すと、刑事も苦笑を返してきた。
「礼二郎、落ち着いて食えよ」
「うるさいぞ豆腐男」
初潮でお赤飯というのは想像以上に恥ずかしかったが、刑事も古書肆もそのあたりは大人で、普通に何事もなくご飯を口に運んでいる。
一番にぎやかなのは探偵だ。もっとも、それはいつものことなのだけれど。
「あの……探偵さん、私、こんなに食べられません」
千鶴子さんの手前、口にはしなかったが、食欲自体がない。手元のお赤飯だけでおなかがいっぱいになりそうだった。大量の汗をかいて、体重も一気に２キロくらい落ちたような気がするから、それを心配してのことかもしれないが。
探偵は眉を上げる。
「こんなにめでたいことなのに、あまり嬉しそうじゃないな」
「……嬉しくはないです」
毎月こんな状態になるのかと思うと、素直に喜べるはずもない。
なんで？ と探偵は不思議そうに云う。
「こんなに喜ばしいことは一生にそうないぞ！」
確かに、世間一般ではおめでたいことなのだろうけど。
「探偵さんは嬉しそうですね」
「もちろんだともッ！ 女学生君ももっと喜びたまえ！」
「はあ……」
元気だな、と思いながらご飯を口に運んだ私に、探偵はにっこりと笑った。
「僕の子供が生めるようになったんだからね！」
ブホッ！
私と刑事と古書肆が同時に口に含んでいる物を吹いた。
うわッ！ と探偵が叫んだ。
「汚いな！」
「この、馬鹿ッ！」
ゴホゴホ、と私たちはむせるばかり。
私たちが吹いたご飯やお茶が食卓の上に飛び散って大惨事となっている。
「あらあら、たいへん」
千鶴子さんが布巾を取りに慌てて台所へ向かった。
刑事が立ち上がって、探偵の胸倉をつかんだ。
「てめえには恥じらいってモンがねえのか！」
「なんだと！」
「表へ出ろ、この馬鹿が！」
大騒ぎとなった座敷から避難しようと、私と古書肆は台所に向かった。
台所に入ると、千鶴子さんが肩を震わせている。一瞬、泣いているのかと思ったが、口を押さえて笑っていた。
「千鶴子さん」
私が声をかけると、千鶴子さんは「ああ、ごめんなさいね」と振り返り、古書肆の顔を見て再度吹き出した。
古書肆は憮然とする。
「千鶴子……」
「だってあなた、ブーッて……」
そして、声を出して笑い出した。
後に、うちの人がご飯を吹くのを初めて見たのよ、と千鶴子さんが笑った。
了
【古風気味な百の題目／044】
2006.03.22
「京極部屋」に戻る
≪炎帝月帝≫TOP