榎木津×美由紀
『つむじまがり』
「女学生君！」
探偵はいつも私のことをそう呼ぶ。
呉美由紀――と、私が彼に名乗ったのはただの一度きり。
美代子と最初に呼ばれた。水無月と呼ばれ、花子とも呼ばれた。
女学生、女子学生と呼ばれて、最後には「女学生君」で落ち着いてしまった。
時折名前を呼んでくれることもあったが、美千代であったり美奈子であったり、やはり本名で呼ばれることはなかった。
探偵に名乗るのは、彼に云わせると無駄なのだ。
なぜいまさらそんなことを思ったのかといえば、
「そういえば、一度も……呼ばれたことが、ない？」
――ことに気づいてしまったわけで。
美由紀――なんてそう珍しい名前でもない。一度くらいは「間違えて」美由紀と口にしてもよさそうなのに、まるでわざと美由紀だけを避けているみたいに探偵は私の名を口にしないのだ。
呉美代子と紹介したら、美由紀と間違えて呼ぶことがあったのかもしれない。今度、益田さんや和寅さんに私のことを「美代子」と呼んでもらうことにしようか。
そんな馬鹿なことを考えて、私は苦笑を漏らした。
探偵は私の膝を枕にして、ぐうぐうと寝ている。
薔薇十字探偵事務所に遊びに来たいつもの土曜日。こうして私が事務所に顔を出すようになってから三ヵ月が経とうとしている。
いつも昼過ぎに起きる探偵は、私が来ると同時に起こされて寝室を出てきたのだが、ジーパンにシャツという珍しくラフな姿で現れると、まだ眠いのか目が完全に開いていない状態のまま私を呼んだ。
なんだろう、と招き入れられるままに寝室に入れば、探偵は奥にある寝台に座り、自分の隣をぽんぽんと叩いた。ここに座れとぽんぽん、ぽんぽん。
探偵は早く早くと云いたげに、不機嫌さを隠そうともせずに私を急かした。
ぽんぽん！ ぽんぽん！
座れ座れ、と探偵はシーツの上を叩く。
「はいはい」
私は小走りで探偵の元に行くと、彼が指示する通りに寝台へ上がり、探偵の隣に正座した。
「座りましたよ」
「うん」
探偵は満足そうに笑った。そして、気持ちよさそうな笑みを浮かべたまま、
「――え」
ごろんと上体を倒し、仰向けになって私の膝を枕に眠ってしまったのだった。
「た、探偵さんっ」
慌てる私に、探偵はぐうぐうと寝息を返すのみ。
「美由紀ちゃん、大丈夫！」
私の声に驚いたのか、益田さんと和寅さんがドアを開けて入ってくる。
「あ、あの――」
二人は目を大きく開けて、私の膝を枕に眠る探偵を言葉もなく見つめている。
「探偵さんが――」
「ああ」
最初に苦笑したのは益田さんだった。
「美由紀ちゃん、よかったらそのまま寝かせてあげて」
「え」
「何をしていたんだか、朝帰りなんだよ」
「司さんと出かけていたんですよう。これでしょうな」
これ、と和寅さんは酒を飲む仕草をする。
益田さんは小指を立ててウヒヒと笑った。
「これかもしれないよ」
――なんだろう。私が小首を傾げると、益田さんは瞬いてから「あ、いや」と焦ったようにする。
「馬鹿だね益田君」
「冗談だから、冗談」
呆れたような和寅さんと、益田さんは「あはは」と笑いながら肩を押し合う。
何が冗談なのか私にはわからない。小指を立てることに何の意味があるんだろう？
益田さんは本棚から小説を抜き取って私に渡してくれる。
「美由紀ちゃん、はい」
「ありがとうございます」
「それはこっちの台詞だよ。いつも悪いねえ。足が痺れる前に起こして良いから」
益田さんは八重歯を見せて笑うと、探偵の顔を覗き込むように身を屈めた。
「気持ちよさそうだなあ」
ぼそりとつぶやくと、私を見て笑った。
「眠たいけど美由紀ちゃんのそばにいたいんだよ。本っ当に困ったオジさんだ。僕たちすぐそこにいるから、何かあったら大声で叫んでね」
はい、と私は笑った。
益田さんは寝室のドアを開いたままにして風の通りをよくしてくれる。
しばらくして正座から足を崩すも、探偵は軽く身じろいだだけで目を覚ます様子はなかった。
さっきの益田さんが小指を立てた仕草はどういう意味なんだろう。探偵に聞いたら教えてくれるだろうか。
小説が読み終わると暇になり、私は団扇の風を探偵に当てる。探偵のおでこを全開にしたり、前髪を指でくるくると丸めたりして遊んでいたが、くすぐったかったのか探偵は身体を横にして、顔を私の方へと向けた。
「……」
ふと、あることを思いついて、探偵の耳に顔を落とした。
息を耳に当てないよう、ゆっくりと、一つ一つの言葉をそっと囁く。
――美、――由、――紀。
「み、ゆ、き――ですよ」
こうして寝ているときに囁いていたら自然と覚えるんじゃないだろうかと。
「私の名前は美由紀です。み、ゆ、き」
もぞ、と探偵が動いたので、私は慌てて顔を上げた。
団扇で慌てて口を隠す。
恐る恐る探偵を見下ろせば、とび色の瞳がまっすぐに私を見上げていた。
「た……探偵さん」
寝ているときに髪をいじっても目を覚まさないことは実践済みだったけど、声をかけるのはさすがによくなかったかも。
「おはようございます……」
「おはよう」
探偵は私の膝を枕にしたまま大きな背伸びをして脱力した。そして身体を反転させると、枕を抱えるようにして私の身体に腕を回す。
寝ぼけているんだろうか。
おなかに顔をうずめられて、私は慌てた。鼻を押し付けられて、ふわ、とも、ふえ、ともつかない声が漏れた。
「あのあの！ あの！ 探偵さんっ！！」
「なに」
私は探偵の頭を離すように両手で押した。
「寝ぼけていないで、起きてください」
「寝ぼけてなどいないよ」
探偵はククク、と声を出して笑っている。
「わかりました、寝ぼけていないけどふざけているんですね」
探偵は顔を上げて、ふふと笑った。
「可愛いね、女学生君」
「――！」
ああもう、からかわれている……！
私は腰に回った探偵の腕を解くと、ペイッと探偵の身体をひっくり返すように放った。探偵はゴロンと転がって、寝台から落ちる。
「おわ！？」
どたん、とすごい音がした。まさか、こんなに勢いよく落ちるとは思わなかったので私のほうが驚いてしまう。
「うわ！ すみませんっ」
四つんばいになって慌てて覗き込めば、探偵は寝台の下で笑い続けている。頭でも打ったのかもしれないと、思わず心配になった。
「探偵さん……？」
手を出されたので、両手で握って上体を引っ張り上げてもなお笑い続けている。
「大丈夫ですか」
「うん」
探偵は立ち上がると、やはり頭を打ったのか手でさすりながら、寝台から落とされたのは初めてだと笑った。
私は探偵を見上げて、聞いてみたくなる。
「――あの」
「ん？」
「私の、名前……」
「女学生君の名前？」
「……わかり、ますか？」
「もちろんだとも！」
探偵は胸を張って叫んだ。
「美代子君！」
「――」
やっぱりダメだったか。ガクリとうなだれた私だったが、頭を左右からつかまれて、後頭部に口付けられた。
うわははは！ と探偵は笑った。
「君は本当に可愛いな！ 美由紀君」
「！」
驚いて顔を上げた私に、探偵はにっこりと笑った。
「どうした？」
「今――」
美由紀と。
「いま、私の」
名前を。
探偵はニヤリと口角を上げた。
「笑いを堪えるのが大変だった」
「！」
探偵さん！ と叫んで私は真っ赤になった。
「起きていたんですか！」
「ちがう、起きてしまったのだ」
探偵は楽しそうに笑って、私に手を差し出してきた。
了
【古風気味な百の題目／054】
2006.07.07
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