榎木津×美由紀
『あべこべ』
中野の駅から、古書肆「京極堂」までは徒歩四十五分の距離がある。
中野駅の改札で、周囲の人波より頭ひとつ飛び出た長身の男を見つけて私は瞬いた。
陽光の下で輝く茶色の髪に長い手足。
後姿でも見間違えるはずがなかった――榎木津礼二郎。
私が知る、正真正銘の探偵だった。
――同じ電車に乗っていたのか。
なんだかそれだけで嬉しくなってしまった。思わず笑うと、私は声を掛けぬまま後ろ姿を追っている。
探偵さん、と声をかければすぐに笑顔で振り返ってくれるだろう。「おお、女学生君、いたのか！」と云うに違いない。でも、こうして後姿をじっと眺めていられることなどそうあることではなく、探偵を尾行するという行為もまた可笑しくて、それだけで楽しくなってしまう。
いつ気づくのだろう。気づかぬまま京極堂まで行ってしまうのだろうか。
考えるだけで楽しくて。
だが、そんな楽しみも五分と持たなかった。
「は……早い」
息が上がる。
探偵の長い足で歩かれると、彼が普通に歩いていても、私は小走りしないとついていけないのだ。
いつも二人で歩くときは私の歩調に合わせてくれていたのだと、あらためて気づかされた。
どうしよう、声をかけた方がいいのだろうか――。
このままだと離される一方だ。
いつもだったら二十分かかるような距離を、その半分の時間で通過して。
「あっ」
探偵ばかりを見ていたからか、足元の石か段差に気がつかずにつまづいてしまう。
「――っ！」
とっさに均衡をとろうとしたが、重心がずれて、前のめりに身体が傾いた。何とか左手をついて地面に身体がつくのは防いだが、手のひらを擦ってしまう。
「った……」
「だ、大丈夫ですか」
向かいを歩いていた若い女性が驚いて身をかがめてくる。おそらく、私が倒れた一部始終を目撃したのだろう。恥ずかしさに頬が紅潮した。
「は、はい」
大丈夫です、と私は立ち上がった。
私は焦りながら慌しくスカートを叩き、あらためて礼をする。
「ありがとうございます」
「気を付けてね」
「はい」
ぺこぺこと何度も頭を下げて、彼女と別れると苦笑が漏れた。
「……恥ずかしい」
ほかほかと顔が熱い。
ちくりとした痛みに左の手のひらを見れば、手首近くの皮膚が小さく剥けていた。
血は出ていないが、白く透明な汁が出ていた。小石か何かに引っ掛けてしまったのだろう、あまり土はついてない。
私はスカートのポケットからハンカチを出し、角を使ってそっと土を取ると、捲れた皮膚を伸ばして傷の上に重ねた。それだけで痛みはだいぶ治まる。
そのままにしていたらそのうちくっつくだろう。今日はお風呂に入るのを控えて――。このままだと探偵に怪我をしたことがわかってしまうから、今日はもう帰ったほうがいいかもしれない――と思ったときだった。
視界に長い足が入ってきて止まる。
思わず、ギクリと硬直した。
「女学生君」
う、と私はひるんだ。
「探偵さん……」
そろりと顔を上げれば、真剣な表情で私を見下ろしている探偵がいた。
私はとっさに左手を隠すように後ろにやって、鞄を拾う。
「あの……見ましたか」
「うん、見た」
探偵が直接見ていなくても、向かいの人が探偵の背後で転ぶ私を見れば自然と気づいてしまうわけで。
「転んじゃいました」
はは、と私が笑うも、探偵は真剣な顔で見せなさいと手を出してくる。
私は首を横に振った。
「大丈夫ですから」
「女学生君」
「いや、でも」
す――と探偵の腕が伸びてきて私の手を取ろうとするので、私は反射的に一歩下がった。
「大丈夫ですから」
探偵は無言のまま、私の手を取ろうとする。私は取らせるものかとさらに一歩下がり、伸びてくる手を必死で避けた。
「女学生君！」
「そのままにしておけば治ります！」
「見せたまえ」
「嫌です」
「見るだけだ。何もしない！」
「……」
私は探偵の手を見て――というか、睨んで、その手が下がると、彼が見えるところに左手を出した。その間も、私の視線は探偵の手から離れず。
「皮がちょっと捲れただけですから」
探偵の手が私の左手に伸びてきたので、私はサッと手を引いた。
「女学生君！」
探偵が抗議する。
なんで自分でもこんなに触らせたくないのかわからない。
いくら探偵でも、皮膚をめくったり、直接傷に手を触れたりはしないだろう。だが、なんとなく恐怖心に近い感覚に突き動かされてしまう。
私は探偵の手を睨んだまま、絶対に触らせるものかと思った。
「僕が何をするというのだ！」
「……舐めたりとか」
「しない！ 傷の具合を見るだけだ」
「傷ならいま見たじゃないですか」
「まだだ！」
「ダメです！」
私は断固譲らない。
「この前だって、指を切ったときに舐めたじゃないですか！」
「それは包丁で切ったからだろう！」
「絶対にダメです！」
探偵は私の陣地に入ってこようとし、私は断固阻止の構えで、じりじりと牽制しあう。
「往来で何してやがる」
背後から、邪魔だ、とドスの聞いた低音が響いた。
それが誰かを確認する前に叫んで振り返った。
「刑事さん！」
私たちと同じく、駅からやってきたであろう木場刑事の姿に、私の声と表情は自然と明るくなってしまう。もしかして同じ電車に乗っていたのだろうか。
「木場修！」
探偵が不服そうな声を上げた。
「なんでここにいるのだ！」
「いちゃ悪ィのかよ。てめぇこそ、こんなところで何してんだボケが」
「女学生君が転んで怪我をしたのだ」
「ああ？」
刑事は片眉を上げた。視線が私に向かう。
「足でもひねったのか」
「手をすりむいただけなんです」
どれ、と手を出されたので、私は刑事の手に左手を置いた。
「あ！」
探偵が叫んだ。
「うるせえな。――なんだ、たいしたことねえじゃねえか。千鶴さんに赤チンでも塗ってもらいな」
「はい」
私はにっこりと笑って頷く。
刑事が歩き出したので、私は隣に並んだ。
京極堂につくまでの間、探偵は私と刑事の後ろを歩いてきた。
不満たらたらでぶつぶつとつぶやいていたが、刑事はもちろん、私もあえてそれを無視した。
古書肆の扉は開いたままで、こんにちは、と挨拶をしながら入ると店の奥で店主が出迎えてくれた。
「いらっしゃい――。おや、珍しい組み合わせですね」
「おう」
と刑事が短く声をかけた。
「頼んだもんはあったか」
「ええ」
古書肆は刑事と女学生という組み合わせに少し驚いた様子を見せたが、遅れて探偵が入ってくると目を丸くして、苦笑いした。
「榎さんがふてくされて、暴れる寸前って顔ですけど」
「気にすんな」
「どうしたんです」
「お嬢が転んで怪我したんだよ」
「怪我？」
古書肆の視線が私に向けられたので、私は慌てて首を横に振った。
「たいした怪我じゃないんです。ちょっと擦っただけで」
「膝かい？」
「手を」
先ほどの刑事のように、古書肆もまた手を差し出してくる。私はその手に左手を乗せた。
「あ！」
と、探偵が口にする。
「なんです、いきなり大きな声を出して。傷を見るだけですよ」
古書肆は探偵を呆れたように見て、傷に視線を落とした。
「ああ、大丈夫そうだね。千鶴子を呼ぼう」
「すみません」
私が苦笑すると、いきなり背後から右手をつかまれた。
「女学生君」
「はい――？」
「僕にも見せて」
「え。でも、さっき、見たじゃないですか」
探偵は眉を寄せた。
「見てない」
「見せたじゃないですか」
見てない、と探偵は繰り返す。
「榎さん、そんな心配するような傷じゃないですよ」
古書肆が云うも、探偵の不機嫌さは増すばかり。
「見せて」
「わかりました」
私は溜め息をついて、はい、と探偵の目の前に左手を出した。
探偵は傷を見て、右手を伸ばす。でも、その手が触れる前に、私は手を引いていた。
「――」
探偵は硬直して、怒気が増した。
「なんで僕には触らせないんだ」
声が低い。
「豆腐頭にも京極にも触らせるのに」
「あの――」
私もどう答えて良いのかわからない。なぜかと云われたら困るのだけど。
「なんとなく」
「なんとなく！？」
「反射的に」
「なんで！」
「わかりません。なんとなく……」
触ってほしくない――のだ。
私が困っていると、古書肆がいきなり笑い出した。
「榎さん、なんだ、触らせてもらえないからすねているんですか」
「すねてなどいない！」
古書肆はくっくと笑う。
「安心してくださいよ。僕たちは美由紀君に意識されてないというだけのことですから」
どういうことだ、と探偵は眉を上げた。
「医者と同じということです」
古書肆は奥から現れた千鶴子さんに救急箱を持ってくるように云う。
私もまたどういう意味だろうときょとんとしていると、
「なんだ、美由紀君にもわかっていないのか」
古書肆は苦笑した。
「たとえば、僕や旦那が上半身裸になっても美由紀君はなんとも思わないが、榎さんが上半身裸になったら平常心ではいられない」
探偵が眉を寄せた。
「例えになってない。もっとわかりやすく云え」
「健康診断で、美由紀君は医者を前に上半身裸になるのは平気だが、榎さんの前では平気ではない――ということだね」
――あ。
古書肆の云う意味がわかって、私は紅潮した。
そうか。
手をつなぐのとは違うんだ。
たぶん、千鶴子さんに絆創膏を貼ってもらったり、赤チンを塗ってもらったあとならば、探偵に触れられても平気にちがいない。
「ぜんぜんわからないぞッ！」
探偵が叫び、刑事が呆れたように「ボケ」とつぶやいた。
「そんな説明をこいつにしても無駄だぜ」
刑事は古書肆から手渡された本で首を叩きながら溜め息をついた。
「この馬鹿には羞恥心てもんがねえからな。理解できねえよ」
なんだと！ と探偵は憤慨していたが、これには古書肆も私も「ああ――」と思わず納得してしまう。
「探偵さん」
私は笑って、怪我をしていないほうの手を差し出した。
探偵は仁王立ちのまま、まるで睨むように私の手を見つめてくる。
怒ってしまったのだろうか。締め付けるように胸が痛んで、ああ――と思った。
――そうか。私に拒否された探偵も、こんな気持ちになったのだ。
「探偵さん」
私はそのままの姿でじっと待ち続けたが、探偵は私の手を取ろうとはしない。
千鶴子さんが救急箱を持ってきて、私を招いた。
「美由紀ちゃん」
「あ――はい」
私は手を下ろすと、探偵に微笑を返して、千鶴子さんのところに向かう。
振り返ったところで、ぱし、と探偵が私の右手をつかんだ。
「――探偵、さん？」
「僕は怒っている」
「――」
「なんで声を掛けてくれないんだ」
「……え？」
なんのことかと瞬いて、それが駅からのことだと気づいた。
ふわりと私は笑って、探偵の手をきゅ――と強く握り返した。
決して探偵を嫌っているわけじゃないと。
避けているわけじゃないとわかってほしくて。
「手をつなぐのは探偵さんとだけです」
「……」
「今度は声をかけますね」
「……大きな声で呼ばないと気づかないよ」
「はい、大きな声で」
「左手も触っていい？」
私はにっこり笑った。
「ダメです」
「！」
ショックを受けたように口を大きく開けた探偵は、女学生君、と叫んだ。
「なんで僕だけがダメなのだ！」
探偵さんだからだめなんです。
「――千鶴子さん、お願いします」
右は探偵の手を握ったまま、私は左手を千鶴子さんに差し出した。
了
【古風気味な百の題目／050】
2006.07.07
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