榎木津×美由紀
『聞こえる』
「美由紀ちゃんって、高校を卒業したらうちの社に入らないかしら」
座卓に肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せて楽しげに笑う実妹に、京極堂は片眉を上げた。
「いきなりどうした」
「可愛いんだもの」
中禅寺敦子はにっこりと笑う。くる、と顔が右を向いて、大きな眼が私を見た。
「先生もそう思いません？」
「そうだね」
確かに可愛い。もっとも、愛らしいという感じではなく、元気で明朗な様が微笑ましいという意味での「可愛い」だと私は思うのだが、可愛いという理由で稀譚舎に入社はできないだろう。聡明だから編集者には向いているだろうが。
座敷には榎木津もいて、私の向かいでひっくり返って寝ている。その彼が連れてきた――というか、京極堂いわく「拉致してきた」という娘が呉美由紀――たった今、中禅寺敦子の口から名前が出た少女だった。彼女は今、妻や古書肆の細君とともに台所に下がっている。その楽しげな笑い声は座敷にも聞こえてきていた。
「何の話をしていたんだい」
私が聞くと、中禅寺敦子は「良くぞ聞いてくれました！」といった表情をした。
「兄さんが一反木綿で、先生が魔法の絨毯で、榎木津さんが金斗雲なんですって」
「僕が……なんだって？」
私は瞬いた。一瞬、自分が何か別の問いを口にしてしまったのかと混乱する。
「京極堂が一反木綿？」
「はい」
中禅寺敦子は楽しそうに笑った。
京極堂が溜め息をついた。
「何の話をしているんだ、お前たちは」
あら、と中禅寺敦子は唇を尖らせた。
「車でもあると便利よねって話をしていただけよ。どんな車が良いかしらって話をしていたら、兄さんが車を運転する姿は想像できないって話になって。バイクも似合わないし、自転車なんてもっと似合わないし。そうしたら、美由紀ちゃんが一反木綿なら似合いますって」
「……」
一反木綿の上に正座をしている黒服の男を想像して、ぷ、と私は吹いた。確かに車や自転車よりも似合う。
京極堂は渋面をさらに深くして私を睨んだ。
「何か云いたいことがありそうだな」
「京極堂にぴったりじゃないかと思っただけさ」
「そうなんです」
中禅寺敦子は弾けるように笑った。
「それで爆笑しちゃって。なら、関口先生には何が似合うかって聞いたら、空飛ぶ魔法の絨毯って」
それで、榎木津が金斗雲になったわけか。
「一反木綿も魔法の絨毯も同じものだよ」
京極堂が溜め息をついた。さらに説明をしようと口を開きかけたが、それを寝ていたはずの男がさえぎった。
「猿なのだから関の方が金斗雲だろう！」
いつの間にか、榎木津が起きている。身体を横にして、立てた肘の上に頭を乗せた。どこから聞いていたんだか。
「榎さんの暴れっぷりからすれば、云い得て妙ですよ」
京極堂はニヤリと笑った。
「美由紀君はなかなか的を得ている。役どころとしては彼女が玄奘三蔵か。暴れる孫行者を止めることができるのは三蔵法師と決まっているしね」
「観音菩薩かもしれないぜ」
私たちが笑うと、榎木津は複雑そうな顔をした。
榎木津の声が聞こえたのか、襖が開いて呉美由紀が顔を出した。
「探偵さん、そろそろ失礼したいんですけど」
「じゃあ帰ろう」
送る！ と元気に云って榎木津は立ち上がった。
以前、美由紀嬢が今日のように京極堂を訪れた際、寝ている榎木津を気遣って先に一人で帰ったことがあった。遅れて目を覚ました男はその気遣いに感謝するどころか機嫌を損ね、なんで起こさなかったのだ、と憤慨した。そのときの云い分がひどい。榎木津は連れの少女を放っておきながら、デイトのつもりだったのだ。さすがに呆れるというか、なんというか。確かに駅から京極堂までの行き帰りを歩くだけでもデイトにはなるだろうが、相手のほうにはその自覚がまったくないのだから、ここは榎木津に同情すべきかもしれない。
それでも、それ以降、帰るときにはちゃんと声をかけていくようにはしているようだ、と微笑ましく思う。
「あなた」
呉美由紀の背後から雪絵が顔を出して私たちも友人宅を辞すことを促した。
もともと雪絵が京極堂に用があるというので、なんとなくついて来ただけなのだ。妻が帰るのならば私だけが居座る理由もない。うん、と云って私は重い腰を上げた。
「敦子ちゃん、ごちそうさま」
いいえ、何のお構いもせず、と中禅寺敦子は目を細めた。
京極堂は私たちへ視線を向けることもなく、いつものように古書を開いている。先ほどからずっと同じページを見ているのが気になって、立ち上がりざま覗いてみれば、彼の「愛車」が載っているページだった。
仏頂面は変わらないが、美由紀嬢の発言をかなり気に入っているのは見てすぐにわかった。
「京極堂、それは安く買えそうかい？」
「魔法の絨毯よりはね」
私たちの会話に、呉美由紀が「あ」とつぶやいてたちまち顔を紅潮させた。恥ずかしそうに、
「敦子さん、云ったんですか」
と云った。
云ってしまったわ、と中禅寺敦子は笑った。
「兄さんも気に入ってくれたみたいよ」
呉美由紀の視線が京極堂に、次いで榎木津へと向かう。
榎木津は楽しそうに少女を見下ろした。口角が上がる。
「なぜ僕が金斗雲？」
少女はくすりと笑った。優しい笑みを浮かべて、知らないんですか探偵さん、と云った。
「金斗雲は神仙しか乗れないんです」
「――そうなのか」
「はい」
「じゃあ、僕のだな！」
呉美由紀が笑い、榎木津が愉快そうに声を出して笑った。
ああ、と私は思った。
榎木津からの一方的な思いではないのだと。
「あなた、どうしたんですか、いきなり笑って」
雪絵が怪訝そうな顔をしている。
笑っていたのか。
「なんでもないよ」
私は目の前の二人を見つめた。
ただ。
嬉しくなってしまっただけだ。
了
【古風気味な百の題目／082】
2006.07.15
※金斗雲（キントウン）のキンは一文字で「角力」と書くのですが、パソコン上で表記されないので当て字を使いました。
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