榎木津×美由紀
『見つけた。』
――その日。
薔薇十字探偵社の探偵助手・益田龍一は、街角に貼ってあるポスターを前に立ち止まっている探偵、榎木津礼二郎を見つけて瞬いた。
ポスターには、ハイヒールを履いた女性の膝から下が後ろ向きで写っている。三日ほど前から貼りだされた、今度新しく発行されるという女性誌の宣伝だった。
雑誌の表紙は女性の顔というのが主流の中、確かに目を引くが、榎木津はそれを見たまま動かない。
「榎木津さん」
どうしたんですか、と声をかけようとした瞬間、益田は硬直した。
榎木津がポスターに手を伸ばし、四方を止めている画鋲を抜いたかと思えば、ポスターをくるくると丸めるとバトンのように持ち、何事もなかったのかのように事務所があるビルに向かって長い足で歩き去って行ったのだ。
「……」
目を疑うような光景だった。
榎木津という男は黙っていても目立つ。当然、その行動は周囲の注目を浴びていたが、もちろんそんなことを気にする人間ではない。人の視線に慣れているのだろう。
声をかけそびれた益田は、とんでもないものを目撃してしまった、と思う。
「榎木津さんって……」
もしかして足フェチ？
とても本人に向かっては云えない言葉が脳裏をよぎる。
榎木津の寝室は乱雑だが、壁に映画や女優のポスターなどを貼ったりはしていない。壁に飾ってあるものといえばカレンダーくらいだ。
「ああ……でも」
貼ってはいないが、収集する趣味はあるのかも……。
やはり見てはいけないものを見てしまった、となんとも複雑な気分を味わいながら、益田は榎木津のあとを追った。
上司に遅れること五分、薔薇十字探偵事務所に入った探偵助手が目にしたのは、ほぼ先ほどと同じ場景だった。
事務所の壁にポスターを貼り、榎木津がその前で腕を組んで眺めていたのだ。
収集する趣味があるのではなく、たまたまあのポスターが気に入っただけらしい。益田はホッとしながらも寅吉に挨拶をし、ソファーに腰を下ろした。
榎木津は、益田に目を向けることもなく――入ってきたことにも気づいていないのかもしれない――ポスターに見入っている。
榎木津礼二郎という男がどういった女性が好みであるといったような話を益田は聞いたことがない。日ごろから女学生女学生と騒いではいるが、それは呉美由紀に限ったことではなく、普通に女の子が好きなのだ。
ああいう足が好みなのか……とホッとしつつ、なんだか楽しくなってくる。
益田の前にコーヒーを出した寅吉が苦笑した。
「さっきからずっとあのままなんですよう。これが誰か分かるか、なんて聞かれたって、女性の後ろ足じゃわかるわけがない。そんなクイズでもやっているですかね」
寅吉は意外にも女優や俳優に詳しいのだ。聞けばポンと答えが返ってくる。
益田はコーヒーを口にしながら、小首をかしげた。
益田もあのポスターの前で立ち止まったことはあるが、すらりとした肢体、ほっそりとしていて綺麗だな、くらいの印象しかない。ハの字になった足の角度からして仁王立ちになっている女性。働く女性のためのファッション誌と書いてあるから、表紙に女優が起用されてもおかしくはないが。
榎木津を見れば、確かにうっとりと眺めているというより考え込んでいるような顔つきだ。何がそんなに気になるのだろう。
「あ――そういえば、今日は美由紀ちゃん来るの？」
益田は榎木津のことですっかり忘れていた件を寅吉に問うた。
ほぼ毎週顔を見せに来る少女と一ヶ月近く会っていない。三週間前に一度事務所へ来たらしいのだが、残念ながらすれ違ってしまったのだ。
「そろそろ来るんじゃないですかね」
時計を見て寅吉が云った。
事件のたびに翻弄される探偵や探偵助手とは違い、秘書の寅吉は事務所で留守番することが多く、当然、顔を見せに来た呉美由紀とは回数的にも益田より多く会っている。寅吉は、美由紀が通う学校の行事や日程すらも、下手したら当の本人より詳しく覚えていたりするから侮れない。探偵社の秘書より、芸能人のマネージャーなどをやらせたほうが向いているに違いない。
「和寅さん――」
益田が話しかけようとしたとき、寅吉の言葉通り、事務所の扉がトントンと軽く叩かれて少女の来訪を告げた。
「どうぞー」
明るい寅吉の声に、事務所の扉は開き、カラン――と鐘が鳴った。
顔を見せた少女は、学校が終わってそのまま来たのだと分かる制服姿で、いつものように元気よくこんにちは、と云った。――とはいっても、この時間帯、榎木津が寝ている可能性もあるので大きな声ではない。
「美由紀ちゃん、久しぶりー」
益田が手を振ると、美由紀の表情がふわりと笑顔に変わる。
「益田さん」
「試験終わったの？」
「はい」
美由紀の位置からは、衝立が邪魔になり探偵の姿は見えない。
応接のソファーに向かって歩く美由紀は、そこでようやく榎木津の姿に気づいて目を丸くした。
「探偵さん」
いたんですか、とその表情が語っている。いつも起きていれば一番最初に騒ぎ出すのだから当然だろう。榎木津は、先ほどまでポスターに向けていた表情そのままで美由紀を見ていた。
美由紀は戸惑い気味に軽く首をかしげ、なんですか？ と微笑をもらした。
榎木津は、ひどく楽しげな笑みを浮かべた。どこか得意げに、
「やっぱりそうだ」
と云った。
「は？」
榎木津の言葉に、美由紀はもとより益田も寅吉もきょとんとした表情となる。
「なにがですか」
「女学生君だッ！」
だからなにが、と怪訝な顔になった益田だったが、「あ」という美由紀の声に視線を向けると、少女の顔が真っ赤になっている。
――何？
なんなの。
益田には何のことかまったく分からない。
美由紀は紅潮したまま口を押さえ、探偵は腰に手を当て、うわはははと笑いだした。
「探偵さん……！」
「すぐに分かったぞッ！」
「剥がして下さい！」
「どうして？」
「どうしてって……！ はずかしいからに決まっているじゃないですかっ」
美由紀はソファーの横を通り、探偵のほうへとまっすぐに歩いていく。伸ばした手はポスターに向かうが、榎木津が笑いながら身体でそれを阻んだ。
「僕のだよ」
「探偵さん……！」
美由紀は右に左にと身体を移動させてポスターを剥がそうするも、榎木津は楽しげにそれを阻止している。
二人が何を云っているのかようやく理解できた益田は驚いて立ち上がった。
「美由紀ちゃんなの！？ それ！」
「ち――違いますっ」
真っ赤になった美由紀は顔を左右に振るが、どう見ても行動はそれを肯定していた。
美由紀と榎木津は再びポスター争奪戦に突入しはじめた。ちょうど電話が鳴ったが、おそらく電話が鳴ったことも二人は気づいていないだろう。
「美由紀さんですか？ いますよ。――え？ ああ、はい、わかりました」
電話を切った寅吉は、先生、と呑気に声をかけた。
美由紀の身体を抱きしめて、もがく美由紀を笑いながら、榎木津は何――と云った。
「敦子さんがいらっしゃるそうです」
「敦っちゃんが？」
はあ、と寅吉は間抜けな声を出した。
「美由紀さんに用があるそうで」
中禅寺敦子が勤めている出版社から探偵社までは歩いて十分ほどの距離だ。連絡をしてからきっちり十分後に姿を見せた敦子は、事務所内の様子を見て目を丸くした。
電話をしたときから、背後でなにやら言い争う――というか、探偵の楽しげな笑い声が響いていたわけだが。
「敦子さん……」
と、ソファーに座って泣きそうな顔で訴えてきた美由紀と、「探偵」と書かれた三角錐がおかれた机でゆったりとくつろいでいる榎木津、そして壁に貼ってあるポスターを見てすぐに状況を察したらしい。
美由紀をモデルにと、最初に声をかけたのは敦子なのだ。ところが、益田の説明を聞いて、敦子は「まあ！」と驚いてしまう。
敦子は視線を美由紀に、そして榎木津へと向けた。
「それじゃあ、美由紀ちゃんから云ったわけじゃないのね」
「神に隠し通せると思うなど100年早いぞ、敦っちゃん！」
「ええ本当に」
くすりと笑い、恐れ入りました、と敦子は頭を下げた。
どういうことかと説明を求めた益田に、ソファーに座った敦子は苦笑した。
「一ヶ月ほど前、撮影で使う予定だったモデルが急に来れなくなったから、誰かいないかって知り合いに頼まれたんです。それで――」
撮影場所が美由紀の住む寮に近いことに気づき、呼び出してお願いしたのだと敦子は云った。
「身長や服のサイズを考えると美由紀ちゃんしか思い浮かばなくて」
顔も出るというのなら考えるが、足だけを撮るというので美由紀も不承不承といった様子で受けたのだという。
「足だけでわかっちゃいましたか」
もともと榎木津に隠すつもりも隠し通せるはずもなかったが、まさかポスターを見てすぐにモデルが美由紀だと気づくとは思わなかった、と敦子は本気で驚いていた。
敦子が美由紀を見れば、少女は恥ずかしそうに顔を赤くしている。まさか事務所内に堂々と飾られてしまうとは思わなかったのだろう。電話の奥での微笑ましいやり取りが想像ついて、敦子は思わず笑みを漏らした。
敦子の説明になるほどと一応納得した益田は首をかしげた。
「敦子さん、それで美由紀ちゃんに用って？」
「あ、そうなの。そのことで――。あのポスター、結構評判がいいんです。やっぱり綺麗な足でしょう。誰なんだって問い合わせがあるらしくって。――もちろん、美由紀ちゃんだってことは云ってないわよ。でも、雑誌のモデルとして起用できないかって話が上のほうから来て、それでどうかしら……って話だったんだけど」
敦子が話している途中から、美由紀は首を激しく横に振っている。
それを見て、敦子は苦笑した。
「今度は顔も――ってことになるから」
「無理です！」
「無理だろうとは話しておいたわ」
敦子は笑った。
「学校に知られると困るでしょう」
「はい」
ホッとした様子の美由紀に、敦子は頷いた。
「正式に断っておくわね」
「お願いします」
「でも、いつでもやりたくなったら声をかけて。喜んで推薦するから！」
敦子は楽しげに片目を瞑り、美由紀は笑って「はい」と云った。
敦子からモデル代の入った封筒を渡され、美由紀の頬は少しだけ嬉しそうに緩んだ。今度はポスターを持ってくるわね、と敦子は笑い、用はそれだけだったのか丁寧に礼をしてから事務所を出た。
敦子が事務所を出ると、それまで黙って聞いていた寅吉がワッと騒いだ。
「美由紀さん、モデルしないんですかい！？ いいお話だったのに」
益田も興奮してしまう。
「そうだよ、美由紀ちゃん！ すればいいのに、もったいない！」
美由紀は苦笑した。
「それ、身長が高いからバレーをしろと云っているのと同じです」
人には向き不向きがある。それにしても、と美由紀は探偵を見てから両手で火照った頬を押さえた。
ううう、と唸る。
「何で分かるんですか、もう……」
美由紀ですら出来上がったポスターを見たのはここに来て初めてだったというのに。
答えたのは探偵ではなく、助手だった。
「それは美由紀ちゃん、あれだよ」
益田は半目になって声を潜めた。
「榎木津さんが足フェチだから」
「足フェ……？」
「馬鹿者ッ！」
三角錐が矢のように飛んできて益田は「ヒッ」と叫んでソファーからすべり落ちた。三角錐は益田の頭があった場所を正確に通過していった。
「避けるなッ！」
「避けなかったら頭に刺さりますよ！」
「刺さるように投げたのだから当たり前だ！ ――なぜ分かるのかなど愚問だぞ、女学生君！」
うわははは、と榎木津は高らかに笑い、胸を張った。
「僕は探偵だからなッ！」
了
【古風気味な百の題目／100】
2006.08.31
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