榎木津×美由紀
『呆れるしかない』
木場修太郎が薔薇十字探偵社を尋ねたのは、幼馴染に会うためではあったが、顔を見るためではなく、探しているものがあるからだった。
でなければ、こんなところに足を向けようとは思わない。――と、神保町にある榎木津ビルヂングの下に立ち、木場は厳つい顔を複雑に歪めた。
「うわははは！」
三階の開いた窓から高笑いが聞こえてきて、木場はすでにきびすを返したくなっていた。
「あの莫迦」
近所迷惑って言葉を知らねえのか、と思う。騒音で逮捕できるものなら、榎木津礼二郎に限っては五分に一度は現行犯逮捕ができるだろう。
早く用事を済ませて帰ろう――と木場は榎木津ビルヂングへと入った。階段を上がって三階に着くと、戸をノックすることもなく開く。
カラン、と鐘が鳴った。
「おう、入るぜ」
あの莫迦はまた「豆腐頭」だの「サイコロ男」だとうるさく云うのだろう、と顔を上げた木場は、真っ先に応接のソファーに座る少女に気づいて内心で怯んだ。
振り返った少女の顔が笑顔に変わった。
「刑事さん！」
木場は、瞬時の動揺を表には出さず、
「いたのか」
とだけ云った。
いました、と少女は笑う。
呉美由紀――。この少女に出会うまで、木場は女というだけでなく年下の子供からこれほど無邪気な笑みを向けられた記憶がなかった。
昨年の冬の事件で初めて出会ったときも、彼女は笑みこそ浮かべていなかったが、最初から木場に怯むことなくまっすぐな視線を向けてきたのだ。
その半年ほど前にも奇異な事件に出くわして、彼女と同年代の少女と話をしたが、そのときに感じた違和感――別世界の人間と話しているかのような感覚はまるでなかった。会話も口調も意思の疎通もしっかりとしていて――。
そう、彼女の前で榎木津とドスの聞いた声で怒鳴っていたにも関わらず、美由紀の目には木場に対する怯えのようなものはなかったのだ。榎木津に対しても、その容姿に見惚れるといった感じではなく、そのことがかえって珍しく思えたのを覚えている。
事件の目撃者であった少女。喧嘩慣れしている者であれば、一目で彼女の顔に殴られた痕を見つけることができただろう。殴られたのは一回や二回ではない。一週間くらい前か、と瞬時で判断をした。当然、榎木津も気づいていただろう。青あざからすでに黄色になりかけていたが、殴られた翌日などは腫れがひどくて目も当てられない姿であったに違いない。あとで聞いたところによると、事件で亡くなった男に殴られたのだという。もしも生きていたら、榎木津か木場が殴っていたはずだ。
危害や暴力を受けた者は、その「種」全体に対して恐怖を覚えるものだが、彼女の目はあくまでも真っ直ぐで「人」を恐れてはいなかった。男に対する恐怖心はあっただろう。だが、強い意志と、敵と味方とを判断できる目で彼女は榎木津と木場は味方であると判断したのだ。
だからこその絶対の信頼。
揺らぐことのない意思。
榎木津が彼女を気に入るのは当然のこととして、惹かれるのは必然だったに違いない。
榎木津と付き合っても、女たちは次第にその言動について行けなくなる。はじめは珍しがっていた奇妙な力も不気味に思いはじめて、やがて離れていくのだ。女が榎木津に抱くそれは、神に対する畏怖ではなく、化け物に抱く恐れに近い、と木場は思っている。
だが、呉美由紀は変わらない。彼女は最初から、見かけではなく、榎木津礼二郎という存在そのものを受け入れていたのだ。
そういえば今日は土曜日か、と今更ながらに気づいた。そして――。
「なにやってんだ、ボケ」
幼馴染の姿に、木場はげんなりとした。「探偵」と書かれた三角錐のおかれた机で、榎木津礼二郎が前髪を輪ゴムでしばって、おでこを全開にしていたのだ。
榎木津は見ていた雑誌を乱暴に机の上に放り、木場を見て鼻を鳴らした。
「ふん、探し物か」
よく見れば、下僕そのいちも長い前髪をひとつに縛っている。
「アホ面さらしてなにやってんだ」
木場の視線を受けて、益田はへらへらと笑った。
「前髪が邪魔だったんですよう」
「邪魔なら切れよ」
前髪が目にかかるほど長い益田が邪魔に思うのは分かるが、眉にかかるほどしかない榎木津は莫迦丸出しだ。毛先が噴水のように広がっている。
「カブト虫みたいじゃねえか」
「わはは！ 虫の王者だな！」
「褒めたんじゃねえって。このボケ」
「僕がボケならお前は桶じゃないか！ 四角い桶だっ！ 女なら後家だぞッ！」
「わけが分かんねえよ。もっと人間の言葉を話しやがれ」
「木場の旦那」
寅吉が台所から出てきて、湯につけて絞ったタオルを持ってきた。
「おう、気がきくな」
木場は受け取ったタオルで顔を拭き、大きく息を吐いた。手を拭ってから寅吉に返す。
「旦那、今日はどうしたんですかい」
「神のご機嫌伺いに決まっている！」
高々と答えたのは榎木津だった。そして、す――と表情が変わる。
「探しているのは石だろう」
「おう、どこにある」
詳しい説明など不要だ。今までのやり取りも挨拶にすぎない。
木場がソファーの空いている場所へ座ると、榎木津も椅子から立ち上がってソファーへとやってくる。榎木津は木場の向かい――呉美由紀の隣に腰を下ろして、半目になって木場の頭上を見た。
相変わらず変な顔だぜ、と木場は思う。
戦時中に完全に視力を失った左目が、現実ではなく過去を映すと云われてもピンとこない。榎木津礼二郎という男は昔から勘の良い男だったのだ。それがさらに鋭くなったというだけ。
「ゴミ箱の中に落ちたぞ」
ゴミ箱の中にある――ではなく、落ちた。まるでその場面を見たかのように榎木津は云う。
「ああ――」
そうだ。今朝、卓の横からゴミ箱を移動して――。
探してもないはずだ。
「ありがとよ」
木場が礼を云うと、なんと！ と榎木津が叫んだ。
「木場修が礼を云うなんて珍しいッ！ 明日は雨だぞ、女学生君！ 出かけるなら傘を持って行きたまえ！」
「うるせえよ」
くすくすと少女が笑い、木場はやはり軽く怯んだ。視線をどこに向ければいいのかわからずに、隣に座る益田へと向けた。
益田は前髪が邪魔と云った言葉通りに、膝の上に箱を載せて細かい部品を組み立てていた。それは呉美由紀も同じで、出来上がったものが応接の机の上に並べてあった。
「内職か？」
「はい」
美由紀が元気に笑う。
「なんだ。ここはそんなに儲かってねえのか。遊んでねえで、もっと働けよボケナス」
ボケナスは、呉美由紀の髪を指に巻いていじっている。美由紀はいつも髪を下ろしているが、今日は左右に三つ編みをしていた。
益田がケケケと笑った。
「僕の隣の部屋の人が盲腸で入院しちゃったんですよう。納期が迫っているって泣くんで僕がかわりにやってあげることにしたんです。ほら、暇ですから」
「やっぱり暇なんじゃねえか」
もっと探偵の仕事を見つけて働け――と云いたいところだが、薔薇十字探偵社が関わると、小さな事件は大きくなり、大きな事件はさらに大きくなる。むしろ、探偵とその一味が暇なのは世間にとって平和な証なのかもしれなかった。
「いくらだ？」
「十個で一円です」
「十個で一円だぁ？ ずいぶんと安いな」
「そんなもんですって」
寅吉がお茶を入れてきた。思わずそれを受け取って、くそ、と木場は内心で舌打ちをする。
――こん畜生。
早く帰るつもりが、すっかり腰を落ち着けてしまった。こうなるとわざわざ立つのも面倒くさい。
「それでその前髪か」
「最初に美由紀ちゃんが僕にしてくれたんですけど、それを見て榎木津さんが不貞腐れて。それで美由紀ちゃんが結んであげたんです」
「アホだな」
呉美由紀は苦笑している。ちなみに美由紀の三つ編みは榎木津作だ、と益田が説明した。そのときの状況は想像がつく。
木場は榎木津の「角」を見た。
「じゃあ手前も手伝ってたのかよ」
「なんで探偵である僕がこんなことをするのだ！ 女学生君だってしなくて良いものを」
榎木津はぶつぶつと文句を云いはじめた。どうも自分ひとりが仲間に入っていないことが不満らしい。木場は呆れて、
「手前も手伝えばいいじゃねえか」
云いながら、木場は益田の膝上にある箱から部品を取って、見よう見真似で部品を組み立てていく。指は太いが、意外に細かい仕事は得意なのだ。
ほらよ、と完成品を机の上におくと、それを見ていた呉美由紀が「わあ！」――と云った。
「刑事さんすごいっ」
美由紀の称賛に、榎木津が口を真一文字にした。
榎木津は呉美由紀の膝上にある箱へと手を伸ばし、部品を取ると同じように組み立て、出来上がったそれを目の前に掲げた。
「ふん、これくらい箱男でなくとも簡単にできるのだ」
榎木津は、探偵さんすごい！ という言葉を待っていたのだろう。だが、呉美由紀は榎木津よりもすばやく部品を組み立て、手のひらに載せた。
「わあ、美由紀ちゃん、早いなあ！」
益田に称賛に、ふふと少女は笑った。
「そんなことないですよ。今日中に終わらせましょうね、益田さんっ」
「そうだね、美由紀ちゃん！」
美由紀と益田は笑いながら内職をはじめた。
榎木津は口をへの字にして、不満げに眉を寄せている。和寅、と榎木津は叫んだ。
「箱！」
「はいはい」
寅吉が待ってましたとばかりに菓子折りの空き箱を榎木津に渡した。
すっかりやる気のカブトムシは袋の中から部品を取り、箱に入れていく。
木場もまた寅吉に向かって手を出した。
「おう、俺にもよこせや」
「え、木場の旦那もやるんですかい」
「どうせ今日は暇だしな」
「探し物はいいんですか」
「ああ」
石がどこにあるのか分かれば問題はない。同居する老婆は二階に上がってくることがないから、ゴミ箱の中身を勝手に捨てられるという心配もなかった。
「競争だぞ、木場修」
「いいぜ」
呉美由紀がちらりと視線を榎木津に向け、笑いを堪えた顔をしている。木場と視線が合うと、美由紀はくすりと笑った。
「刑事さん、がんばってくださいね」
榎木津はますますムッとしたような表情で口をへの字にする。
木場は呆れて鼻を鳴らした。
「俺を睨んだって仕方ねえだろうが。応援してもらいたいなら直接云えよ」
「ふん、応援などしてもらわなくても勝つから良いのだ！」
「じゃあ、応援しません」
「――！」
榎木津はなんだか泣きそうだ。
――本当にアホだなこいつは。
木場は思わず声を出して笑った。
了
【古風気味な百の題目／039】
2006.09.15
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