榎木津×美由紀
『交換』
「敦ちゃん」
探偵は敦子さんをそう呼ぶ。
千鶴子さんのことは「千鶴さん」で、雪絵さんのことは「雪ちゃん」で……。
「美由紀ちゃん」
益田さんがソファーに座る私の上から覗き込んできた。長い前髪がさらりと揺れて。
「ボーっとしているけど、大丈夫？」
「……」
「美由紀ちゃん！」
「え？」
心配そうな益田さんの顔。
「大丈夫？」
「あ……はい」
私は頷いた。
益田さんは私を「ちゃん」付けで呼んでくれる。和寅さんは「美由紀さん」で、古書肆は「美由紀君」だ。
探偵だけが、私を名前で呼ばない。別に、名前で呼んでくれなくてもいいのだ。女学生君と呼んでくれる――それだけでうれしい。
嬉しいのだけれど。
探偵の笑顔が浮かんだ。女学生君、と呼んでくれるその声で。
美由紀ちゃん――と、探偵が呼んでくれたらと。
想像して、私の顔は一気に紅潮した。
うわ。
慌ててうつむいた。
「美由紀ちゃん」
本当に心配そうな顔で、益田さんが私の前で膝をついた。
「熱でもあるんじゃないの」
「え？」
「だって、さっきから焦点が合ってないよ。顔も赤いし」
しかも生返事――それはひどく失礼なことだと、私は考えを中断して意識を益田さんへと向けた。
「ちょっと考え事をしていただけなんです。それに……」
私は頬を軽く叩いた。
「少し暑いし」
「それだけ？」
「はい」
私が頷くと、益田さんはやっとホッしたように息を吐いた。
「本当にこうも毎日暑いとやんなっちゃうね。――悩み事？」
「え」
急に真剣な顔で聞いてくるから、私は本気で焦ってしまった。
「あの」
悩み――なのだろうか。
「僕でよかったら相談に乗るけど。これでも元刑事だし、相談ごとはお手の物だよ」
「――」
益田さんのように、一度でいいから探偵に「美由紀ちゃん」と呼んでもらいたいたいんです――なんて相談ができるはずもない。
益田さんは向かいのソファーに腰を下ろして、前かがみで手を組む。切れ長の目を細め、優しい笑みを浮かべて首をかしげた。
「榎木津さんのこと？」
「あ……あの」
頬が熱くなっていくのがわかった。言葉に詰まって、私は立ち上がった。勢いよく頭を下げる。
「すみません」
「え――」
何で謝られるのかわからないといった表情の彼に、私はもう一度頭を下げた。
「今日は帰ります」
「え！ 帰るの！？ あ、いや、それはいいんだけど、――やっぱり具合悪い？ 送っていくよ」
焦る益田さんを安心させるように笑うと、首を横に振った。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですから。その――失礼します」
ペコ、と頭を下げて、私は鞄をつかむと事務所を飛び出した。
榎木津ビルヂングの一階に下りてテーラーの前を進むと、
「女学生君！」
上空から私を呼ぶ声がした。見上げれば、三階の窓が開いて探偵が上半身を覗かせている。
「探偵さん」
「そこにいなさい」
私が戸惑うと、探偵はもう一度「いなさい」と云った。
私が頷くと、顔を上げたときにはもう探偵の姿は見えなかった。かわりに、益田さんと和寅さんが姿を見せて手を振る。私が笑って小さく手を振り返すと、益田さんが下を指した。
「今、榎木津さんが行くから」
「――」
思わず、逃げそうになってしまう。一歩下がったちょうどそのとき、ビルの入り口からワイシャツの前をはだけた探偵が姿を見せて、私を見て眉を上げた。
「僕はそこにいろと云ったぞ」
益田さんに呼ばれて、そのまま寝室から出てきたのだろう。ワイシャツは適当につかんできたのか、歩きながらワイシャツのボタンを留めている。
「一歩動いただけです」
「一歩でも動いたらそこじゃないだろう」
そう――なのかもしれないけど。
「どうかしたんですか？」
私が首をかしげると、探偵は不快げに顔をゆがめた。
「どうかしただと？」
「……は、はい」
私は思わずひるんで、探偵から離れるように一歩下がる。それで探偵はますます眉を上げて、口をへの字にした。
「どうもしないよ」
ぶっきらぼうに云い放つと、そのまま駅に向かって歩きはじめてしまう。
「探偵さんっ？」
私は三階を見上げて益田さんたちに小さく頭を下げると、探偵のあとを追った。
「探偵さん、どうしたんですか」
いつもなら私の歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれるのに、今日に限って探偵は長い足でずんずんと歩いていってしまう。こういうときは何かに怒っているのだ。
私は小走りで探偵の後を追った。もし私が立ち止まっても、気づかないまま行ってしまうんじゃないだろうか。
探偵は古書店街に出る路地の手前で立ち止まり、私は息を切って探偵の隣に並んだ。思わず、離れてしまわないように探偵の袖をつかむ。
「探偵さん、早い」
探偵の顔を見上げると、鳶色の瞳がまっすぐに私を見下ろしていた。怒るでもなく、笑うでもなく、淡々とした表情。
「どうして帰るんだ？」
「え？」
「僕に会いに来たんじゃないのか」
ス――と探偵の手が伸びてきて、私の額を覆う。
――あ。
「ちが――。具合が悪いわけじゃ……」
「何か云いたいことがあるなら、云いなさい」
「別に……なにも」
探偵はいつまでも私の額に手を当てたままだ。彼の大きな手は私の目も覆ってしまっている。
視界をふさがれたまま、私は問うように小首を傾げた。
「探偵さん……？」
「云ってくれないとわからないよ。――僕が、何かしたのか。……起きてこなかったから怒っているのかい」
「――いいえ」
私は小さく笑った。
「そんなことで怒ったりしません」
「じゃあ、なに」
「――」
「女学生君」
静かに探偵の声が先を促す。
まさか自分の想像が恥ずかしくて探偵の顔が見れそうもなかった――とは口にできない。
私のことを名前で呼んで欲しいなどと云えば、探偵は呆れるだろう。普段から、名前に意味などないと豪語している人だから。
でも。
目を覆う探偵の手は大きくて、私の気持ちを落ち着かせるには十分な効果を持っていた。
云っても大丈夫かも――と思ってしまうほどには。
「女学生君」
誘う声も心地よくて。
「云って」
「……名前を」
「名前？」
思いがけない返答だったに違いない。きょとんとしたように探偵がつぶやく。探偵の手が離れて、私はようやく視界を取り戻したが、恥ずかしくて顔を上げることができなかった。
私はつかんだ袖を見続けて。
「私の……名前を」
たぶん、美代子とか、美千代とか、間違えて覚えているに違いないのだけれど。
「呼んでほしいって……思って」
「美由紀？ それがどうしたんだい」
「――！」
私は真っ赤になってしまう。まるで、一気に血が沸騰したかのように顔が紅潮した。
「真っ赤だぞ」
探偵は声を出して笑った。
「ち――ちが」
私は真っ赤になったまま首を横に振る。
探偵は不思議そうに首をかしげた。
「間違っていないだろう？ 美由紀」
「そ――そうなんですけど」
私は鞄を抱えると、それで顔を覆った。
どうしよう。耳まで熱い。
いきなり呼びすてでくるとは思っていなかったのだ。しかもあんなにあっさりと。ちゃんと云ってくれたとしても、せいぜい、美由紀君とか――。
「ちがうのか？」
私はしどろもどろになりながら、消えるような声でつぶやいた。
「……です」
「ん？」
なに、と探偵が身を屈めてくる。私は戸惑うも、結局、探偵の端整な耳に口を近づけて囁いた。
「ちゃん付けで呼んでもらいたかったんです……」
かああ、と頬が熱くなった。
「……それだけ？」
こくん、と私が頷くと、探偵は身を起こして私をまじまじと見た。
「美由紀ちゃん」
「……っ」
私が嬉しそうな表情をしたからか、探偵が笑いを堪えた顔で口を覆った。
私も恥ずかしくて口を押さえた。
「やっぱり恥ずかしいですね」
熱くなった頬。
探偵にちゃん付けで呼ばれるのは予想以上に恥ずかしかった。想像の範疇にとどめておけばよかった、と後悔していると、探偵が小さく声を出して笑いだした。
探偵は、やけに嬉しそうな顔でうふふと笑った。
「じゃあ、僕のことも名前で呼ばないとね」
「……」
え、と私が瞬くと、探偵は楽しげに満面の笑みを浮かべて云った。
「僕の名前は礼二郎だ。さあ、呼びたまえ」
「……え？」
「だから、名前で呼ぶのだよ」
「え――でも」
「でもじゃないよ。僕は君の事を美由紀ちゃんと呼ぶのだから、君も僕の事を名前で呼ぶのだ」
当然だろう、と探偵は胸を張る。
「さあ、云いたまえ」
「ちょ――、ちょっと待って下さい、探偵さん」
「探偵さんではないッ！ 礼二郎さんだ」
「れ――」
礼二郎さん――なんて、とてもじゃないが呼べない。
「ほら、簡単だよ、云ってみなさい」
探偵が面白がっているのは目に見えてわかった。
「あの――」
「礼二郎だ」
「れ……」
「れ？」
「礼……」
二郎さん、と声には出さずに口の中で云うと、私の顔はこれでもかというくらいに真っ赤になってしまう。ぷしゅう、と頭から湯気が出るような気がして、私はその場にうずくまった。鞄に顔を伏せて、顔を上げることができない。
探偵が私の前で同じように身を屈めたのがわかった。
くくく、と笑っている。
「大丈夫かい。女学生君」
はい、と私は云う。そして、大きく息を吐いて、顔を上げると思わず漏れたのは笑み。
探偵は私と同じように膝を抱えていた。
「やっぱりそっちのほうがいいです」
「ん？」
「名前じゃなくて、女学生君って呼ばれるほうがいいです」
私も、探偵さんと呼ぶほうがいい。
だが、探偵は不満そうに
「ええっ？」
と云って眉を上げた。
「なんで！」
「なんでって……。だって、やっぱり変な感じが……」
「納得いかない」
今度は私のほうが「ええ？」――だ。
探偵は鼻を鳴らした。
「だって、僕だけが名前で呼んでもらっていないじゃないか」
「そ……それは」
そうだけど。
探偵は、私の右の指先をつかんで、軽くゆすった。可愛く小首をかしげて笑う。
「一度だけでいいから、云ってよ」
「……」
「ほら」
ほら、と探偵は何度も催促する。とても嬉しそうに。――絶対にからかわれている。
ああもう、変なことを云うんじゃなかったと私は頭を抱えたくなった。
まっすぐに私の目を覗き込むように見つめてくる鳶色の瞳。
ううう、と私はうなってついに観念した。大きく息を吸って、あの、その、を繰り返した後、消えるような声で――云った。
「……れいじ……ろう、さん」
「聞こえない！」
「……！」
探偵はにやりと笑うと、前かがみになって、私の顔に耳を寄せた。
「さあ、云って」
了
【古風気味な百の題目／097】
2006.09.16
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