榎木津×美由紀
『隣の席の幸運』
「あれ？」
事務所に来て一時間が過ぎたころ、ソファで寝ていた探偵がようやく目を覚ました。
「女学生君がいる」
うつろな瞳の半分は長い睫に隠れている。私は笑った。
「探偵さん、おはようございます」
「おはよう」
日曜日の午後二時を回ったところ。世間一般では「こんにちは」の時間帯だ。
ぼんやりと視線を私に向けたまま、探偵はまだ眠たそうな目をしている。
「いつ来たんだ」
不思議そうにつぶやいた探偵に、呆れたような溜め息をついたのは私の向かいに座っている益田さんだった。
「榎木津さんが寝室から出てきたときにはもういましたよ」
「……」
記憶を探っているのか、怪訝に眉を寄せて、不思議そうに瞬く探偵が可笑しい。
昼すぎに私が来たことを和寅さんが伝えると、寝室からのそりと出てきた探偵は私を見てへらっと笑った。そのまま私の隣に腰を下ろすと、背もたれに身体をあずけてぐうぐうと寝てしまったのだが、まったく覚えていないらしい。
もしかすると、寝室から出てきた事すら覚えていないのかもしれない。
眠くても美由紀ちゃんの側にいたいんだよ、などと益田さんは苦笑していたけど、ただ単ににぎやかなところが好きなだけじゃないかと私は思う。
「何で起こさないのだ」
「気持ちよさそうに寝ているのに起こせません」
「……またトランプをしている」
不満げに眉を寄せた。
今、テーブルの上にあるのはオセロ。トランプは三十分ほど前まで三人でやっていたのだけど、和寅さんが買い物に行くというのでやめたのだった。
「探偵さんもしますか」
「トランプは面白くない」
人が見たものを視ることができる彼には、トランプという遊びはゲームとして成り立たない。
初夏にしては涼しく心地良い風が吹いている。薄い麻のカーテンがふわりと浮いて、探偵の前髪がそよいだ。
私は目を細めて笑った。
「探偵さんも一緒にやりましょう。面白いですよ、ババ抜き」
探偵はぼんやりと私を見て、のそりと身を起こした。いつものような俊敏さはまるでない。まだ眠たいのだろうか。
顔を洗ってくるのか、立ち上がった探偵はそのまま奥に消える。
「美由紀ちゃん……」
益田さんがやや劣勢だったオセロを片付けながら、声を潜めた。
「ババ抜きって、榎木津さん相手じゃ勝負にならないよ。この前なんか、面白くないぞッ！ って持っていたカードを花吹雪みたいにばら撒いていたんだから」
そのときの様子が想像できて、私はくすりと笑ってしまう。
探偵が洗面所から出てくるのと、和寅さんが帰ってきたのが一緒だった。
はは、と和寅さんが笑った。
「おや、先生、やっと目が覚めましたか」
「何で起こさないんだよ」
「起こしましたよう。先生だって起きてきたでしょう。そのあとでまた眠っちゃったんじゃないですか」
「起こせ馬鹿者」
鳥口さんなら「うへえ」と云ってそうな場面。なんとも理不尽な会話だ。起こした後に勝手に寝ておいてそれはないだろう。
私は苦笑し、ソファーの背もたれに腕をかけた。
「和寅さん、ババ抜きするんです。一緒にやりましょう」
「え、ババ抜きですか。先生も一緒に？」
「はい」
和寅さんがなにを思い浮かべたのかはすぐに想像がついた。あのことは云ったのかい、と云いたげな和寅さんの無言の問いに、益田さんが肩をすくめて苦笑している。
探偵は濡れた前髪をかき上げ、私の隣に腰を下ろすと長い足を組んだ。
「和寅、座れ」
「本当にやるんですかい」
神の命令は絶対だ。和寅さんは溜め息混じりにぶつぶつとつぶやきながらも、台所に買い物袋を置いてくると益田さんの隣に腰を下ろした。
慣れた手つきで益田さんがカードを切った。
「益田さん、配るのは三つでいいですから」
「え、美由紀ちゃんはやらないの？」
「私は探偵さんと一緒にやります」
「……」
きょとんと、益田さんが瞬いた。
「榎木津さんと？」
どういうこと、と問う視線に、私は説明した。
探偵はカードを持つだけで、取るのは私であることを。
私は探偵を見た。
「私がカードを引くとき、口を開いたらだめですからね」
探偵は無言のまま片方の眉を上げる。それじゃあますます面白くないだろう、と云いたげに。
「ああ――なるほど」
益田さんはすぐにわかったらしい。和寅さんはまだ少し首をかしげている。
けけけ、と益田さんが笑ってカードを配り始めた。
「それなら榎木津さんでも大丈夫だ」
私は笑って、配られたカードを探偵の手に渡した。
探偵がカードを広げると、私は探偵にぴたりと寄り添って、カードを覗き込んだ。すでにそろっているカードを抜き取って机に放る。
最初にじゃんけんをして、勝った順にカードを抜いていく。益田さんが探偵のカードを抜き、私が和寅さんのカードを抜く。
ジョーカーは私たちが持っていた。カードを選ぶ益田さんの手がジョーカーに触れたが、彼はふと探偵の顔を見て、その隣のカードを抜いた。
「……」
けけけと益田さんが笑う。
「探偵さん……」
私は眉をひそめて探偵の顔を覗き込んだ。
「益田さんがジョーカーを引きそうになっても、嬉しそうにしたらだめですよ？ 表情を出さないようにしてください。探偵さんはすぐに顔に出るんですから」
大丈夫かな、と心配になってしまう。
「わかってますか？ 無表情ですよ、無表情」
「……」
探偵は私を見つめていたが、やがて口角が上がり、
「――わかった」
と、云った。
探偵が鼻をならす。その目が楽しそうな笑みを浮かべ、うわははは、と大声で笑った。
「愉快だッ」
突然の高笑いに驚く私に、探偵はふわりと笑う――それは、ほんの一瞬。
「――！」
探偵はまるで啄ばむように私の額に口付けてきた。
了
【恋をしている十の題／04】
2006.09.26
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