榎木津×美由紀
『神様なんていない』
「僕を誰だと思っているのだ！」
眉を上げ、胸を張って叫ぶ男に、学生服を着た少女は萎縮することもなく平然と答えた。
「……探偵」
「そうだッ！ 探偵だぞ！ 探偵で神だッ！」
「わかっていますよ」
「わかっていないじゃないか！ 神が遊びたいと云えば遊ぶのだよ、女学生君！ それは神のお告げだ」
「はあ……」
「はあじゃない！ 浅草に僕ひとりで行ってどうするのだ！ 僕が行くと云うなら、女学生君も一緒に決まっているだろうが！」
仁王立ちで云い放つ神に、呉美由紀は溜め息をついた。
「わかりました。わかりましたから――」
寝室を指さした。
「早く着替えてきてくださいっ！」
榎木津はシーツを斜めに巻いて、まるでギリシア神話に出てきてもおかしくないような格好だった。いくら神様とはいえ、そんな格好の人と浅草に出向くのは遠慮したい。
榎木津はその場から動こうとしないで、腰に手をあて、美由紀を見下ろした。
「浅草だぞ！」
「わかっていますよ」
「浅草だ！」
「はいはい、浅草でしょう」
男の言葉をさらりと流して、美由紀は榎木津を寝室へと押し戻してドアを閉めた。
「まったくもう」
漏れたのは苦笑。
子供みたいに、と美由紀は寝室の扉をにらんで――思わず笑ってしまう。榎木津と出会ってから久しいが、初めて出会った時からまったく変わらない。
「しょうがない神様だ」
――浅草に何があるのだろう。
美由紀が首をかしげていると、
「美由紀ちゃん」
と益田の声がした。
振り返ると、おいでおいで、と探偵助手の益田がソファーの背もたれに腕をかけて美由紀を手招いている。
美由紀は改めて挨拶をすると、首をかしげ、なんですか――とソファーに向かった。
「お疲れ様――座って座って」
益田は苦笑している。美由紀はその言葉通りに益田の正面に座り、麦茶を用意してくれた秘書の寅吉に礼を云った。
「いただきます」
「いつものことながら、すみません」
申し訳なさげな寅吉に、美由紀は笑みを浮かべて首を横に振った。
確かにいつものこと――なのだ。突拍子もない榎木津の言動は。
今日も美由紀が事務所に入るなり、寝室から高笑いと共に登場したアポロンは、「女学生君、浅草だ！」と叫んだのだった。
「浅草に行くぞ！」
と宣言するので、美由紀は瞬き、にっこりと笑って、
「いってらっしゃい」
と云った結果が今のやり取り――というわけだった。
益田は「榎木津さんの扱いが手馴れてきたなあ」と思わず感心してしまう。
榎木津の中では、美由紀と行動を共にするのは当たり前のことなので主語が抜ける。もちろん、美由紀はそれを分かっている上で発言しているのだ。
「あ」
美由紀は顔を上げた。
「もしかして、仕事が入っていましたか」
「いやいや。仕事はないんだけどね」
益田は手首を振った。
「美由紀ちゃんって……榎木津さんのこと、本当に神様だと思っているっぽいよね」
美由紀は瞬き、
「だって神様でしょう？」
迷うことなくあっさりと答えて、小さく笑った。
「どうしたんですか、いきなり」
「あ、いや――なんとなく、ね」
益田はハハハ、と笑った。美由紀があまりにも榎木津の言葉に対して妄信的なところがあるから思わず口にしたのだが、まさかそんなにあっさりと返ってくるとは。
しかも、冗談ではなく、本気で思っている――のがわかる。
ふふ、と美由紀は笑った。
「益田さんは信じていないんですか？」
「え、そりゃあ、神がかり的な能力は持っているとは思うけど……人間だし」
美由紀は真面目な顔でそれを聞いて、ふわりと表情を柔らかくした。
榎木津がどれだけすごい能力を持っていようとも、ただの人間でしかない。
救いたくても救えない人間はたくさんいる。
当たり前のように心を痛めもする。
――それでも。
それでも、美由紀にとって榎木津は神だった。
「私……」
美由紀は寝室のドアを見つめた。
「森羅万象に神が宿るというのなら、人に神様が宿っていてもおかしくないと思うんです」
益田に視線を向けて、にっこりと笑う。
「だから、探偵さんが自分を神と云うなら、神様なんですよ」
「……」
うわ、と益田は思わず目を見張ってしまう。
「そう云われると……うん、そっかあ。なんだか納得」
「でもほら――」
くすりと美由紀は笑った。
「神様にもいろいろありますから。恋愛の神様だったり、勉強の神様だったり、かまどの神様だったり」
「貧乏神だったり？」
「――はい」
美由紀と益田は、顔を見て互いに吹きだしてしまう。
けけけ、と益田は楽しげに笑った。もしも榎木津が「僕は妖怪だ！」と云えば、美由紀は本気でそれを信じるに違いない。
「じゃあ、榎木津さんは破壊の神様だ」
バタンッ！ と寝室のドアが開き、仁王立ちの探偵が下僕を睨んだ。
「歯が痛い神様とは誰のことだ！ このカマオロカッ！」
「そんなこと云ってませんって」
毎度のことながら、盗聴器でも仕掛けられているのではないかと益田は疑いたくなる。ドアに耳を当てて盗み聞きしている榎木津――なんて姿は想像したくない。
榎木津はツータックのズボンに白いシャツと、前が開いたままのＶネックのベストを着ている。美由紀は立ち上がって榎木津の前に行くと、結ばれずに首から下がっている紫色のネクタイに手を伸ばした。美由紀がネクタイを結ぶ間、榎木津はおとなしくしている。すでに見慣れた光景だ。
美由紀が首をかしげた。
「浅草で何かあるんですか？」
「祭り」
美由紀が男の胸を軽く叩いて離れると、ありがとう――と礼を口にし、榎木津はベストのボタンを留めた。フェルト帽をかぶり、ニヤリと笑う。
「よし！」
美由紀の手を取り、楽しげに振った。
「さあ行こう、今すぐ行こう、さっさと行こう。綿飴を食べよう！」
神様なんていない。
「おなかがすいたっ！」
いるのは、大人の格好をした、ただの子供だ――と、美由紀は笑った。
了
【古風気味な百の題目／023】
2006.10.22
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