榎木津×美由紀
『脈拍120』
寝室のドアを開け、せんせい、と寅吉が呼んだ。
無視しているといつもなら勝手に話すのに、また先生、と呼ぶ。
「なんだよ」
寝台に横になったまま榎木津がうろんに答えると、寅吉は人差し指を事務所に向けた。
「美由紀さんから電話が」
寅吉が云い終わる前に榎木津は身を起こした。
「それを早く云え、馬鹿者！」
大またで寝室を出ると電話に向かう。だが、受話器を取った手はそのまま止まり、榎木津は憤慨した。
「切れているじゃないか！」
睨むと、寅吉は情けない様子で太い眉を下げた。
「最後まで聞いてくださいよ。電話があって、これから二ヶ月くらい来られないそうです」
「二ヶ月？ なんだそれは。海外にでも行くのか」
「海外には行かないと思いますけど。たぶん二ヶ月くらいって」
「たぶんってなんだよ」
「知りませんや。美由紀さんがそうおっしゃったんですよう」
寅吉はなんでもないことのように軽く云うと、そのまま台所へと消える。
榎木津は眉を上げた。
電話を通して聞こえてくる少女の声は、直接聞くよりも少しだけトーンが低い。耳元で囁かれているようでとても楽しいのに。
わざわざ期限を指定してくるのだから、二ヶ月も経てば会えるのだろう。呉美由紀という少女は約束を破らない。
しかし、次の日に榎木津は彼女を目にしたのだった。
「なんだ、学校にいるじゃないか！」
いきなりなんだね、と早口で云ったのは、事務所に来ていた弁護士だった。顔が長く鼻息が荒い。馬のようだ、と彼を見るたびに榎木津は思う。
銀縁メガネの弁護士は、下がってもいないメガネを指で上げる。学校？ と小首を傾げた後、ああ――と云った。
「昨日のことか」
増岡則之は学校から呼び出しを受けた柴田勇治と共に学院を訪れたのだ。
「なんでここに来ないんだ」
榎木津が眉を寄せると、増岡は当たり前だ、と云った。
「何のために私がいると思っているのかね。柴田氏は君とちがって忙しいんだ。こんなところに来るわけがないだろう」
「あの男のことじゃない」
榎木津が憮然と答えると、増岡は怪訝に眉を寄せた。
「では誰のことを云っている」
それには答えず、榎木津は片目を瞑った。より鮮明に見るために。
――あれは学校の門だ。
呉美由紀は珍しく帽子を被っていた。柴田が声をかけたのか、美由紀は振り返り、少し驚いた表情をした。しばたさん――と口が動く。ペコリと頭を下げて、落ちそうになった帽子を両手で押さえた。美由紀は顔を上げると二言三言、何かを口にして――。
ふわりと笑った。
「――」
榎木津は両目を開いて、増岡から視線を逸らした。
「誰でもないよ。――それより、あんたはここへ何の用で来たんだ」
「依頼に決まっているだろう。私はここへお茶をしにくるほど暇じゃない」
「じゃあ、そこの人に話しておいて。――おい、そこの人」
「はいはい。そこの人です」
益田はへらっと笑って弁護士の向かいに座った。増岡は脳内ですばやく計算したのか、うんと頷いた。榎木津に話すよりも助手に話したほうが良いと理解したのだろう。
「ああそうだね、益田君。君に云ったほうが早そうだ。――榎木津さん、どこに行くんです」
「寝る」
そうか、と云うと増岡は榎木津への興味はすぐに無くしたようで、益田に向かって早口で依頼内容を口にし始めた。
榎木津は振り返り、もう一度増岡を見る。
美由紀が笑って柴田と話している様子が視えた。
「元気じゃないか」
「え？」
益田が振り返る。
「なんですか、榎木津さん」
「なんでもないよ」
軽くにらみ、後ろ手で寝室のドアを閉めた。
――なんだ。
榎木津はつまらないものを見た、と口をへの字に曲げた。
病気で療養か入院でもするのかと思ったのに――。心配をして損をしてしまったじゃないか。
ひどく苛立つ。
気分が悪い。
ムカムカとする。
それでも、元気なら明日の土曜には事務所に来るかもしれない。――そう思ったのに。
土曜日になり、夕方になっても美由紀は姿を見せなかった。
日曜日になり、昼がすぎても美由紀は姿を見せない。
榎木津はイライラと事務所の中を歩き回った。榎木津の苛立ちが分かるのか、益田は早々に事務所を出ている。どうせくだらない調査とやらをしているのだろう。
試験の勉強だ学校の行事だと、呉美由紀が事務所に来ない日は珍しくない。ならば、いつものように美由紀が来るまで待てばいいのだ。
待てばいいだけ――。
「あれ？ 先生、どこに行くんですかい」
ハンティングキャップを被る榎木津に、寅吉が声をかけてきた。
「京極のところだ」
云い放つと、榎木津はコートを手に取り、事務所を出た。
中野の古書屋についたのは三時前だった。「骨休め」の札がかかっている。
誰か来ているのか。もちろん、そんなことを気にする榎木津ではないが。ただ――。
ただ、美由紀が来ているのかも知れぬと、そう思った。
「あら」
玄関から古書肆の細君が姿を見せて、榎木津を見ると柔らかく微笑んだ。
「榎木津さん」
「やあ、千鶴さん。――出かけるのか」
「ええ。雪絵さんと映画を見に行く約束をしていますの」
楽しげに笑う千鶴子を見て、榎木津は、あ――と口を開ける。その様子を見て、千鶴子は目を細めた。
「午前中に美由紀さんが来たんですよ。急いでいたみたいで、借りていた本を返してすぐに帰ってしまったんですけど」
「うん」
増岡の記憶を見たときと同じように、美由紀は帽子――クローシュを被っている。
「ゆっくりしていってくださいね」
「千鶴さんも楽しんで来なさい」
「はい」
草履の音が坂を下っていく。千鶴子の後ろ姿をしばらく見送って、榎木津はいつものように勝手に京極堂の母屋に上がると座敷に向かった。
バンッ、と襖を開き、床の間の前に座る仏頂面の男を睨んだ。
「女学生君が来たんだな」
和装の古書肆は、片方の眉を上げた。
「人の家に入ってきた第一声がそれですか。もう帰りましたよ」
「ふん！」
榎木津は古書肆にも負けないくらいの不機嫌そうな顔で、いつもの定位置に腰を下ろし、横になった。だが、いつもならすぐにぐうぐうと寝入るのに、目が覚めてしまう。何度も寝返りを打っていると、いつもならば榎木津を放置したままの男が黙々と見ていた書物から顔を上げた。
「美由紀君と何かありましたか」
「ないよ」
榎木津は中禅寺の言葉を無視すればよかったと、遅れて思う。
ないから頭に来るのだ。
なぜ、自分にだけ、会いに来ないのだろう。
だから、こんなにも苛立つのだ。
「いや――」
榎木津はつぶやいた。
「あったのかな」
榎木津には分からない。美由紀の気に障るようなことでもしたのだろうか。
「二ヶ月くらい来ないそうだ。くらいってなんだよ」
「なるほど」
古書肆は笑った。
「こちらにも当分来そうにありませんし。何かあったんでしょうね」
榎木津が睨むように古書肆を見た。説明を求めるような視線に、男は肩をすくめてみせた。
「本を返しに来たら、いつもは別の本を借りていくのにそのまま帰ったんですよ」
「何か云っていたか」
「何も」
あっさりと口にして、中禅寺は再び本に視線を戻した。
「気になるなら、会いに行けばいいじゃないですか。女性からしか会いに行ってはいけない法則などありませんよ」
だが、榎木津は結局そのまま横になり続け、古書肆も何も云わなかった。
「それで？」
京極堂の母屋の座敷に座るのは、呉美由紀。その隣で、榎木津はぐうぐうと寝ていた。
「寮に来たんです」
「目立っただろう」
「目立ちました」
美由紀の頬は赤い。
想像がつくのか、古書肆は楽しげに笑った。
「だが、何事もなくよかったよ」
はい、と美由紀ははにかむように笑った。右手が恥ずかしそうに額を押さえる。
すでに二週間前になる。化学の実験中に、クラスメイトが教師の指示とは違った薬品を混ぜようとしていることに美由紀が気づき、止めようとしたのだが間に合わずに出火、美由紀の顔を焼き、学校中がちょっとした騒ぎとなったのだった。
昨日、神保町を歩いていた榎木津が美由紀の級友とすれ違った際にその記憶を見たらしく、ひどく慌てた様子で寮に乗り込んできたのだ。
怒鳴り込んできた――に近い、と美由紀は隣で寝ている男を見て苦笑した。
火傷という火傷は負っていない。眼科で目を検査しても問題はなく、被害といえば美由紀の眉と前髪、横髪が焼けただけで済んだ。
三日ほどは風呂に入るたびに額がピリリと痛かったので、低温で火傷はしたのだろうが、痕が残るほどのものでもなく――。
今の美由紀は、焼けてチリヂリになった前髪を短く切り落としたために額が半分以上覗いていた。
昨日のことを思うと、美由紀の頬はそれだけで熱くなってしまう。
榎木津の訪問時、美由紀がたまたま外出しようと寮の玄関にいたから良かったものの、寮の戸を開いた男は部屋まで乗り込んで来そうな勢いで。
「探偵さん……！？」
驚く美由紀に大またで近づくと、榎木津は眉をあげて怒ったのだった。
何を考えているんだ、と。
むしろ、それは美由紀の言葉だろう。なぜ榎木津が怒っているのかわからない。
反射的に、美由紀は被っている帽子を押さえていた。
「どうしたんですか、探偵さん。こんなところに……」
呆然と口にすれば、突然両肩をがしりとつかまれた。
榎木津は怖いくらいに真剣な顔だ。
「どうしたじゃない！」
「え？」
「火が――」
ああ、と。それで美由紀はやっと納得したのだ。
「――視たんですね」
偶然誰かの記憶を見てしまったのか、それとも誰かから聞いたのか。美由紀はようやく榎木津来訪の理由に思い至ったのだった。
火傷をしたのかと詰問されたので、大丈夫だと伝えたのだが、榎木津の表情は変わらずに強張ったままだ。
美由紀は破顔し、男を安心させるように笑った。
「火傷っていうのほどのものじゃないんです。髪の毛が焦げたくらいで。痕も残りません」
「……」
「本当です」
「――」
「本当ですよ？」
「……うん」
榎木津は何か云いたそうな顔をしたが、ゆっくりと――明らかに安堵の表情を浮かべて脱力した。
漏れたのは溜め息。
「心配させるな馬鹿者」
「――え」
急に頭を抱きしめられたときには本当に困ってしまった。
何事かと集まってきていた寮生には嬌声を上げられるし、寮母は失神しそうになっているし。
それでも榎木津の腕を振りほどかなかったのは、探偵が本当に心配してくれたのだと分かったから。すみません、と美由紀が素直に謝ると、榎木津は美由紀の身体をあっさりと離して身を屈めた。帽子に触れる寸前で手を止める。
「本当に火傷はしてないのか？」
「前髪が焦げたので、切ってそろえただけなんです」
だから、大丈夫――と云っても榎木津は眉を寄せたままだ。鳶色の瞳には心配の色が濃い。美由紀は小さな溜め息をついた。このまま大丈夫と云い続けても納得しないだろう。
「恥ずかしくて……。その、笑わないでくださいね」
仕方なく、美由紀は帽子を脱いだのだった。
短くなって直線にそろえられた前髪。全開になった額を、榎木津は凝視している。
「あの……」
美由紀は手の甲で額を覆った。
榎木津の顔は真剣なくらいに精悍な顔つきになっていた。駆けつけて来たときと同様に、本気で心配しているのだろう。
「大丈夫なのか」
「はい」
「本当に？」
「ええ」
だが、まだ信じていない顔だ。美由紀は微苦笑をもらした。額に当てていた手を下ろして、探偵に触れる。小さく笑んで、探偵さん、と云った。
「触っても平気ですよ」
「……」
うん、と榎木津は云って、右の指の甲でそっと美由紀の額に触れた。まるで、壊れ物に触れるかのようにそっと。
「痛い？」
「痛くないです。ぜんぜん」
「……そうか」
榎木津はやっと美由紀の言葉を信じたらしい。身を起こすと、高笑いした。いつもの榎木津だった。
目を細めて笑うと、美由紀の前髪を軽く弾いた。
「目の上直線だな！」
「小童みたいでしょう」
「可愛いじゃないか！」
榎木津は叫ぶと、美由紀の頭に手を置いてぐしゃりと撫でた。
「可愛いのだから恥ずかしがることはないのだ」
「……はい」
頬を赤くした美由紀に、榎木津は笑んだ。
そして。
「おお、女学生がたくさんいるじゃないか！」
榎木津は、周囲に集まった女生徒たちに笑顔で手を振りだした。
きゃああ、と嬌声があがった。
美由紀は笑い――。
「呉さん！ その方は―――」
寮母が榎木津に詰問しはじめ、それを軽くあしらっていた探偵だったが、警備員を呼ばれそうな雰囲気に退散を決めたらしい。
「女学生君！ もう僕は見てしまったのだから、明日からまた事務所に来なさい」
美由紀が二ヶ月ほど行かないといった理由を察したのか、はい、と美由紀が頷くのを確かめてから榎木津は帰っていった。
美由紀は眠る榎木津を見つめた。
あれから寮母や寮生たちの質問から逃げるのは大変だった。
そして、今日はその言葉通りに事務所に顔を出し、探偵と共に京極堂へとやってきたのだった。
「――なるほどね」
美由紀から話を聞いた古書肆は、書物に顔を埋めた。その肩が震えている――笑っているのだ。ついには声を出して笑いだした。
「中禅寺さん……」
「いや、すまない」
顔を上げた中禅寺は、眠っている男に視線を向けた。
「なんにしろ、安心しただろう」
美由紀を見ると、小首をかしげている。
中禅寺は笑った。
結果的には二週間だが、美由紀の事故を知らなければ、榎木津が二ヶ月もの間、おとなしく待ったのかどうかは気になるところだ。
去る者は追わずの男。
だが、去った者が怪我をしたとしても、今までの榎木津なら取り乱したりはしないだろう。
「美由紀さん」
千鶴子が部屋に入ってきて、美由紀を見て微笑んだ。その手に箱を持っている。
「これ、昔使っていたものなんだけど」
座卓の上で箱を開く。
覗いた美由紀の顔が華やいだ。
「わ。かわいい！」
箱の中には洋装に合うような髪飾りがいくつも入っていた。
「いっそ、前髪を上げたほうがすっきりしていて気にならないと思うのよ」
千鶴子はカチューシャを取り出して美由紀に渡した。
「前髪を上げるのはいや？」
「いえ――」
美由紀は首を横に振った。額を全開にしたことがないのでなんともいえないが、なんとなくためらいはある――といった表情で。
美由紀はカチューシャの端を耳の上に当ててから、前髪ごと額から上げた。だが、前髪が短すぎてほとんど落ちてしまう。
「これはどうかしら」
千鶴子は幅の広い布製のものを選んだ。C型のプラスチックではなく、ゴムがついて輪になっている。美由紀は一度頭を通してから、同じように前髪を上げた。跳ねた毛先を千鶴子が整えて、満足げな笑みを浮かべた。
手鏡を取り、美由紀の顔が上手く見えるように動かす。
「似合うわ！ すごくかわいい！ ――ねえ、あなた」
振られて、古書肆は諾とも否とも云わず、ただ頷いた。
ふふ、と千鶴子は笑った。
「他にもあるから、よかったらもらって。学校でも使えるような色もあるわ」
千鶴子は手鏡を美由紀に手渡した。
美由紀は自分で角度を変えて見てみる。
あらわになった額。事故から一週間ほどして、日焼けした後のように少しだけ額の皮がむけたが、今は綺麗なものだ。
焦げた眉は少しだけアイブローで補っていた。さすがに化粧をするなとは教師も云わず――。
美由紀は鏡の中の自分を見つめた。
なんだか額を出すのは照れくさい。似合っている……のだろうか？ 伺うように千鶴子を見ると、
「可愛いわよ、美由紀さん」
と笑う。
「榎木津さんもそう思うでしょう？」
え、と美由紀が驚いて横を見れば、いつの間にか榎木津がひじを立てた手に頭を乗せて美由紀を見ている。
「探偵さん――」
美由紀は慌てて手鏡で顔を隠した。
「何で隠すんだ」
榎木津は身を起こして、美由紀の手から手鏡を取った。
「目の上直線も可愛いと思うけどね！」
榎木津は目を細めて笑った。
「うん、おでこ全開も可愛い」
「――」
美由紀の顔が紅潮した。
「ありがとうございます……」
消え入りそうな声で。だが、榎木津に礼を云うのも変な感じだ。
「あの――」
美由紀は千鶴子に改めて礼を口にした。
「いいのよ」
軽快に千鶴子は笑った。
「このピンもあげるからもらっていって」
「いいんですか？」
「私が使うにはちょっと可愛すぎるのよね」
「じゃあ、ありがたくいただきます」
あははうふふと千鶴子と美由紀が女同士の会話を楽しんでいると、それを見ていた榎木津が、でも、と云った。
「でも、あれだよ、女学生君」
「え？」
きょとんとする美由紀に、前かがみになった榎木津が云った。
「おでこが出ていると、あれだね」
「……なんですか」
似合わないのだろうか。不安になった美由紀が沈んだ気持ちで胸を押さえると、探偵はにっこりと目を細めて、元気に云った。
「ちゅうしたくなってしまうよ！」
座敷の中は静まり返り、古書肆が世界滅亡のカウントダウンを聞くような顔で男を見た。
「馬鹿ですか、あんたは」
重 低 音。
千鶴子は苦笑をもらし、美由紀は一気に真っ赤になって榎木津を睨んだ。
「探偵さん……！」
「そんな顔も可愛いね！」
榎木津は、まるで子供のように嬉しそうに笑った。
了
【恋をしている十の題／08】
2006.10.24
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