榎木津×美由紀
『時間がない』
「忙しい忙しい」
と和寅さんが口にして。
日曜日の今日、和寅さんと、あまり急ぐということのない探偵が、二人そろって事務所内をバタバタと動き回っている。実際には探偵は裸足のままなのでペタペタと音がしているのだけれど。
よりにもよって、榎木津家に関係する葬式が土日に八件も重なったらしい。実家から電話がかかってきて、家族総出で分散することになり、次男である探偵も三ヵ所に出席せざるをえなくなったのだ。
探偵いわく、故人はいずれも親戚いう名の知らない人で、顔を見たこともなければ名前も聞いたことがないという。もっとも、探偵の場合は人の名前を覚えないので、単に忘れているだけという可能性が高い。遺影を見たとたんに「ああ、子供のころに飴をくれた人だ」と思い出したりするのだろう。
「先生、早く靴下履いて！ 黒ですからね」
和寅さんは目の下に隈がある。昨日は通夜の手伝いで出向いていたというから、徹夜しているのだろう。朝になって、ちょうど榎木津ビルヂングの下で私と顔を合わせたときには「ああ、美由紀さん、もう大変なんですよう。お葬式が重なって」と苦笑いしていたのだが、二人で三階に上がれば、二時間前に電話で起こしたはずの人物が二度寝していたわけで。
「先生！」
和寅さんの仰天ぶりは半端じゃなかった。本来なら、とっくに会場に向かっていなければいけない時間なのだ。
「パンとコーヒーを用意しましたから、今のうちに少しでも腹につめておいてくださいよ。告別式の最中に腹が鳴ったんじゃ恥をかきますぜ」
和寅さんが台所から寝室に向かえば、探偵が寝室から台所に向かう。
今日は告別式が二ヵ所だけだが、ひとつは遠方で、一方に出たらすぐに移動という忙しいスケジュールだった。
「和寅、ネクタイがないぞ」
「えええ！？ 昨日、どこで外したんです！」
「探偵さん、こっちにあります」
私が声をかけると、パンを食べた探偵が口をもごもごさせながら私の方へと歩いてきた。左手にはコーヒーを持っている。
私は探偵の首にネクタイをかけると、すばやく結んでからネクタイピンをつけた。ベストのボタンを留めて胸を叩く。
「はい！」
「ん」
探偵はコーヒーを一口飲んで、カップを私に預けると、歯を磨きに行った。
和寅さんが探偵の寝室から出てきた。その手には黒いダブルの上着とコート。
「先生、不祝儀袋はカバンに入ってますから。北の告別式が終わったら、そのままご実家のほうに向かってください。私も本家のほうへ行っていますから」
「車は」
「とっくに来ていますよう」
探偵はコートのボタンを留め、帽子を被った。
私はカバンを手渡す。
「行ってらっしゃい」
私が云うと、立ち止まった探偵が私を見下ろした。
「女学生君。――ごめんね」
「え？」
探偵がなぜ謝るのかわからなくて、私はきょとんとしてしまった。私は慌てて首を横に振った。
「やだ、全然！」
今日は探偵と出かける約束をしていたので、そのことを謝っているのだとわかった。だが、葬式があればそちらを優先するのが当たり前だ。謝ることじゃない。
「気をつけて」
私が笑うと、探偵は少しだけ間を挟んで、口元に笑みを浮かべた。
「行ってくる！」
探偵は身を屈めると、かするようにして私の唇に自分のそれを重ねた。
「――！」
それはほんの一瞬。
「先生、早くしないと遅れますぜ！」
和寅さんの声に私は飛び上がった。振り返れば、和寅さんは窓から上半身を出して下を見ていた。今行くと、下に合図している。
――今のは見ていなかったらしい。ホッと息を吐いた私だったが、探偵がニヤリと笑うのを見て、一気に紅潮した。和寅さんが見ていない隙をついて、わざとしたのだ。
探偵は私の顎を軽くつまんで離すと、小さく声を出して笑った。
私は手の甲で口を押さえて、探偵を睨んだ。
「遅刻しますよ！」
返ってきたのは、いたずらが成功したかのような笑顔。
「こういうのもいいなあ」
探偵はにっこりと笑った。
「夫婦みたいだ」
「……」
真っ赤になった私を探偵は笑う。
「探偵さん……！」
私は探偵を睨むも、彼の笑顔を見ていたら本気で怒るのが馬鹿らしくなってきて、まったくもう、と肩の力が抜けた。結局、漏れたのは苦笑。
「……告別式で笑ったりしないでくださいね」
「もちろんだとも！」
元気に返事をして、探偵は事務所を出ていった。
――本当に大丈夫なんだろうか。
思わず不安になる。
私は和寅さんの横に並んで三階の窓から探偵を見送った。
榎木津ビルヂングに横付けされた黒い高級車。しばらくすると探偵が入り口から出てきて、運転手がいいタイミングでドアを開ければ、颯爽と後部座席に乗り込んだ。
運転手がドアを閉めようとするが、探偵の手がそれをとめた。忘れ物かしらと思えば、ひょいと探偵の顔が覗き、私たちに向かって大きく手を振った。私たちに――というよりも、私にだろう。
行ってくるね、とまるで子供のよう。
私は小さく笑って手を軽く振り返した。
車が去ってから、和寅さんが不思議そうに首をかしげた。
「先生、さっきまであんなに文句たらたらだったのに、なんだか嬉しそうだなあ。――亡くなったのは嫌いな親戚だったんですかね」
「……さあ」
私は、返答に詰まった。
――夫婦みたいだ。
探偵の言葉を思い出して、再び顔に熱が集まってしまう。
「美由紀さん？」
「……」
恥ずかしくて、私は窓枠につけた手に顔を伏せて唸った。
了
【古風気味な百の題目／094】
2006.11.04
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