榎木津×美由紀
『絶え間なく』
美由紀と喧嘩をした。
つまらない理由だったと思う。――思う、というのは、実はあまり覚えていないからだ。
ただ、ひどく腹立たしくて、途中で彼女が泣きそうになったときも突き放すことしかできなかった。
ごめんなさいのひとつでもあればすぐに許そうと思っていたのに、彼女は頑固にも主張を変えず。
それで、僕はもっと頭にきてしまったのだ。
美由紀は下唇を噛んで、嫌味なほど丁寧なお辞儀をして事務所を出て行った。
それから一ヶ月、彼女とは会っていない。
事件で東京から離れていたせいもあるし、今までも事件や彼女の試験が重なれば会わないことも多かった。それでも、美由紀が事務所に顔を出していることは和寅を見ればわかったのだ。
だが、今は事務所にさえ来ていない。
何で来ないんだ、と腹立たしく思う。
和寅は何か云いたそうな顔で僕を見るし、美由紀が来たときのために毎週デザートも作って待っている。食べようとすると怒る。
益田はもっとうるさい。
「美由紀ちゃん、明日は来るかなあ」
金曜日になるたびに口にし、
「美由紀ちゃん、来ませんね」
土曜日になるたびに溜め息を落とす。頭に来て睨みつけるとあたふたとして、
「試験か学校の行事でもあるのかなあ」
へらへらと笑った。
事務所にいると腹が立つので、京極堂へと向かう。いつものように勝手に座敷へ上がり、勝手に横になる。
京極は何も聞かないし、僕も話さない。
ただ、一ヶ月に一度くらいの訪問が、今は毎週に変わっていた。
ここへもまた彼女が来ていないことを知って安堵するのだ。違う――安堵じゃない。
安堵であれば、こんなに苛つくはずがない。
呉美由紀が事務所に来るのは、主に土曜日。たまに日曜日にやってくる。
時々、京極堂へと行くが、同級の女友達と遊ぶということはない。クラスメイトとは良好な関係を築いているようだが、特に親しい友達はいないと――彼女自身から聞いていた。
事務所に来ない日は、いつも何をしていたのだろう。学校が終わってすぐに寮に帰り、その繰り返しなのか。
すぐに――。
謝ってくるに違いないと思っていた。怒っていても、顔くらいは見せに来るだろうと。
街中を歩いていても、美由紀と同じ年頃の娘が歩いていると彼女を探してしまう。同じ制服の娘を見つけると、その中に美由紀の姿を探す。
いつの間にかそれが癖のようになっていたことにいまさらながらに気づいた。
すらりと伸びた肢体は小柄な少女たちの中では一際目立つ。姿勢がよくて、凛としたまなざしで前を向き、綺麗な線を描く横顔。
見つければ、何事もなかったかのように声をかけられる――そう思っていた。
美由紀に出会ったのは昭和二十八年の初春だ。
理不尽な暴力を受けて、親友を失って、たった一人で。それでも戦う心を失っていなかった。
まっすぐな視線と心が気に入って。
事件の最中、そして、事件が終わってから何度か会うようになっても、彼女の自分に対する態度は変わらなかった。僕の能力を知り、それなのに彼女は見られることを恐れていない。
それは、赤子や子供が自分を見る瞳と同じだった。
なぜ平気なのだろう。
時々不思議に思った。
気持ちが悪くはないのだろうか。
不気味には思わないのだろうか。
分からない。
変わらずに、無邪気な笑みを見せる彼女が。
頭が悪いのではないかとさえ思う。
――胃がキリキリとする。
頭の中の時間と、身体の中の時間が違っているかのよう。早く早くと急ぐ心に焦燥感を覚えてしまう。喉が渇いているのに、胃は水さえも受け付けずに、身体がどんどんと乾いていくような気がした。
ああ、と思う。
これはあの時と似ている。
あのひとを探していたときと。
カラン、という鐘の音が、事務所の来訪者を告げる。
事務所の戸が開き、
「失礼します」
はっきりとした口調で姿を見せたのは、柴田勇治だった。
柴田財閥の若き長は、対応に出た和寅に名乗り、机のところにいる僕に気づくと近づいてくる。
「榎木津さん、お久しぶりです」
「久しぶりではないよ」
一月前に見た。――美由紀の記憶の中で。
思い出すとまたイライラとしてくる。
「そうですか」
柴田は目を細めた。
「少し話をしたいのですが、時間はありますか」
「話したいのなら勝手に話せばいい。依頼ならマスヤマが聞く」
「依頼――ではありませんが。いや、依頼にしてもいい」
「どこにいる」
柴田を睨むと、彼は少し驚いた顔で、だが、すぐに頷いた。
「車の中に」
――呉美由紀の姿が見えた。
学生服のまま、神田駅の近く、事務所に向かう道を見て立っている姿が。
胸を押さえて、今にも泣き出しそうな顔が見えて。
柴田が声をかけたのか、美由紀はきょとんとした顔で左右を見回し、視線が定まると驚いた表情をした。
「ここへ送ると云ったら断られてしまいましたよ」
美由紀は微苦笑を漏らして、首を横に振っている。一瞬笑みを浮かべたが、その顔がゆがんで――。
ぽろりと涙がこぼれた。
慌てて涙を拭う美由紀は無理に笑っている。
ぼろぼろと涙があふれて。
「泣き出されてしまったので車に乗せましたが、貴方と喧嘩をしたとか」
柴田の声に記憶が途絶えた。
なんでこんな奴に云うのだ、と思う。
「したね。だが、君には関係ないことだ」
「関係あると、呉君は思っているようですよ。座ってもいいですか」
「どうぞどうぞ！」
と云ったのは益田だった。余計なことを、とひと睨みすればすぐに台所に引っ込んだ。事務所から出るか、もしくは傍観者になるのなら徹すればいいものを。
柴田はソファーに腰を下ろした。
「榎木津さんは、僕が呉君を好きだと――そう思っているのでしょうか。それとも、呉君が僕を好きだと？」
「もっとわかりやすく云え」
「僕はね、榎木津さん。自分が万人に好かれるような人間ではないことは十分にわかっているんだ」
柴田が何が云いたいのかわからない。だが、その目は真っ直ぐに僕を見ている。
「貴方は身分や金や権力に左右される人ではないし、面倒なことも嫌いだ。嫌いな人間からの依頼も受けない。仕事と割り切るような人でもない。それでも、貴方は僕からの――柴田グループからの仕事を断らない」
柴田は言葉を切った。
「僕のことは嫌いだが、どこかで認めていることもわかる。だから依頼を受けるんだ。――どうしてだろうと、前から不思議に思っていたのですよ」
事務所の中がシンと静まり返った。
時計の針の音がやけに耳に響く。
柴田は生真面目そうな顔を引き締め、白目と黒目がはっきりとした目を僕に向けた。
あのとき、と口を開く。
「あのとき、織作是亮から呉君を助けたのが僕だから――なのですね」
焦点の合ってない目を血走らせて、ものすごい形相で叫びながら何度も拳を振るう男。
すでに狂っているのだろう。
柴田が部屋に入れば、男は美由紀にのしかかり、胸元の飾紐をつかんで狂ったように叫びながら少女を揺さぶっていた。
柴田が美由紀を助けたとき、彼女の頬や瞼は腫れ、口からは血を流していた。
乱れた髪。
吐しゃ物と、汗と涙で、顔も髪も服も汚れてぐしゃぐしゃで――。
あんな目に会いながら、毅然としていられることがすでに驚きだった。
「だからか……」
静まり返った事務所に、益田の小さな声は思ったよりも大きく響いた。
「……そうかあ」
納得がいった――という溜め息。
「ま、益田君」
「なんです和寅さん。――あ！ す、すみません！」
益田は集中した視線にあたふたとキョドり、慌てて口をふさいでいる。
僕は溜め息をついて立ち上がると、びくりと怯えた益田を無視し、静かに見据える柴田も無視して事務所を縦断した。
「榎木津さん、どこへ！」
益田の声が追いかけてくる。
それには答えず、
「いるんだろう、下に」
戸を開ける。
カランと鐘が鳴り、
「いますよ」
と柴田が答えた。
車のドアを開けて後部座席に乗り込むと、美由紀の隣に腰を下ろした。
美由紀はうつむいたままだ。おそらく、乗り込んだのが僕であることにも気づいていない。柴田だと思っているのだろう。
後部座席は広い。腕と足を組んで前を見据えたままでいると、隣でぽたりと水音がした。美由紀を見れば、膝の上でスカートを硬く握る手に涙が落ちていた。
鼻をすする音とともに、涙が止まらずにこぼれている。
「泣くなら、僕のところで泣きたまえ」
声をかけても美由紀は驚かず、慌てて袖で涙を拭った。前髪が彼女の表情を隠し、噛み締めた唇だけが見えた。
車に乗ったのが僕であると、最初から気づいてはいたらしい。
どうして泣くんだ――と口にしようとして、言葉を変えた。
「来ているなら、なぜ来ない」
美由紀はさらに唇を噛んで、顔をゆがめた。もう一度、袖で涙を拭う。
「何も――云ってくれないから」
「何を云えと？」
「……」
美由紀はうつむいた。
「……元気だったか、とか」
そんな言葉を望んでいたわけではないだろうに。
「他に？」
「……ほかに、は」
ぽつりと、つぶやいた。睫が――唇が小刻みに震えている。
噛み締めた唇に、血がにじみそうだと思った。いつもならば、その唇に触れてそれを止めているところだ。
「…………行きたくても、行けなくて」
美由紀の声が震えた。
「足が前に進めなくて。…………行きたいのに、会いたいのに、ぜんぜん動かなくて」
神田の駅前で止まる足。
立ちすくんで、その先に進めずにいる。
「誰かが通ってくれたらいいのにって――、ずっと思っていて。誰かが声をかけてくれたら、遊びにいけるのにって」
視線は、まっすぐに探偵社のある場所を見つめていた。
何度も、来ていた。
すぐ、近くまで。
「来ればいいのだ！」
「でも！」
でも、と顔を上げた美由紀は、僕の目を見て、怯むように目を逸らした。
「探偵さんが私を見てまた機嫌を悪くしたらどうしようって、思ったら――」
足が前に進まなかった。
「なぜそう思う」
美由紀を待っていた今までを思うと、ただ腹立たしくて仕方がない。
「来たいのなら、来ればいいだろう」
「だって、見ないじゃないですか！」
美由紀が叫んだ。
「見ないじゃないですか、私を！」
まるで、悲鳴のように。
「私なんてもうどうでもいいって、探偵さんの中で結論づけられているなら？ 謝っても許してくれなかったら？ 私なんて、もう過去に出会った人間の一人に過ぎないって云われたら！？」
居場所がない、と。
「何でそう思うのだ……」
そんなことを云うはずがない。
だが、美由紀の中に、顔を背ける僕の姿が見える。彼女を見ない男の姿が。
「怖くて――」
美由紀の手が伸びて、僕の袖をつかむ。
怖いと口にしたその手がすがるように。
「探偵さんが怖くて」
袖を強くつかむ。
「探偵さんが私を見ないのが怖くて」
「僕が」
思わず、思考が止まった。
見ることが怖い―――のではなく？
「見ないのが、怖い……？」
「だって」
美由紀は握った袖を揺すった。
「怒るといつも私を見ないじゃないですか。目を逸らして、絶対に見てくれないじゃないですか。だから、ちゃんと見てほしくて。――私を見てほしくて」
それなのに、柴田と話す美由紀を視て――僕は機嫌を損ねて、彼女を見ようとはしなかった。
ああ、と思う。
そうだ、あの時も美由紀が怒ったのだ。文句があるなら云えと。
僕は文句などないと云い、だったらどうして怒るのだと云い争いになったのだ。
あいつのことで喧嘩することになったことさえ腹立たしいというのに。
「君は、あいつが好きなんだろう」
「好きですよ！」
はっきりと口にされて驚いた。心臓がズキンと痛む。
美由紀は、両手を伸ばして僕の顔をつかむと、ぐい、と自分の方へと向けた。
「でも、探偵さんのほうがもっと好きです！」
まるで睨むように。
「柴田さんだって、私を気にかけてくれますけど、同じ事件を共有したし、同じ痛みを知っていて――」
小夜子の笑う姿が浮かぶ。そして、赤黒く捩じれた首筋――。
「学校に編入する際の保証人で、保護者的立場があるから――」
それは、まったく恋愛感情のない好意だと美由紀の視線が語り、たぶん、とつぶやく。
「碧と同じ年齢ということもあるんだと思います。碧のかわりに気にかけてくれる。――それだけです」
頬をつかむ手が、ゆっくりと離れた。力を失ったように両手が落ちると、そのまま美由紀の身体も座席に沈んだ。
「探偵さんが……」
美由紀は何か云いたそうに口を開いたが、結局、黙り込んだ。眉を寄せ、神田の駅前で立っていたときのように、痛みを堪えるような面持ちで胸元を握っている。
「……探偵さんが、私を気にかけてくれたのと、同じです」
――同じようで、まったく違う感情であることを、美由紀は想像もしない。
「僕が――」
指を伸ばして、美由紀の横髪に触れた。さらに伸ばして、織作是亮に殴られた頬に触れる。今はすっかりその痕もない綺麗な頬を。
「君を助けたかった」
「――」
美由紀の視線がゆっくりと動いた。
「……？」
怪訝そうに、何のことかと。
僕は、笑んだ。
「僕が、君を助けたかった」
「……助けてくれましたよ？」
不思議そうに小首をかしげた。
僕が目を細めてそうか、とつぶやくと、そうです、と返ってきた。
「だから、僕が好きなのか？」
「――」
は？ と美由紀は瞬いた。怪訝な表情。
「僕が君を助けたから、だから、僕が好きなのか」
「――」
美由紀は怒気のような気配を放ち、顔を一気に紅潮させて――、
「はあ！？」
と叫んだ。
美由紀はまるで何かが突き抜けたかのように――悟った顔になる。今度は、一気に苦笑に変わった。
まったく、どうしようもなく、呆れた――表情。
「探偵さんは……」
本当に馬鹿な人ですね、と云った。だが、その目元に浮かぶのは呆れるようなそれではなく。
どこか――。
「人に感謝するって言葉を知らないんですか？」
愛しいものを見る瞳だ。
「私は、自分を助けてくれた人、全員に惚れないといけないんですか」
私を助けてくれた人なら、たくさんいますよ？ と彼女は笑った。
「でも、私が好きになった人は本当に子供みたいで、うるさくて、無茶苦茶で、傍若無人で、わがままで、好き勝手で……」
「……」
「それから――」
まだあるのか。
「――――もう、分かっていると思うから、あとは、教えてあげません」
美由紀は、囁くように云う。
うん、と僕は頷いた。
うん、ともう一度云って――、息を吐いた。
「見てもいいのか」
「当たり前じゃないですか」
「――気持ちが悪いだろう」
「居心地は悪いですけど、気持ちが悪いわけじゃないです」
「怖いだろう」
「そうですね」
あっさりと、彼女は笑う。
「変なことはできないなって身が引き締まります」
「不気味じゃないのか」
「不気味……？」
「君は頭が悪いんじゃないのか」
思わず、口にしていた。
美由紀はまじまじと僕を見た。真っ直ぐに見返していると、彼女は大きな溜め息をつき、
「そうかもしれませんね」
と云って、突然僕のわき腹に拳を突き出してきた。
ゴズ、と拳がわき腹に埋まる。
「――！」
予想外の反応に対応しきれず、身をよじり、呻きながらわき腹を押さえた。
「じょ、女学生君……！？」
「探偵さんがひどいことを云うからです」
「君がしたことのほうがひどいぞ！」
先ほどまでボロボロと涙を流していた少女とは思えない。
なんだか、ひどく怒っている。
はっきりとした口調で美由紀は云った。
「探偵さんは、人より後ろを歩いているだけです」
「――？」
何のことだ、と思い、それが左目のことだとすぐにわかった。
「前を歩く人は、後ろにいる探偵さんに気がつかないから、自分がやっていることを見ている人がいることに気がつかないんです。人の後ろを歩いていたら、前の人が何をしているのか見えていて当たり前でしょう？」
まるで、見えることが普通のことであるかのように。
なんて簡単に。
「――ああ」
なるほど、と思わず納得して――笑いたくなってしまう。
そうなのか、と。
ふわりと、心が軽くなるのがわかった。
本来見えないものが見える目を当たり前と、こんなにあっさりと云ってしまえるのか。
――どうすればいいのだろう。
「ごめん」
素直に――真剣に謝ると、美由紀も謝ってきた。
「私も、ごめんなさい」
「――」
なんで彼女も謝るのかわからない。だが、それでいいのかもしれない。
満たされていく。
美由紀の頭に手を伸ばして、ぐりぐりと撫でた。
「よしよし。許してしんぜよう」
「〜〜！」
美由紀の顔が真っ赤になった。
怒っているのか、照れているのか。僕にはその感情が分かりにくい。
眉を寄せ、頬を膨らませて。
本来、許すのは美由紀であり、許されるのは、僕であるべきだ。
抱きしめたい。
抱きしめられたい。
真っ赤になって唸り続ける彼女を見て息を吐く。思わず、笑い声が漏れた。
なんて可笑しいのだろう。
こんなに愉快なことはない。
彼女がいるという、その喜びが胸を満たす。
どうしよう。
欲しくてたまらない。
なんてやっかいで、なんて面倒なのだろう。――それでも。
「女学生君」
愛しいと。
心から思った。
和寅がデザートを作って待っているよ、と云うと、少女はまっすぐに僕を見た。
「和寅さんが？」
「そうだ、毎週作っていたぞ。僕が食べようとすると怒る。マスヤマも君が来ないとピーチクパーチクとうるさいのだ」
「……探偵さんは」
小首をかしげた。
「探偵さんは？」
「僕か？ 僕は、寝ていた！ つまらないから不貞寝だッ！」
美由紀は、くすりと小さく笑った。
「不貞寝ですか」
「そうだとも！ 女学生君がいないと面白くないからな！ 飯だって不味い」
こんなやり取りが、ただ嬉しい。
僕は息を吐き、ニヤリと笑う。
「でも、今夜からは美味しく食べられそうだ」
「……」
美由紀はゆっくりと息を吐き、
「――はい」
嬉しそうに、目を細めて笑った。
了
【古風気味な百の題目／005】
2006.11.07
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