榎木津×美由紀
『レモン味』
「初めての口付けは檸檬の味がするんだって」
そう口にしたのは小夜子だ。
確か中学に上がってすぐのころ、学校ではなく、寮でのことだった。夕食を終えて談話室に向かうと、一角に寮生たちが集まり、なにやら盛り上がっていたのだ。
なんだろうと思いながら空いているソファーに座ると、
「美由紀」
小夜子が私に気づいて寄ってきた。そして、頬を染めながら云ったのだ。
「初めての口付けは檸檬の味がするんだって」
と。
私は目を丸くしてしまった。
「誰かしたの？」
「ううん、そうじゃなくて、ただそういう話なんだけどね」
「噂話？」
「まあね」
「へえ」
と私は答えた。
「すっぱい……ってことかな」
初めてのキスは甘い――というなら乙女であれば誰もが夢みそうなことだけど。
「すっぱいのは嫌だな」
私が云うと、小夜子が笑った。
「だよね」
「益田さん」
私が呼ぶと、向かいに座って紅茶を飲んでいた探偵助手が顔を上げた。なに？ と。
「初めてのキスって檸檬の味がしました？」
益田さんは飲んでいた紅茶をブホッと吹きだした。
「わ！」
私は慌ててテーブルに乗っていた台拭きで散った紅茶を拭いた。
「大丈夫ですか、益田さん」
「み、美由紀ちゃん……？」
益田さんはむせたまま、いきなり何を云うの――と目を剥いている。
「すみません。急に思い出してしまって」
レモネードが出され、半分に切られた檸檬を絞っていたら、ふと小夜子の言葉を思い出してしまったのだ。
「すみません」
いきなり人に聞くことじゃないなかったな、と思わず頬が紅潮した。
だが、何を勘違いしたのか、益田さんは身体を仰け反らせて驚愕の表情。
「お、思い出すって、何を！？」
「え？」
益田さんの顔が青くなった。
「ま、まさか……」
呆然、という顔で私を見る。まるで恐ろしいものでも見るかのように顎が震え、
「もう…………しちゃった――とか…………」
「え！？」
「ファーストキス」
「まさか！！」
私は慌てて首を振った。
「してませんよ」
益田さんは疑わしげに私を見ている。
「本当に？」
「本当です！」
とんでもない誤解だ！
「だよねえ〜」
ホッと顔を緩めて、益田さんが笑った。
「よかったぁ」
「よくないじゃないかッ！」
バンッ！ とものすごい音を立てて寝室のドアが開いた。
「探偵さん……！」
心臓が跳ね、私は身体を浮かせた。
仁王立ちの探偵は私を見、つかつかと靴音を立てて歩いてくるとソファーの横に立って私を見下ろした。
「そんなことはマスオロカに聞いても意味がないぞ！ 女学生君は何で僕に聞かないのだッ！」
日本人離れした長身は迫力があり、思わずひるんでしまう。
「ほら、訊きたまえ」
「え、ええと……初めての口付けは檸檬の味がしました？」
「覚えてない！」
うわははは、と探偵は笑った。
本当に馬鹿なことを訊いてしまった、と思う。
すると探偵は、突然「おう」と叫んだ。
「そこにあるじゃないか！」
「え？」
探偵を見上げ、その視線を追って私は自分の右手を見た。
「それを食べてキスをしたら、ファーストキスは檸檬の味だぞ女学生君！」
「ああ――！ そうですね」
私は笑った。普通に考えたら、口付けの前に食べたものの味がするに決まっている。
「君が食べてもいいし、僕が食べてもいいよ」
「……」
「……」
はあ！？
数秒遅れて、私と益田さんが突拍子もない声で叫んだ。
「なに云っているんですか！」
「しません！」
「なんでそうなるんです！」
私たち二人の非難の声にも負けない声で探偵は叫んだ。
「するといったらするのだッ！！ するーッ！」
どこの子供だ！
私は呆れた。こうなってくると、もう冗談としか思えない。
探偵は急に精悍な顔つきになってソファーの背に手を突き、上半身を屈めて目を細めた。
「どっちが食べる？」
まだ云うか。
「食べません！」
「じゃあ、僕が食べよう」
にこりと探偵が笑い、急に真面目になった顔が私の右手に近づいてくる。
「え――？」
右手を引こうとしたが、その手を押さえられた。引き抜こうとしてもびくともしない。
「え？」
え――？
「探偵さん――！？」
私は焦った。
「ちょっと……」
――冗談でしょう……！？
「榎木津さん――！」
益田さんが探偵を止めようとその肩に手をかけた。それでも顔はどんどん右手に近づいてきて、益田さんが探偵を羽交い絞めするが止まらない。
「だ……！」
私は目をつむり、真っ赤になって叫んだ。
「だめーーー！」
プシュッ
右手の檸檬がグシャッとつぶれると、
「うお！」
「ウワッ！」
二人は同時に叫んで、顔を押さえた。
目に汁が直撃したのだろう。二人は顔を押さえて沈んだり起きたり、激痛に悶えている。
私は慌てた。
「探偵さん……！ すみません……！！」
「〜〜！！！」
探偵は無言で悶え、益田さんは大騒ぎだ。
「痛い痛いッ！ 目に入った！！」
「あああ……！ 益田さん……！ ごめんなさい！！」
「うぁあぁぁぁ〜！！ 目が〜！ 目がぁ〜！！」
「すみません！！ すみません！！」
呻き悶える二人と、あたふたと謝る私。
手洗いから出てきた和寅さんが、なにやっているんです？ と呑気に声をかけてきた。
「和寅さん――！」
状況を簡単に説明して、どうしたら――と助けを求めるも、彼はなぜかニヤリと笑った。
「二人ともバチが当たったんですな」
「なんで僕もッ！ バチが当たるなら榎木津さんだけでしょう！」
益田さんが叫び、探偵は目を押さえながら益田さんを蹴った。
「うるさいぞマスヤマ！ バチは神が与えるものと決まっているのだッ！」
そして、何が楽しいのか大笑いしている。
私はとりあえず檸檬を握っていた手を洗ってくると、水で濡らして絞ったタオルを二人に手渡した。
「探偵さん、本当にごめんなさい……！」
探偵は笑い続ける。
そして、見えているとしか思えない仕草で私の頭に手をおくと、ぐりぐりと撫でた。
気にするなというその仕草にホッとしたとき、
「今回はお預けだなッ！」
探偵が楽しげに云った。
了
【キスに関する10のお題 01】
2006.12.16
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