榎木津×美由紀
『唇を盗む』
日曜の朝。時計を見ると、事務所に来てからもう一時間が経っていた。
前々から探偵と出かける約束をしていたのだが、朝方に帰宅したという探偵はまだベッドの中だ。
私はいつものように応接のソファーに座って本を読んでいたが、小説の一文に目が止まって瞬いた。
主人公の女性が相手の男性から唇を盗まれた――とある。その珍しい使い方の意味が気になってしまったのだった。
深く考えることもない。唇を奪われるといったような、だいたいのニュアンスはわかる。だが、一度疑問に思ってしまうと気になって仕方がない。
慣用句。辞書に載っているだろうか？
気にしないでそのまま読み続けようかとも思ったが、わからないままにしておくのもあれだと、私は立ち上がった。
「和寅さん、辞書ってあります？」
台所にいる和寅さんに声をかけると、大根の皮をむいていた青年は「辞書ですかい」と首をかしげてから、ああ、と云った。
「先生の部屋にありますぜ。新品なのが」
なぜか楽しそうに笑う。
「事務所を立ち上げたときにお祝いだっつうんで辞典のセットを下さったんです。――御前様が。国語に英語、古語、法律、昆虫、植物……ほかにも何かいろいろと。小学校に入学するわけじゃあるまいし、阿保だ馬鹿だと先生は呆れていましたがね。似たもの親子ですよう」
和寅さんは笑った。
否定できないのが辛いところだ。
「借りてもいいですか？」
「どうぞどうぞ。左の棚にあるはずですから探してください」
はい、と笑い返して、私は寝室の取っ手に手をかけた。探偵が寝ているので、ノックや声もかけない。静かに開けると、室内は薄暗いが電気をつけなくても窓からの明かりだけで中の様子はわかった。
部屋の奥で、布団を床に落として、探偵がベッドの上で気持ちよさそうに寝ていた。
「……」
思わず笑みが漏れてしまう。
探偵を起こさないよう、静かにドアを閉めた。
オーク素材で出来た西洋風の大きな本棚の中央に、立派な装丁の百科辞典が並んでいる。一度も開いたことがないのは一目でわかった。国語辞典はすぐに見つかり、棚から引き抜いてその場で開く。
唇、を探したが、それに続くのは「唇亡びて歯寒し」「唇を噛む」「唇を尖らす」まで。
「載ってない……か」
声には出さずに口の中でつぶやいた。国語辞典を本棚に戻し、隣のことわざ辞典に手を伸ばす。
「ことわざじゃあ……ないよね」
たぶん。
それでも載っているかもしれないと開いたときだった。
「なにを調べているんだい」
「わあ！」
耳元で声がして、私は久しぶりに飛び上がった。
つい先ほどまでベッドの上で大の字になって寝ていた男が、きょとんと可愛く小首をかしげている。
「た、探偵さん――！」
探偵は腰に手を当て、うわはははと笑った。
「久しぶりに聞いた。うん！ やはりとても良い悲鳴だッ！」
「美由紀さん――！？ 先生！」
悲鳴を聞いてか、和寅さんが慌ててドアを開けて飛び込んできた。――が、片手に包丁を握った姿に驚いて、私はまた「うわ！」と悲鳴を上げてしまう。しかも、飛びのいた私の身体は、ちょうど背後にいた探偵の胸に背中から飛び込む形になってしまい、そのまま身体の前に探偵の腕が回って抱きしめられてしまった。
私は慌てて離れようとするが、探偵は楽しげに笑うばかり。
「探偵さん……！」
「逮捕だ」
「逮捕じゃないですよ！ 驚かさないでください！」
「驚かしてなどいないぞ。女学生君が勝手に驚いたのだ」
「美由紀さん、大丈夫ですかい」
和寅さんがいることを思い出して、私は真っ赤になった。
「は、はい！ 大丈夫です、すみません。驚いてしまって――」
「そうだぞ、バカ寅」
私の頭上で探偵が叫んだ。
「お前は大根でも剥いていろッ！」
「探偵さんは黙っていてください！ 和寅さん、本当に大丈夫ですから」
探偵に抱きつかれている今の状態で、大丈夫というには無理がある。実際、和寅さんの目が「本当に大丈夫なんですかい」と疑わしげに聞いてくる。大丈夫だと返すと、一瞬だけ何か云いたげな表情をしたが、探偵の無茶加減に慣れているのか、
「無茶しないでくださいよ、先生」
ジロリと探偵を睨み、そのまま台所へ戻っていった。ドアを閉める前に、包丁の刃が事務所の明かりを受けてキラリと輝く。
ドアが閉まり、再び静寂が訪れると私は脱力した。
「びっくりした」
くくく、と探偵の笑う声がした。身体が笑いに震えている。やっぱりからかわれていたのか。
「探偵さんもいいかげんに離してください！」
探偵の手をつかみ、引き離そうとするがびくともしない。それどころか、探偵は身体を丸めるようにして余計に強く私を抱きしめてくる。
「僕のところに飛び込んできたのだから、僕のだ！」
「またそんな！」
体重がどんどんかかって。
「ちょ――ッ、探偵さん……！ 重い！」
ははは、と探偵が笑い、急に身を起こした。身体は楽になったが、相変わらず腕は回ったままだ。
後悔先に立たず。やはり和寅さんに救いを求めるべきだったかもしれないと思ったときだった。
「何を探していたのだ？」
静かな声で探偵が囁いた。耳元にぞくりと響く。それだけで顔が紅潮するのがわかった。
「あ、あの、調べたい言葉があって」
「なに？」
「唇――」
と、云ってから慌てて口をつぐんだ。
「……」
「女学生君？」
探偵がその先を促すが、答えられない。
「その……」
「うん」
「唇……」
先ほど見た辞書に書かれていた言葉を懸命に思い出した。
「亡びて歯寒し……です」
「唇亡びて歯寒し？」
ふうんと云うと、探偵はあっさりと私の身体を離した。
急に呼吸が楽になり、慌てて探偵から離れた。本棚とは反対の壁に走り寄って背中をつける。先ほどとはまるで違う感触と温度。探偵の体温が失われて、さらに壁の冷たさに背中が寒くて仕方がないのに、顔も身体も熱い。寒く感じたのは物足りなさのせいだと気づいて、顔が紅潮した。
そんな私を探偵の目が真っ直ぐに見ている。
私は動揺した。思わず視線をそらす。
「も、もう調べましたから」
「ふうん」
「……だから」
「うん」
「その」
探偵が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
長い足で。
私は壁添いに探偵から離れた。――離れているつもりだったが、一部屋分の距離はあっという間に縮まって、目の前に立った彼が楽しそうに笑った。
私の身体は、壁を押さえた腕に挟まれてしまう。
「捕まえた」
「……」
にこにこと、本当に嬉しそうに。
「知りたいなら僕に聞けば良いと、前から云っているぞ」
「……はい」
「唇を盗む。――載ってなかっただろう」
やっぱり、と思った。私の記憶を見て、本当に調べたい文字を見てしまったのだ。
「教えてあげよう」
私は首を横に振る。
「いいです。知りたくないです」
「でも僕は教えたい」
「でもいいですから」
――わかる。
直感でわかってしまう。
これは聞いてはいけないことだと。
「本当に―――」
「教えるッ！」
ニッコリ笑った探偵は、ふと視線を窓に向けると、「あ！」と、驚いたように叫んだ。
「え？」
反射的にその視線を追うが早いか、目の前が急に暗くなり、私の唇に探偵のそれが重なった。
それは本当に一瞬のことで。
「こういうことだね」
顔を上げた探偵が笑った。
「――わかった？」
まるで子供のような笑み。イタズラが成功したみたいに。
私は真っ赤になって口を押さえた。
「わかりません！」
探偵の馬鹿馬鹿馬鹿！ なんてことをするんだ！
「あれ？」
探偵はきょとんとした。
「わからなかったか。――なら、もう一回しよう！」
私は飛び上がった。
「わ！ わかりました！ わかりました！！」
「嘘だ」
「本当にわかりましたから！」
「うん」
云っている側から探偵の顔が下がってきて、私の髪を梳き、頬を包む探偵の手の優しさに胸が高鳴った。
逃げなくちゃいけないとわかっているのに、動けない。
早く逃げないと――。
「――――」
そう思うのに。
「探偵さ――」
――なんで目を閉じてしまったのだろう。
先ほどとは違い、優しく重ねられた唇の柔らかさと、起きたばかりで剃っていない髭の感触がちゃんとわかり、頭が混乱して何も考えられなくなる。
息と思考が止まり、自分の鼓動が耳に響く。
長く感じたそれは、実際には短かったに違いない。顔をそっと離した探偵の暖かい吐息が唇に触れた。
「これは」
唇と唇を軽く触れさせながら、探偵が囁いた。
「おはようのちゅう」
楽しげな彼の声に、私は腰から崩れ落ちた。
了
【キスに関する10のお題 10】
2006.12.16
「京極部屋」に戻る
≪炎帝月帝≫TOP