榎木津×美由紀
『さくらんぼ』
「わ！」
思わず声が華やいだ。
お中元でもらったのだと、和寅さんがお茶と一緒に出してくれたのは桜桃。
ガラスの器に、水滴が表皮と電灯に反射してキラキラと輝く金朱色の果物が盛られていた。
「サクランボだ……」
大好きです、と私が云うと、和寅さんが口角を上げた。
「気をつけてくださいね。先生のことだから種を飛ばしてきますぜ」
ちょうど着替えて寝室から出てきた探偵が、私の隣にどっと腰を下ろした。
「そんなことするわけがないだろ、バカモノ！」
「そりゃあ安心しました」
和寅さんは肩を揺らして笑うと、買い物に行ってくると事務所を出て行ってしまう。
探偵は無造作に一粒つかんで口に運ぶと、種をプ――と吐き出して、空き皿の中へと見事に入れた。おそらく、今の調子で益田さんがいたら彼にぶつけたりするのだろう。本当にしょうがない人だ。
探偵は指揮棒を振るみたいに、桜桃のくきを指先で動かした。
「そのうち誰かが種なしの葡萄や柿や桜桃を作るだろうね。食べるのが面倒だ」
「そんなことできますか？」
「できるよ。面倒だと思うのは僕だけじゃない」
確かに種がなければ食べやすいだろうが、種もないのにどうやって次に繋げるのだろう？
私も桜桃に手を伸ばす。一粒が大きい。かじるとキュッと音がして、瑞々しい果汁が口の中に広がった。ものすごく甘い。
「美味しーい……」
じたばたと、思わず身体を揺らしたくなる。
桜桃はもともと庶民の手に気軽に入る果物ではないが、こんなに美味しい桜桃を食べたのは初めてだ。きっと高いんだろうな、と思う。
確かに種を出すのは面倒……というか、男の人の前で口から出すのは少し恥ずかしい。
二つ三つ食べたとき、
「サクランボ、探偵さんはあまり好きじゃないんですか？」
私は探偵を見た。
探偵は最初のひとつを食べたきり、次に手を出そうとしないのだ。目の前に置かれた空き皿には、先ほどの種が一粒しか入っていなかった。
探偵は無言のまま口の中で舌をもごもごと動かしている。歯に詰まったのだろうか。楊枝でも持ってこようかと立ち上がった私の背中に、明るい声がかかった。
「女学生君！」
ほら、と。
どこか誇らしげに、探偵は私に向けて楽しげに舌を出した。
最初は意味がわからなかったが、良く見れば舌の上にちょこんと桜桃のくきが結んで乗ってある。
「わあ、すごい！ 舌で結んだんですか？」
うんと頷いて、探偵は結ったくきを口から出して皿に捨てた。
「女学生君も出来る？」
「やってみます」
楽しそうだ。
私はソファーに戻ると、くきだけを口に入れた。頭の中で想像しながら、舌を使って結おうと試みるがなかなかうまくいかない。後もう少し……というところですぐにほどけてしまうのだ。
「……」
探偵の視線が気になって、私は少しだけ彼に背を向けた。
探偵はくすりと笑うと、桜桃を食べはじめた。一粒ごとにプッと種を飛ばし、どれも見事に空皿に入っていく。行儀の悪いことこの上ないが、探偵のそれはなんとも楽しそうで、思わず真似をしたくなるのが危険だ。子供が見たら絶対に真似するだろう。桜桃の数はどんどん減っていき、私の分と思われる量を少し残して、探偵は満足げにソファーの背にもたれた。
「出来そう？」
私は首を横に振ったが。
――あ。
ちょうど丸めた輪の中に先が通った。
出来た！
私は嬉々と振り返り、出来ました！と口にしようとしたときだった。
「これが出来る人はキスが上手いらしい」
と探偵が云った。
「だから、僕は上手なのだッ」
とんでもないことをさらりと口にして、にっこりと笑う。
「してみる？」
私は慌てて首を横に振った。
「気持ちいいよ？」
さらに横に振る。
からかわれているのがわかる。いっそ、意表をついてＯＫと云ってやろうか。きっと驚くに違いない。
いやいや、ダメダメ。冗談にならない。
良く考えたら、キスに上手いも下手もあるのか――？ それに、舌と全然関係ないじゃないか。
だからといって、そんな疑問を口にしたら、試してみるかい？ などと云われかねない。
第一、試すというなら、上手い人と下手な人の両方しないと分からないわけで。
彼が自分で上手いと思っているだけの可能性だってあるのだ。さすがに相手の女性が上手いのかどうかは……分かるだろうけど。
上手いっていうのは、口付けしなれている……ってことだよね。
――ああ、それに。
他の女性と比べられるのはいやだ。
探偵はくすりと笑った。
「出来た？」
私は首を横に振った。
頬が赤くなる。いまさら、そんなことを云われて出来たなどと云えるはずもない。
ふうん、と探偵は云って笑った。
「じゃあ、女学生君はヘタくそなのだなッ」
何が楽しいのか、探偵はニコニコと笑っている。
私は右の拳を口に当て、
「そうですね」
と云った。拳の中に結んだくきを入れると親指で隠して握る。このまま、これを見ないで捨てなくちゃ――。
探偵は急に背もたれから身を起こして、私の顔を覗き込んできた。
思わずギクリとしてしまう。
栗色の髪がさらりと揺れて、明るい鳶色の瞳が真っ直ぐに私を見上げてくる。
「あの……」
――長い睫だ。
「……なんですか」
探偵は、にやりと笑った。
「さっき、出来たー！ って可愛い顔をしていたけど」
「――！」
「そういうことにしておいてあげよう」
ああもう、今ここで口の中に種があったら探偵にプッ――ってしてやるのに！
「……そういうことにしておいてください」
絶対にこの人とはキスしない！
私は探偵を睨んだ。
了
【キスに関する10のお題 03】
2006.12.19
「京極部屋」に戻る
≪炎帝月帝≫TOP