榎木津×美由紀
『愛玩』
「こんにちはー」
カランと事務所の戸が開き、珍しく髪をひとつにまとめた少女が顔を出した。
「わー、美由紀ちゃん、いいところに」
開口一番そう云うと、台所から顔を出した益田龍一は持っていたガラスの器を掲げた。
「さくらんぼをもらったんだよ、食べようー！」
いつもなら明るい笑顔で元気にハイとかワアと返ってくるのに、呉美由紀は表情を凍らせ、事務所の入り口に立ったまま近づいてもこない。
益田の前髪が目を覆うほど伸びたように、初めて出会ったときは顎くらいの位置だった美由紀の髪も来週から夏休みに入ろうという今、ひとつに結べるほどには伸びてきている。
女の子というのは、髪の毛を結ぶだけで印象がちがってくるものだが、美由紀の場合は首が長くて背筋が伸びているからだろう、どこか大人っぽくなる。
あれ？ と益田は瞬き、首をかしげた。
「さくらんぼ嫌いだった？」
「いえ――！」
美由紀は慌てて首を振る。
「えっと、その、好きです」
けど、と続きそうな語尾が小さくなった。
益田はソファーに座る上司、榎木津礼二郎をキッと睨んだ。美由紀がこんな表情をする理由は、この男が原因だとしか思えない。
「……榎木津さん、美由紀ちゃんに何をしたんです」
「何もしてないぞ」
どういう意味だ、と榎木津は益田を睨むと、急かすように自分の膝を叩いた。
「女学生君、何をしているのだ早く来なさい」
美由紀はおずおずと近づいてくると探偵の隣に腰を下ろすが、できるだけ離れるよう端に座っている。心なしか、頬が赤い。
益田は溜め息をついた。おそらく先週、何かあったのだろうと察しはつく。
――本当にもう、何をしたんだこのおっさんは。
先週の土曜日は調査で外出していたので、益田は事務所で何があったのかが分からない。いつものように美由紀が来たということは特に無体なことがあったわけではないみたいだが。
――原因はさくらんぼ……か？
そういえば、先週もお中元でもらっていたな、と益田は伺うように美由紀を見た。よし、ここは明るく笑いを取ろう！ と益田は桜桃のくきをつかんで美由紀の前にぶら下げた。
「美由紀ちゃん知ってる？ このくきを舌だけで結うことが出来ると、キスが上手い証拠なんだって」
美由紀が驚いたように目を見開き、まるで沸騰したかのように顔を赤くした。
「益田さん……！」
美由紀はソファーに沈むと、やだ、と両手で赤くなった顔を覆ってしまう。
「ええ！？」
益田は慌てた。
「あああ……！ 美由紀ちゃん、ごめん、ごめんね？」
十代の女の子には刺激が強すぎたかと反省した次の瞬間、美由紀の言葉に益田は固まった。
「探偵さんと同じこと云ってます」
「――榎木津さん、なんてこと云ってるんですかッ！」
「お前だって云っただろう！ 最初にお前が云ったのだッ」
「あ、――そうだ」
先週、暑中お見舞いでもらった桜桃を見て、そのことを最初に口にしたのは益田だ。
美由紀の様子が変なのはお前のせいだと云わんばかりに、榎木津は桜桃を口に運ぶと種を益田に飛ばしてきた。問答無用の攻撃が額に命中して、益田は仰け反った。
「もう、やめてくださいって。育ちはいいのに行儀悪いなあ」
益田は種が当たった額を擦りながら、ソファーの隅で小さくなっている美由紀に笑んだ。
「気にしないでいいからね。別に榎木津さんに無理やりキスされたとか……」
云って、益田はギクリと身を硬くする。
「ええっと……その、……そんなんじゃないんでしょ？」
美由紀はこくこくと頷く。
益田は心からホッと安堵し、けけけと笑った。
「美由紀ちゃんもやってみたの？」
「……」
シーン、と静まり返り、益田は失言したことを知る。しまった！ と思ったがもう遅い。
口を押さえ、紅潮して泣きそうな美由紀に、
「そ、そっか……」
出来たんだ、と思う。益田はわざと表情を改めて、明るく笑った。
「気にすることないよ、ただの噂だから。――ね？ ほら、さくらんぼ食べて。このままじゃ全部榎木津さんに食べられちゃうよ」
美由紀はこくんと頷き、榎木津の再度の攻撃を見事避けた益田に笑った。
「そうですよね……」
美由紀は吹っ切れたのか、明るく笑った。
「口付けるのに舌なんて関係ないし！」
「……」
「……」
えへ、と笑う美由紀の笑顔は可愛く、益田は穢れた大人である自分が恥ずかしくなってくる。思わず顔が赤くなった。
――うわー。可愛い……。
ニヤけそうになる口を手で覆い、
「う、うん……そうだ、ね」
思わず和む。というか、抱きしめたくなる。
「じゃあ、サクランボ、いただきますっ」
ぱく、と桜桃を口にして嬉しそうな美由紀を見ているだけで幸せな気分になってしまう。
「このまま穢れないでいてね。美由紀ちゃん……！」
と、益田も桜桃に手を伸ばす。
「え？」
美由紀がきょとんと首をかしげた。
だが。
思うだけでは足りぬ男がいた。
「女学生君ッ」
「うわッ！」
がばっ、と榎木津が覆いかぶさるように美由紀に抱きついたのだ。
益田は思わず口にしたサクランボを吹いてしまう。
「榎木津さん――！！？」
美由紀もまた何が起こったのかわからず、自分の頭を抱きかかえている男の腕の中で暴れている。
「探偵さん――！？ な！ な！？ なんですか！！」
「可愛いすぎるぞ！」
「ちょ！ 放してください！」
「榎木津さん！ 美由紀ちゃんに何してんスか―――っ！！」
「うるさいぞ、このマスカマオロカッ！」
「そりゃ、可愛いから僕だって抱きしめたくなる気持ちは分かりますけどネ！」
「な！ 益田さんまで何云っているんですか！」
美由紀の悲鳴に益田はハッとした。
「ああ！ そうだよねごめん！ ――榎木津さん、離れてください！！ 通報しますよ！ 美由紀ちゃん嫌がっているじゃないですか！」
益田は榎木津を美由紀から引き離そうとするが、一蹴されて床に転がった。
「恋路を邪魔する奴は神に蹴られて死ぬと相場が決まっているのだッ！」
「うわあ……！ 和寅さーん！ 警察に電話ーッ！」
「ガッテンでやんす！」
「えええ！？」
驚いたのは加害者ではなく被害者だ。確かに何とかして欲しい状況ではあるが、本当に警察を呼びかねない状況に、美由紀のほうが慌てている。
「ちょ――まって、和寅さん……！ 探偵さんも離れて！」
「女学生君」
榎木津は美由紀を離したが、依然ソファーに押し倒したまま、上から覆うようにしてにっこりと笑った。
「そのうち、ちゃんと教えてあげるからね」
「な――なにをですか！？」
「うん」
いろいろと、と榎木津が云う。
「すべてを、ね」
「……？」
美由紀はわけがわからないという顔で眉を寄せている。
榎木津が破顔した。
「今は分からなくてもいいのだ」
だが、榎木津や益田たちには分かっていて自分だけが知らずにいることが不安なのか、美由紀は今すぐ聴きたそうな顔をしている。
ああもう、そんな可愛い顔して、と益田は榎木津に手を引かれて身を起こしている美由紀を見つめた。
結局、榎木津は美由紀を可愛い可愛いと散々振り回しているが、大切に扱っていることだけは益田も否定できない。
愛しい少女を慈しむように――。
美由紀を見つめる榎木津の優しい瞳にドキリとすることがある。
――自然と大人になっていくのを待っているのだろうか？
榎木津は美由紀の手を握ったまま、にっこりと笑った。
「僕がそのうち実践でね！」
「和寅さん！ 通報して――――ッ！」
益田は叫んだ。
了
【古風気味な百の題目／013】
2006.12.19
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