榎木津×美由紀
『誓う』
「探偵さん、起きてください！」
探偵さん、と何度も繰り返して私は彼の身体をゆすった。
「探偵さん！」
「眠い」
「眠いのはわかっています」
「なら寝かせてよ」
十月も半ばを過ぎた日曜日の朝。私だって彼を寝かせておいてあげたいし、こうやって無理に起こすこともしたくない。
だが、九月十日から東京国立美術館で行われているメキシコ美術展が二十日に終わってしまう。行ける日は今日が最後なのだ。
「探偵さんが今日行くって云ったんじゃないですか！」
「最後の日曜だし混んでいるからイヤだ」
布団を頭から被って丸くなってしまう。まるでカタツムリみたい。だから開館に合わせて朝一番に行こうって話だったのに。
「君も君だ。いつもは起こせと云っても僕を起こさないくせに、どうして今日は起こすのだ」
「いつもは起こさないと怒るじゃないですか」
本当は先週行くはずだったが、急に仕事の依頼が入って行けなくなってしまったのだ。探偵は仕事よりもデートを優先しようとしたが、そんなのは嬉しくないし楽しめないからいやだと断ったのは私だった。
「だから先週行こうって云ったのに……」
探偵はぶつぶつと文句を云う。本当にこういうところは子供だ。
いつもならデートの約束をしたら楽しみに待っていてくれるのに、今日に限って探偵のテンションは低い。
メキシコ展に行くだけなら私は別に一人で行ってもいいのだ。今だって「じゃあ、私一人で行ってきます」と立ち上がりたい。だが、実際に一人で行けば、あとで「なぜ誘わなかったのだ！」と怒るだろう。自分で行きたくないと云うくせにそんな理不尽な話があってたまるものか。それに――。
彼と行けるからこそ意味があるのに。
「探偵さん……！」
「イヤだ、眠たい」
私は溜め息をつく。もし私が女じゃなければ、益田さんや和寅さんにするみたいに「しつこい！」と一蹴されて終わりなのかもしれない。
私はベッドの端に腰を下ろすと、カタツムリを背に身体をもたれた。ほんのりと暖かく、朝日に照らされた室内をぼうっと見る。
ちぇ、と思った。
――楽しみにしてたのにな。
私がじっとしたまま黙っているのが気になるのか、カタツムリがもそりと動いた。
「女学生君」
「なんですか」
「……女学生君」
「……なんですか」
重いのだろうか、と身体を離して探偵を見ると、布団から顔が覗いている。長い睫の下で、綺麗な鳶色の瞳が伺うように私を見ていた。
ぷ、と私は笑ってしまう。
「なんですか？」
「一緒に眠ろうか」
「いやです」
即答。
「……おはようのチュウ」
「しません」
「……」
探偵はまた布団にもぐった。
「じゃあ起きない」
拗ねたような物言い。カタツムリは微動だにせず、あとはシンと静まり返る。
――まったくもう、すぐにこれだ。
甘やかして、そんなことを習慣化させるわけにはいかない。
布団を剥ぎ取って無理やり起こしてやろうか、と思う。私は立ち上がって布団をつかむが、意固地にカタツムリになっている探偵を見ているとそこまでする気にはなれず、音には出さず溜め息をついた。
「わかりました」
私は布団から手を離した。
「じゃあ、ゆっくり寝ていてください」
探偵の頭があるあたりをそっと撫でてから、私は踵を返したが、すぐにスカートの裾を引かれて足を止めた。
布団の中から白い腕が一本伸びていた。
「怒った？」
殻の中から声がする。まるで、叱られた子供が母親の機嫌を伺うよう。私の機嫌が悪くなると思うのなら、さっさと起きればいいのに。
私が黙ったままでいると、むくりと殻の中から上半身が現れた。しょんぼりと肩を落として、私を見上げる。
「怒ったのか」
栗色の髪が四方に跳ねて寝癖がすごい。
怒っています、と云ってやろうかと思ったが、私は小さく溜め息をついた。
「怒っていません」
「本当に？」
「本当に」
そう、本当に怒ってはいない。ただ残念なだけだ。
「一人で行くのか」
「行きませんよ。起きたら、今日はちがうところに連れて行ってくださいね」
「……うん」
探偵が行きたくないのは眠いから――ではなく別の理由があるのだ。おそらく和寅さんが云っていた、昨日、私が帰ってからかかってきたという実家からの電話と関係あるのだろう。
よりによってなんで明日なんだ――とか、馬鹿な一族が全員がそろってメキシコなど恥ずかしいじゃないか――とかなんとか文句を云っていたらしいから、なんとなくどんな電話が来たのかは想像がつく。別に、家族で見てもいいと思うんだけどな。
探偵が眉を寄せているので、私は苦笑した。本当に怒っていないのだと伝えたくて、
「本当にまだ寝ていていいですから」
身を屈めると探偵の前髪の生え際あたりに口付けた。おやすみなさいと囁いて離れる。
探偵は私のスカートを握ったまま、精悍な顔で真っ直ぐに私を見上げた。
「……今度、連れて行く」
「は？」
「メキシコ展」
「もういいですって、本当に」
私は笑むが、探偵は真剣だ。
「きっと十年後くらいにまたやるだろうから、そのときは絶対に連れて行く」
「十年後？」
「二十年後かもしれないが」
「……三十年後かもしれませんよ？」
「四十年後かもしれない」
「私、おばあちゃんになっちゃいますね」
「でも一緒に行く」
「――」
「毎日行く」
私は驚いて、でも笑ってしまう。
「……ありがとうございます。楽しみにしていますね」
それは本当に楽しみな約束だ。
どうしよう、嬉しくて仕方がない。
――一緒に行く。
十年後も二十年後も――四十年後も一緒にいると――。
そう云ってくれる言葉が嬉しくて、私がくすくすと笑っていると、探偵は真面目な顔で握っているスカートの裾を引いた。
「冗談じゃないぞ」
「はい」
私は目を細めてちゃんと頷くが、やっぱり嬉しくてくすくすと笑ってしまう。探偵は何か云いたげな顔をして、さらに強くスカートの裾を引いた。
「うわっ」
私はバランスを崩してベッドに倒れこんだ。探偵を押し倒すような形になって、焦ってしまう。
「すみません！」
慌てて離れようとするが、探偵はそのまま私を抱え込んだ。ぎゅ、と音がしそうなくらい強く抱きしめられて、先ほど私が探偵に口付けたのと同じところに強く口付けられた。
「探偵さん……！」
探偵はバッと頭を離すと、突然うわはははと笑った。
「今日はずっと寝ていようか。お昼寝ごろごろだ」
私を抱いたまま、その言葉通りに揺り籠――よりは少し乱暴に身体を揺らした。
「今は朝です！」
「じゃあ朝からごろごろだ」
「うわっ」
ごろん、と探偵は私を抱いたままベッドの上で横転した。ベッドの端に行っては今度は逆に。
何事！？
「ちょ――！ 探偵さん！」
「うん」
「うんじゃなくて、離してください！」
「うん」
回るのをやめると、ふふふと楽しそうに笑った。
「お昼寝ごろんごろんだッ」
探偵は足をばたばたと上下に動かす。
「楽しいなあ」
「私は楽しくありません！」
なんだかくらくらする。探偵の匂いや、腕の強さや、突然の行動に。
そう、いつも突然で。
子供みたいに。
――もう何を考えているの！ この人！！
キッと睨みつけるように探偵を見上げた。今度こそ本当に私は怒っていたのだけれど、探偵からは満面の笑みが返ってきた。
「今日は独り占めの日だッ！ そう決めた。今決めたッ！」
探偵の叫びに、私は目を丸くしてしまう。
「は！？」
「今日は僕が女学生君を独り占めする日」
「……」
私はその言葉を脳裏で繰り返す。
探偵が、私を独り占め？
――ああ、それは。
胸に沸き起こった感情は呆れに近かった。でも、いつだって愛しさがそれに勝ってしまうのだ。
――本当に。
内側から笑いが漏れてきて、私は声を出して笑ってしまう。ふ――と身体の力が抜けた。
抵抗が止んだことに探偵も気づいて腕の力を弱める。もう逃げないとわかったのだろう。
「探偵さん」
私は笑ったまま探偵の背中に腕を回した。
「探偵さん」
「うん」
探偵もくすりと笑った。
「なに？」
「それは良い日ですね」
「――」
「良い日です！」
私がはっきりと云うと、探偵は一瞬目を丸くしてから子供みたいに嬉しそうに笑った。
「うん」
探偵は私の額に優しく口付けて囁いた。
「良い日だ」
――だって。
独り占めの日。
それは、私にとっても探偵を独り占めできる日なのだから。
了
【キスに関する10のお題／02】
2007.01.17
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