榎木津×美由紀
※原作『邪魅の雫』後のシリアス。未読の方はご注意ください。
『軋み』
金曜の夕方、いつものように寝室で横になっていると、事務所の電話が鳴り、しばらくして安和寅吉が顔を出した。
「先生、お電話ですよ」
実家かと思えば、京極堂からだという。なんのようだ、と問えば、直接出てくれと寅吉は戸を大きく開いた。
珍しい、と思った。
京極と直接電話で話すことはあまりないからだ。こちらから出向くときはいちいち伝えないし、向こうから来てほしいときや用事があれば寅吉に伝言を頼めば済む。
外れた受話器を取って、なんだと云えば、京極の低い声がたった一言、
「榎さん、申し訳ない」
と云った。
関口巽ならともかく、中禅寺秋彦の言葉とも思えない。
「なんのことだ」
「美由紀君に見られてしまった」
やはりまったく要領を得ない。
「お前の言葉らしくないぞ。意味がわからん」
「写真だ」
「写真？」
学生の時の取り巻きたちに囲まれている写真だろうか。それは確かにまずい、と思う。誤解――ではなく、すべて事実だが、美由紀が見れば確実に呆れる光景には違いない。いや、まだそれを見て焼きもちを焼くというのなら可愛げがある。だが、彼女のことだから素直にすごいですねえと関心して笑うのだろう。
「神崎宏美」
京極の言葉に、思考が止まった。
「彼女の写真だ」
電話から聞こえてくる声には、自分の迂闊さを呪うような響きがあった。
「千鶴子に見られてしまって」
説明したのだろう。僕が付き合っていた女性だと。そこに――美由紀がいたのか。
「いることに気づかなかったのだ。千鶴子に慌てて止められたのだが――」
すでに遅かったと言葉にはしないが云いたいことはわかった。
本当に申し訳ない、と京極が云う。
「……京極、お前らしくないミスだな」
「ああ」
――いや、それは京極のミスじゃない。
彼女と最後に別れた浜辺が脳裏に浮かぶ。
砂浜に倒れた肢体。
細い肩。
すでに終わったことだ。
今までに付き合った女性がひとりだけというわけでもなく、修道士のように禁欲的な生活を送っていたわけでもない。
きっと美由紀はいつもと変わらずにここへと訪れるはずだ。
――本当に？
胸元を握る。
いつものように、いつもと変わらずに、笑顔で来るに違いない。
本当にそうなのか？
変わらずにいるものなど一つもないと、思い知ったばかりじゃないか。
なぜ、京極はわざわざ電話をかけてきた――？
呉美由紀は。
彼女は、京極の言葉にどんな顔をしたのだろう――。
※
――なんであんなものを後生大事に持っているのだ馬鹿本屋め。
事務所の扉を睨んで、イライラと机を指で叩く。
京極にしたら理不尽な怒りに違いない。それでも苛立ちがおさまらないのは、来るはずの少女が来ないからだ。
京極から電話が掛かってきたのは先週の金曜日だ。翌日の土曜に美由紀は事務所に訪れず、日曜日も顔を出すことなく、そして今日――。
「和寅、珈琲！」
はいはい今出来ましたよう、と寅吉はいそいそとやってきて机の上に珈琲を置いた。空になったお盆を胸の前で抱えて大きな溜め息をつく。
「来ませんねえ」
誰が、とは云わない。時計と事務所の扉を何度も見て、問いたげに僕を見る。
「先週も来ませんでしたし……」
まるで僕が何かしてしまったかのように。
「もう４時ですぜ？」
「知らないよ」
「何かあったんですかねえ」
「……だから知らないと云っている」
「近頃はバイクや車も増えてきましたし」
「……」
「事故にあったとか……」
「……」
「あッ！」
寅吉は急に言葉を切った。
「いや、でも」
ひどく慌てている。
「まさか……」
「なんだ」
はっきり云えと睨めば、寅吉は太い眉をハノ字にして不安そうな顔になる。そして何を思ったのか、急にうろたえ始めた。
「この前の事件みたいなことになっているとか……」
「この前？ どの前だ。バラバラか目潰しか」
「大磯のですよう」
「――」
今まで腹の奥が締め付けられるような苛立ちが、急に胸から全身に広がって、重い塊を飲んでしまったかのような感覚がした。
思わず立ち上がったとき、電話が鳴った。
ビク、と寅吉が飛び跳ねたが、おそらく自分も同じような状態だったに違いない。
時間が急に早く流れているような感覚。
聴覚だけが過敏になって、細かな雑音を拾う。
電話は鳴り続けている。
耳の奥で時計の針がグルグルと回り、天井が迫って来るような圧迫感を覚えた。
いつもならすぐに受話器を取る寅吉が、その場所から一歩も動けず、僕を見て泣きそうな顔になった。
「先生ぇ」
「情けない声を出すな、馬鹿者」
寅吉を押しのけ、代わりに受話器をとった。
耳に受話器を当て、相手が何か云い出すのを待つが、相手は無言のまま。
胸が重い。胃が痛くなる。
美由紀は――。
無事なのか？
「用があるのなら早く云え！ 僕は忙しいのだッ」
「あ――、ご、ごめんなさい！」
慌てた少女の声に、全身の毛穴が広がって、身体中の血が一気に蒸発したような気がした。体温が急激に上がる。
「失礼しました――」
美由紀が慌てて受話器を切ろうとする気配を察して、僕は慌てた。
「ま――！」
切るな、と叫んだ。
ばくばくと心臓が高鳴った。目を閉じて、その声が届いていることを祈っていると、受話器は確かにまだ相手とつながっていることを意味する静寂が続く。
「……探偵さん？」
戸惑うような、静かなささやきが聞こえてきた。その声にひどくホッとして、電話が置いてある棚に手をかけた。
手がひどく汗ばんでいる。
「すみません、忙しい時に」
申し訳なさそうな声に、こっちの方が慌ててしまった。
「いや――」
忙しくはないのだ。――もう。
「今、どこにいる」
「あ――あの、寮に……」
「嘘をついても無駄だぞ。電車の音が聞こえる」
それこそ嘘だったが、美由紀は笑い返して来なかった。
「……神田の駅に」
「そこにいなさい」
「え？」
「今から行く。――動くなよ。一歩もだ」
「え――？」
伺うようにしていた寅吉に受話器を渡すと、そのまま事務所を飛び出した。
ビルの階段を駆け下り、歩道を１０メートルも進まないうちに駆け足になっていた。
泣いているような声ではなかった。怯えているようでもない。いつもの、少し戸惑うような静かな声。今から行っても大丈夫ですか、と訊いてくる声と同じだった。
変わっていない。
それなのに、一秒でも遅れたら、何かを失うような気がした。
すれ違う人たちが驚いたように道を開けていく。おそらく五分も走ってはないだろう。神田駅につき、待合室のガラス戸を開けると、電話の前に私服を着た少女が立っていた。
呉美由紀は停車場を見たまま、僕が入ってきたことにも気づいていない。
彼女の名を呼びたかったが、呼吸が乱れて言葉にならない。意識を向けると自然と彼女の記憶が視えてしまう。
やはり、と思った。
京極堂の玄関先で掃除をしている中禅寺千鶴子の姿が見えた。
挨拶を交わし、彼女に続いて母屋に入る。綺麗に整列してある本に視線を走らせ、猫や庭を見ながら廊下を進んでいると、ふと足元に裏返しの写真が落ちていることに気づく。
美由紀はそれを拾った。
一見、女優のブロマイドを思わせる写真。それを千鶴子に渡すと、彼女は首をかしげてそれを夫に届けた。
――ただ、それだけ。
写真を見たほかは、美由紀の記憶に変わりはなかった。
おそらく、京極の言葉を聞かなければ意識の底に沈んでいた記憶だろう。雑誌に出ているモデルを見るのと同じだ。
入り口を立ち塞いだままの男に待合室がかすかにざわめき、その声で初めて振り返った少女は、驚いたように目を見張った。
「探偵さん……！？」
美由紀は入り口にいる僕のところへと近づいてくる。どうして、と口が動く。
「事務所にいたんですよね？」
「電話」
「あ――すみませんでした。いつも和寅さんや益田さんが出るから、戸惑ってしまって」
何のことかと怪訝に思えば、無言だったことを云っているらしい。
「忙しいときにすみませんでした」
ペコリと美由紀は頭を下げる。
「忙しくはないよ」
「でも……」
美由紀は混乱した様子で僕を見上げた。
黙ったままでいると、美由紀は軽く小首をかしげ、待ってくださいね、と待合室の奥にある売店へと走り、瓶の牛乳を一本買ってきた。はい、と差し出されたので、そのまま受け取り一気に飲んだ。
ふう、と大きく息を吐くと、ちらりと美由紀が笑った。
電車が来たのか、待合室にいた者たちが次々と出て行く。最後には僕たち二人だけになってしまった。
立ったままでいるのもおかしいので、瓶を握ったまま待合室の一番後ろの椅子に座る。
「本当に大丈夫ですか？」
美由紀が隣に腰を下ろし、ハンカチで僕の額の汗を拭った。本当に心配そうな顔をしている。
「すごい汗ですよ」
今度は鞄の中からノートを取り出して僕に向かって仰いだ。
「そんなに急いで来なくてもちゃんと待っていたのに」
美由紀はいつもと変わらない。
「……どこに行っていたのだ」
「え？」
美由紀の顔をじっと見ると、一瞬戸惑った表情をしたが、小さく笑い返してきた。
「夏休みに実家へノートを忘れてしまって、それを取りに。今日はそのまま寮に帰るつもりだったんですけど……」
美由紀は小さく笑う。
「神田で降りてしまいました。癖になっているみたい」
「……そうか」
僕が静かに笑うと、美由紀はノートを扇ぐのを止め、急に真面目な顔になった。
「和寅さんがすごく心配していたんですけど、また何かあったんですか」
去年から、世間では十代の若者が殺される事件が頻発している。その多くが美由紀と同年代の少女だ。
「先週、君が来なかったからだろう」
「あ……、ああ」
美由紀は申し訳なさそうな――困ったような顔を一瞬だけ浮かべて俯いた。
「先週は……」
美由紀の記憶に何度もあの写真が重なる。
「見たんだろう」
「――」
美由紀が息を止めた。一瞬、泣くのだろうかと思ったが、美由紀は正面を向いて、笑みさえ浮かべた。
「綺麗な人ですね」
静かな声。
本心でそう思っているのがわかる。
「うん」
僕が同意すると、美由紀は軽く開いた口を閉じて、ゆっくりと笑った。口角を上げて、いつもより多く瞬いて。
視線は前に向けたまま、
「……いいな」
美由紀がつぶやいた。
「探偵さんの若いころを知っていて」
「僕は今でも若い」
「……」
美由紀はくすりと笑った。
「はい」
美由紀が彼女のことを知りたいと思っているのがわかったから、正直に口にした。
「綺麗な人だったよ」
だが、過ぎた時間は彼女の本質すら過去形にしてしまった。
綺麗で――。
憐れで。
脆かった。
はじめて神崎宏美と出会ったのがどこだったのか、記憶にない。馬術倶楽部であったのかもしれないし、大学だったのかもしれない。昔から名前も顔も覚えないから、どこかで会っていたとしても記憶していない。
ただ、僕の生まれを気にすることなく、普通の男となんら変わらずに接してきた少女は彼女が初めてだった。はっきりと物を云い、真っ直ぐな視線で僕を見て笑う。それはひどく新鮮で、ひどく心地よかった。でも、それが男と対等であろうとする彼女の心がもたらすものであることに、僕は気づいてもいたのだ。
何もかもを得ている者への反発。そして憧れ。
彼女は意識の中で人に劣ることを恐れ、すべての者と対等であることを求めた。彼女が抱くそれは、孤独がもたらした劣等感だったのだろうか。性格以前に、僕には持ちようがないし、わからない感情だ。
弱いからこそ、強がらずにはいられなかった。けれど、それを悟られることを恐れてもいたから黙っていた。
敗者であることを忌み、勝者であり続けなければ彼女は自我を保てなかったのか。いや、決して勝つ必要はなく、ただ負けさえしなければよかったのだろう。
孤独だった彼女が望んでいたのは、人が平等で同等な世界。それは安定しているようでいて、ひどく脆い世界だ。人は誰もがそう願いながら、自分は特別であり、世界と同等で、世界の中心にいると思うもの。
人は、人を見下すことで我を保つ。
彼女のことが好きだった。
だが、それは愛情ではないこともわかっていた。
なにがいけなかったのだろう。
誰が悪いのだろう。
誰が悪かったのだろう。
彼女の中で、雫が落ちた。
それは不安という泉だったのか。世界が壊されそうな現実を前に、均衡は崩れた。
負けるわけにはいかない。
劣るわけにはいかない。
水面に落ちた雫は跳ねて、出来た波は広がり続ける。
勝ち負けじゃない――。
彼女に伝えた言葉が耳に残る。
云わなくて済むものなら、云わずにいたかった。普通に挨拶をして、それで終わりにしたかった。
善し悪しでもない――。
もしかして僕は止められると思ったのだろうか。
すでに事件は起こっていて、彼女が関係していると思った。
何のために彼女を探していたのだろう。いまさら止められると思っていたのか。
彼女が大磯にいないことを願っていた。
自分の直感が外れることを。
もっと早くに落としていれば、あんな悲劇は起きなかったに違いない。それは僕の驕りなのかもしれない。きっとそうなのだろう。
それでも、やはり云いたくなかった。
僕は君が嫌いだ――。
結局、僕の最後の一言が彼女の憑き物を落とし、彼女の世界はそこで終わった。
彼女は気づくだろうか。たった一粒の砂にとって砂漠は世界だが、世界にとってたった一粒の砂などあってもなくてもかわらないのだと。
そのことに早く気づかせるべきだった。
動物であれ植物であれ人間であれ、僕は一生懸命に生きるものが好きだ。それは、生きることに貪欲であることを意味する。
僕は彼女が好きだった。
独りで懸命に生きていた彼女が。
「あの写真は十年前のものだ」
美由紀が緊張したのがわかる。
わざわざ彼女に云う必要があるのだろうか。本当は聞きたくないに違いない。
「この前……、大磯で会った」
美由紀は黙ったまま俯いている。
なんで彼女に説明しているのだろう。
大磯の事件が終わって、美由紀に会ったときも何も云わなかったし、何も訊かれなかった。ただ、お疲れさまでした、と笑う彼女にホッとした。
――ああ。
そうか。
あの笑顔を失いたくないのだ。
お帰りなさいと云ってくれる、存在を。
僕は僕だと認めてくれる少女を。
「もう終わったよ」
ずっと前に終わっていて、面倒で放っておいたそれを、今度こそ本当に終わらせてきた。
美由紀の横顔を見つめるが変化はない。考え込むように一点を見つめ、軽く伏せた睫が、瞬くたびに動く。
切りそろえられた前髪。横髪が頬にかかって、綺麗な耳が覗く。
鼻筋から口元、顎にかけて綺麗な曲線を描く彼女の横顔が好きだ。そして、いつも僕を真っ直ぐに見つめてくる瞳が。
笑う顔が。
怒る顔が。
僕に向けられるすべてが愛しい。
美由紀は今なにを考えているのだろう。
僕の言葉は、届いているのだろうか。
「終わったよ」
負けることを恐れた女が犯した罪。
大磯の事件に限らず、僕の側にいることが美由紀にとっても危険だということを思い知らされた。今回、彼女がターゲットにならなかったのは、まだ十四歳という年齢だったからに過ぎない。僕の側にいる限り、美由紀が危ない目にあう可能性は高くなっていくのだ。
それでも、もう離す事は出来ない。
離したくない。
小父貴が美由紀の存在に気づけば、諸手をあげて喜び、勝手に結婚話を進めてしまうだろう。とりあえず婚約だけさせて、美由紀が卒業をしたらすぐに結婚――ということになってしまうに違いない。
くすりと僕が笑うと、美由紀の視線がはじめて僕の方を見た。
「僕はそれでもいいけどね」
勝手に話が進むのは面白くない。
「……探偵さん？」
美由紀は怪訝そうな顔になった。
僕は笑んで、美由紀の頬に手を伸ばした。指先が頬に触れた。柔らかい餅のよう。そのまま横髪をそっと払って、耳にかける。
もっと彼女がよく見えるように。
「あ、あの、ありがとうございます……？」
礼を云うのもおかしいと思ったのか、美由紀の頬が紅潮する。
はは、と僕は笑った。
「君は可愛いな！」
美由紀は困ったような――怒ったような、判断のつかない表情をした。
この年になって、はじめて本気で欲しいものを見つけた。しかも、すぐ目の前にあるのに簡単には手に入らない。
こんなに可笑しなことがあるだろうか。
この僕が欲しいものを我慢して。
待ち続ける。
今の関係が楽しくて仕方がなかった。
彼女が側にいるだけで面白い。
嬉しい。
ああ、なるほど。
――これか。
木場が女優の写真をいつも持ち歩いている気持ちがわかってしまった。
もしも今度同じようなことがあっても、僕は写真を置いていったりはしないだろう。
「明日は空いている？」
突然の言葉に、美由紀が瞬いた。
「は？」
「明日だ」
「明日……ですか」
「明日も明後日もずっとだ」
「ええ？」
「君が空いている日は全部予約するから」
「予約――？」
「会いにきなさい」
まだわかっていない少女の顔を覗き込む。
「僕に」
美由紀は驚いたように僕を見る。
「僕が会いに行ってもいいけど？」
「――」
とんでもない、と美由紀が首を横に振った。
僕は笑った。
「じゃあ、来る？」
「……」
「会いに」
美由紀は困惑したように僕を見ている。
今までは、僕の機嫌がよくなるから来てくれと、益田や寅吉に頼まれていた。
神様へ礼拝しに来てよ、と。
今度は、ただ会いに。
「君が来ないなら、僕が行く」
美由紀が瞬いた。
「は？」
「学校や寮に――」
「え――」
「君に会いに行く」
「え、ちょ――」
困ります、と美由紀が慌てる。
「じゃあ、女学生君が」
「行きますっ！」
反射的に答え、あ、と美由紀が口を開けた。
僕はニヤリと笑う。
「目立つのは嫌い？」
美由紀は困ったように眉を寄せた。
僕は笑って立ち上がると、美由紀に向かって手を差し出した。
「僕は目立つのが大好きだぞッ」
美由紀はじっとその手を見ていたが、瞬きながら、ふ――と力が抜けたように笑った。
「知っています」
くすりと、少し呆れたように笑う。
美由紀はノートを鞄にしまうと、手を延ばして重ねてきた。
そっと触れた暖かい手。
美由紀は変わらない。
細い指を握って立ち上がらせた。そのまま握った手を見つめていると、美由紀が小首をかしげた。
「探偵さん？」
どうしたんですか、と問うように。
僕は彼女の手を離さず、少しだけ力を入れる。
「……気になった？」
「え？」
なにが、とは云わなくてもわかったのだろう。同じく重ねた手に力が入った。
「……気になりました」
握った手に視線を落として、気になったけど、と美由紀は囁くように云った。
「でも、探偵さんは探偵さんだから」
だから、と。
「――うん」
それでも、一週間かかった。
「僕は僕だからな」
「はい」
美由紀が僕を見上げ、ふわりと笑う。
彼女のこの笑みが好きだ。
過去も今も含めて僕がある。だから、美由紀は変わらない。
――僕の過去のことで彼女が変わることはない。
胸が温かくなっていく。
嬉しくて笑ってしまう。
よかったと、心から思った。
それは僕の身勝手な思いなのかもしれないけれど。
「ありがとう」
手の中のぬくもりが愛しくて仕方がない。繋いでいる手を強く握って、彼女の手の甲にそっと唇を落とした。
「――！」
顔を上げると、驚いて真っ赤になった彼女ににっこりと笑う。
「明日はデエトだッ」
愛しさと苦しさは似ているのかもしれない。胸が軋むように締め付けられる。
だが、焦りはない。
彼女の過去も、未来も。
今はすべて僕のものだから。
了
【古風気味な百の題目／060】
2007.01.21
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