榎木津×美由紀
『もう少しだけ』
駅から探偵事務所に向かう最中、探偵が突然立ち止まったかと思うと、オオ！ と叫ぶから私は驚いてしまう。
「探偵さん――？」
彼の秀麗な容貌を望むには、長身の私でも見上げるしかない。
長い睫の下、探偵は大きな目をさらに大きく開いて前方を見ている。鳶色の瞳に何を映しているのか、私がその視線を追う前に、
「女学生君、にゃんこがこんな寒い日に散歩をしているゾ！」
説明してくれた。
視線の先には黒い猫がいた。探偵の声に驚いたのか、立ち止まったままこちらに顔を向けている。昨年生まれたばかりの猫だろう。身体はまだ一回り小さい。
その猫には見覚えがあった。
「……ミケ？」
私が声をかけると、黒猫はニャアと鳴いた。
「わ、やっぱり」
神田駅から探偵事務所までの通りで見かける猫の何匹かは、姿と名前を覚えている。
「ミケ？」
探偵が不思議そうに云った。
「黒猫なのにミケなのか」
「はい」
私は笑った。
「池田書房の猫ですよ。あそこのおばあちゃん、猫には代々ミケってつけるらしくて――ミケ、おいで」
池田書房は、裏の通りからさらに奥まったところにある。探偵事務所に向かう道をいろいろと変えていく中で見つけた古書屋だった。扱うのは絵本や漫画が多く、店主は小さなお婆ちゃんだ。
ミケは私に近づいてくると、両脚の間をS字を描くように回って頭から尻尾の先まで甘えるように摺り寄せてきた。腰を下ろしてミケの身体を撫でると、ミケはミャアと鳴いてよりいっそう強く身体を寄せてくる。
細い身体が寒さに震えていた。
「どうしたの、おまえ」
この冬空に散歩ということはないだろう。いつもはつけている首の赤いリボンもない。私は抱き上げようとして、ふと探偵を見上げた。
「探偵さん、この子なら抱かせてもらえますよ」
探偵はきょとんとしたが、云いたいことがわかったのか嬉しそうな顔をする。
猫が好きな探偵だが、その言動から、肝心の猫からは逃げられることが多いのだ。
ミケは人懐っこい上に気性も大人しい。
探偵が私の隣に身を屈めると、ミケは探偵のほうへと移動して、脚に身体を押し付けた。それだけで探偵の頬が紅潮している。なぜか私の方へと確認するように顔を向けるから、どうぞと笑って頷くと、探偵は両手でミケを抱き上げ、そっと胸に抱いた。ミケが気持ち良さそうに鳴くと、探偵はやっぱり私のほうへ向いて、にぱっと大きく口を開けた。目をキラキラとさせて、まるで子供みたいだ。
「にゃんこ」
気持ち、声を抑えているのが可笑しい。
「よかったですね」
探偵はミケの頭を撫でながら、にゃんこにゃんこミケにゃんこと歌いだした。私を見ると、
「ミケ」
嬉しそうに笑う。探偵の視線は再び黒い毛並みに向かい、愛しげにミケの名を何度も囁いた。
子供みたいに笑ったりするくせに、ミケを見る探偵の目がひどく優しくて、探偵に愛される人は、こんな目で見てもらえるのだと思ったら、頬が赤くなってしまう。探偵を見ないようにうつむく。
――どうしよう。
顔が熱くなっていく。
「ミケ〜、可愛いなあ」
私の名前を呼ばれたわけじゃないのに、ドキドキが止まらない。
「女学生君」
「え？」
探偵の声に顔を上げると、鳶色の瞳が真剣に私を見ていた。私は慌ててしまう。
「なんですか」
「どうした」
「……？ どうしたって……？」
どういう意味だろう。
私が瞬くと、探偵は何か云いたそうな顔をしたが、別に何もないのだったらいいのだ、と再びミケを見つめた。
私は手を伸ばしてミケの頭から背を撫でた。
真冬の二月。雪こそ降ってはいないが、寒さに身も凍える季節。古書街の通りは閑散としている。
道の中央で二人が膝を付けて屈んでいても注目する人はいなかったが、ずっとこのままでいるわけにもいかない。
「池田書房に届けましょうか」
私は立ち上がった。
よほど暖かいのか、ミケは探偵の腕の中で丸くなったまま身じろぎもしない。
「柔らかいなあ」
探偵は楽しそうに笑って、ミケを大事そうに抱えたまま立ち上がった。
探偵が池田書房を知っているとは思えなかったので、私が先頭に立って案内をする。
「ここです」
池田書房の前につくと、ミケの耳がピクリと動き、身を起こした。どこに着いたのかわかったのだろう、軽くもがいて探偵の腕の中から地面に飛び降りる。スタ、と見事に着地した猫は、礼を云うかのように一声鳴くと、ものすごい勢いで店の中に入っていった。
「ミケ！？ まあ、どこに行っていたの」
店の奥からお嫁さんの声がして、再びミケが鳴く声を最後に、ガラス戸の閉まる音がした。
静まり返った通りに吹く風は冷たく、なんだか取り残された気分だ。
あまりにもあっけない。
「行っちゃいましたね」
見上げると、探偵は店の一点を見つめたまま「うん」と云った。
その横顔を見上げながら、私は薔薇十字探偵社が一時期動物専門と勘違いされていたことを思い出して笑ってしまう。そのせいで、迷い猫や犬探しの依頼が増えて益田さんが大変だったのだ。
なに、と問うような視線を向けられて、私は目を細めて首を横に振った。
「よかったですね。きっと、今度遊びに来たらまた抱かせてくれますよ」
探偵は自分の手をじっと見て、口角を上げた。
視線を私に向けて、ふふと笑う。なんだろうと思っていたら、いきなり腕を伸ばしてきて、ぐいを引き寄せられた。
「――！？」
は！？ と思う時にはすでに探偵の腕の中。
それはあまりにも不意打ちで、心臓が止まりそうなほど驚いて言葉にならない。
探偵は高笑いをした。
「抱くなら、にゃんこより女学生君の方がいい！」
「ちょ――」
なんでこの人はいつもこう突然なのだろう。
騒げば人を呼ぶから、大きな声を出すわけにもいかない。
「探偵さん……！」
自然と声は低くなった。
押し付けられた胸は広くて、私はすっぽりと納まってしまう。質の良いコートは暖かくて、気持ちが良いほど心地いい。同い年の少女たちとは違う――大人の男性の匂いに胸が高鳴って、眩暈がしそうだった。
「探偵さん！」
暴れてみても、腕の強さに逆らえない。むしろ、抵抗すればするほど強く抱きしめられるだけ。
「離して下さい」
「だめ」
「人が」
「誰もいない」
「だからっ」
人がいるいないの問題ではなく、人に見られたらどうするのかと云いたいのだけれど。
探偵がそんなことを気にするはずもなく。
――今までミケを抱いていた腕が喪失感を覚えたのだろうか。
私よりずっと大人なのに、我がままで甘えん坊で始末におえない。私は大きく息を吐くと、抵抗を諦めて探偵の背中に手を伸ばした。きゅ、と自分から抱きつく。
「もう……」
本当に。
「探偵さんって子供みたいです」
それなのに、時々どきりとするほど大人の姿を見せるから卑怯だ。
いつも、私だけが動揺している。
探偵の胸が動いて、笑う気配がした。腕の力を緩めて、今度は優しく抱いてくれた。
「――うん」
探偵は、私の頭上に顔を埋めて囁いた。
「やっぱり女学生君の方がいい」
吐息が――。
――ああもう。
本当に嫌だ。
どうしよう？
「にゃんこは抱いても抱きしめ返してはくれないからね」
探偵の優しい声。
彼の腕の中はとても暖かくて。
気持ちが良くて。
いつまでもこうしていたいと思うなんて。
了
【恋をしている十の題／03】
2007.02.05
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