榎木津×美由紀
『義理のチョコ』
「わー！ 美由紀ちゃん、いらっしゃーい！」
「こんにちは」
冬の寒さも吹き飛ぶような可愛い笑顔を見せた少女に、益田はソファーから立ち上がって頬を緩めた。
呉美由紀は事務所の扉を静かに閉めると、お邪魔します、と丁寧に頭を下げて挨拶をした。頭を上げるとにっこりと笑い、小首をかしげる。
「今日、探偵さんはいますか」
「うん、寝てるよ。今、起こすね」
「あ！ あの、いえ、そうじゃなくて」
美由紀は慌てて益田を止めた。
「今日は、益田さんと和寅さんに用があるので」
ソファーまでやってくると、持っていた紙袋の中から小さな包みを二つ取り出した。かわいい赤のリボンがついている。
「これ、作ったんですけど」
「あ！」
益田はそれを見た瞬間に飛び上がった。それが何を意味するのかは明らかだ。明日は二月十四日。
「くれるの！？」
うわうわうわ、とつぶやきながら益田は頬を紅潮させて、「和寅さん和寅さん！」と台所に向かって叫んだ。
現れた安和寅吉は美由紀に笑顔でいらっしゃいと挨拶をすると、唇を尖らせて同僚を見た。
「なんですかい」
「美由紀ちゃんが！」
怪訝に瞬いた和寅は、美由紀の手にある包みを見て目と口を丸くした。
「あ」
「ほら、ちゃんと僕たちの分も用意してくれていたんですよ！」
益田は完全に浮かれている。
「チョコレート！」
「私らがもらってもいいんですかい」
「はい」
美由紀はにっこりと笑った。
「一日早いんですけど、よかったらもらってください」
「もちろんだよ！ 嬉しいなあ〜」
「先生が起きてくる前にもらいやしょう」
「で、早く食べないと！」
去年のバレンタインも美由紀の手作りだったが、個人にではなく皆さんで食べてくださいとチョコの詰め合わせを持ってきたために、すべて探偵が独占、結局、二人は一口も食べることができなかったという苦い過去がある。
二人は美由紀に向かって横に一列に並ぶと、床に正座した。そして、同時に頭を下げて両手を差し出した。
「へへー！」
その時代劇かかった仕草に美由紀は目を丸くして笑った。しかし、包みを置く――その寸前に、カチャ、と寝室のドアが開く。
「――ッ！」
「ヒ！」
益田と寅吉が正座したまま飛び上がり、事務所内に沈黙が走った。
「なにをしているのだ」
榎木津礼二郎の声は低い。
益田も寅吉も前かがみになったまま硬直している。
「バレンタインのチョコを渡しているんです」
ガチンと固まる二人とは対照的に、美由紀は二人の手に包みを乗せた。
「おはようございます、探偵さん」
「……おはよう」
榎木津が鼻を鳴らした。
「チョコクッキーだな」
「はい」
美由紀はにっこりと笑った。
「先週、千鶴子さんと雪絵さんと作ったんです」
榎木津は何も云わずに、探偵と書かれた三角錐が置かれた机の椅子に腰を下ろした。長い脚を組むと、寅吉がアイロンをかけた新聞を手にとって読みはじめる。
あれ？ と益田は思う。綺麗にラッピングされた包みをありがたく頂戴し、胸に抱いて立ち上がった。
「榎木津さん……いいんですか？」
「何がだ」
榎木津は新聞に目を落としたままだ。
「これ、僕たちがもらっても」
「だってクッキーじゃないか。いらないよ」
「――あ！ まさか、後で取り上げようなんてつもりじゃ……」
益田は包みを背中へ隠した。
確かにクッキーならば榎木津でも手は出してこないと美由紀は思ったのだろう。実際、美由紀が学校の実習で作ったクッキーを持ってきても榎木津は手をつけない。だが、美由紀が帰った後に必ず一枚は口にしていることを少女は知らないのだ。現に、益田や寅吉がクッキーを全部食べてしまうと「あ！」と怒って拳骨が飛んでくる。
――美由紀ちゃんがいるところで食べてあげればいいのに、と益田は思うが口にはしない。
探偵は新聞を下ろすと、助手を睨んだ。
「なんだ、今取り上げて欲しいのか」
「え！？ いやいやいや」
「女学生君が作ったのだから、ありがたく食べろ！」
ふんと鼻を鳴らして、榎木津の顔は再び新聞に隠れた。
「そりゃあもちろん、ありがたくいただきますけど……」
どこか頭でも打ったのかな、と益田は思う。
「益田さん」
美由紀が笑った。
「気にしないで食べてください」
「あ、うん。――美由紀ちゃん、ありがとう」
「美由紀さん、美味しいですよう」
すでに寅吉は包みを開けて食べている。
「よかった」
はにかむように笑う美由紀は本当に可愛い。
益田がソファーに腰を下ろし、包みのリボンを解いて中のチョコクッキーを口に運ぶと、美由紀はお茶を用意しますねと台所に向かった。
益田は新聞を読んでいる男の様子をそっと伺う。
美由紀がいないうちに榎木津が奪いにくるかもと緊張が走ったが、そんな様子もない。なんとも不気味だ。いつもなら「僕のはどうしたのだ！」と云いだしそうなものなのに。
益田は向かいのソファーに置かれたままの紙袋を見つめた。
あの中にもうひとつ入ってるのだろうか。後で榎木津にあげるつもりなら、お邪魔虫は早めに退散した方がいいかな、と思う。義理とはいえチョコをくれたのだ。それくらいのお礼はしてもいいだろう。
紅茶を運んできた美由紀に礼を云い、クッキーが美味しいと伝えると、美由紀は嬉しそうに笑った。
――ああもう、可愛いなあ。
思わず和む。
美由紀は最初に榎木津のところに紅茶を置いて、次いで益田たちのところへとやってくる。
「また学校の子にチョコ貰ったの？」
益田が首をかしげると、紅茶を置いて、美由紀は困ったように頷く。
「うまく断れなくて」
「今年はいくつくらい？」
「えっと……十五？」
「十五！？」
「十五個ももらったんですかい！」
益田と寅吉の声がそろう。さすがに驚くと、美由紀は手首を振った。
「あの、でも、お礼みたいな感じなので」
「図書室で高いところの本をとってあげたり？」
「あ、はい」
「重そうな教材を持っていたら運ぶのを手伝ってあげたり？」
「ええ？ どうして知っているんですか」
目を丸くしている美由紀に、益田は破顔した。
「わかるよう、それくらい」
寅吉もうんうんと頷く。
そもそも、そんなものは渡すための理由に過ぎないのだ。下級生にとって呉美由紀という少女は憧れのお姉さまであり、それに気づいていないのは当の本人だけなのだから。
美由紀はソファーに座ると、置いてあった紙袋を取ってペコ、と折った。
「あ」
「え？」
折りたたんだ紙袋に、益田の視線は釘付けだ。
「美由紀ちゃん……榎木津さんのは？」
「え――、あ、あの、持ってきていません」
そうだ、と益田は思う。美由紀は最初から今日は自分たちだけに用があると云っていたじゃないか。
「喧嘩した……わけじゃないよね？」
「はい」
美由紀は頷いて、かああ、と頬を染めた。
――え、なに。なんなの。
動揺する益田だったが、寅吉が足を蹴ってくる。
「なんすか、和寅さん」
思わず声を潜めると、寅吉もまた声を低くした。
「馬鹿だな、君は」
「何が馬鹿なんスか」
「今日は何の日だと思っているんだ」
「だから……」
セントバレンタインデイ、と続けようとして、正確には前日であることに気づく。
「あ――」
ああああ、と益田は声を上げた。
「そうか！ そうだよね！」
あははー、と思わず空笑いが漏れた。益田はまるで純情な少年のように顔を赤くしてしまう。対する美由紀の顔も耳まで赤い。
明日はちゃんとしたチョコレートを持ってくるのだろう。榎木津だけに。
――なんだか悔しいなあ。
益田は泣きたくなってくる。
「僕も美由紀ちゃんみたいな可愛い彼女が欲しいよう！」
思わず叫ぶと、益田は美由紀の手作りクッキーを飢えた犬のように口に運んだ。
――明日は、馬に蹴られて死んでも邪魔してやるッ！
そう決意はしたものの、結局、バレンタイン当日は事務所を休んだ益田は、月曜日に事務所へ顔を出して早々、古書肆にも負けぬ険悪な表情の上司に睨みつけられて震え上がった。
「あ、え？」
何で睨まれているのかわからない。
榎木津が朝早くから起きていることも珍しいが、昨日は呉美由紀と楽しい時間をすごしたであろう人物が、なぜこんなに人を呪い殺しそうな顔をしているのか。
どんなチョコを貰ったとか、散々自慢されるのだろうなと鬱々としていただけに、榎木津の様子は不安を感じさせるには十分だった。
――何があったんだ？
ふと、台所の方をみれば、寅吉が手招いている。
益田はとりあえずへらへらと笑って壁に沿って寅吉のほうへと向かった。
よく見れば、榎木津は益田を睨んでいたのではなく、事務所の扉を睨んでいるのだ。
「和寅さん、いったい、どうしちゃったんですかあの人」
美由紀ちゃんと喧嘩したのかな。クククと内心で笑う益田に、寅吉は真剣な顔で声を潜めた。
「昨日、美由紀さんが来なかったんですよう」
「え！？」
「しぃぃ……！ 声が高いっ」
「え、だって……」
あまりにも予想外すぎた。
美由紀の様子を見れば、バレンタイン当日に来る予定だったのはわかる。
「どこかで待ち合わせしていた……とか」
「してませんよう。先々週あたりだったか美由紀さんが私に、先生は十四日は事務所にいるかどうか聞いてきたんですぜ」
「なにか事件や事故に巻き込まれた……ってことは」
「私も昨日、あまりにも遅いから心配になって、夕方にこっそり電話したんです。そしたら、美由紀さんは寮から出ていないって」
「……」
どちらにしろ、学校が始まっている今の時間帯では、いくら探偵が事務所の扉を睨もうと、呉美由紀が姿を見せることはない。
確かにおかしい。おかしいが――。
「まあ、美由紀ちゃんも女の子だから。ほら、ねえ」
益田は頭を掻いて苦笑う。怪訝そうな寅吉に、だから、と云った。
「女の子の日だったのかもしれないし」
「あー」
辛い人は本当に辛いという話は聞く。
「そうか、そうだな。そうなのかな」
寅吉はようやく少しだけホッとした表情になる。
益田は膝を抱えたまま、鞄の中から仕事の予定表を取り出した。さすがに事務所の中に戻って仕事をする勇気はない。
「榎木津さんだって、昨日はたくさんチョコレートをもらっているんでしょ？」
特に深い意味もなく聞いたのだが、いやいやいや、と寅吉は手首を振った。
「ゼロだよ、ゼロ」
「……え？」
益田は目を丸くする。
「ひとつも！？」
こくりと寅吉は頷いた。
「美由紀さんだけ。――順調にもらえていれば」
うわー、と益田は呟いた。
そりゃあ余計に機嫌も悪くなるというものだ。本命だけでなく、誰からも貰っていないとなれば。
榎木津は見た目も良く女性にモテる。だが、この数年、ビルの三階でぐうたらしているだけでは女性との接触も減る一方だ。若いころは女性に囲まれたというが、その女性たちだっていつまでも榎木津を追いかけているわけじゃない。今頃は皆結婚して子供を育てているだろう。美由紀と同じ年齢の子供がいてもおかしくないのだ。
益田は唸った。
いま榎木津に何を云っても機嫌が良くなるとは思えず、呉美由紀の顔を見るまで不機嫌なままだということは今までの経験から想像がついた。
どうしたものかと思ったとき、ギ――と事務所で物音が響く。榎木津が椅子から立ったのだ。台所から顔を出した二人は、寝室に消える榎木津を目で追い、さらにすぐに出てきた男がコートを手に事務所を出て行くのを静かに見送った。
カランカランと鐘が鳴り、しばらくして、益田はハッとする。
「学校まで乗り込んでいくんじゃ……」
「まさか。たぶん、古本屋の先生のところかご実家ですよ」
「だったらいいけど……」
さすがにあの榎木津でも、バレンタインのチョコレートを貰いに学校に乗り込んだりはしないだろう。
しないはずだ。
しないと思う。
……たぶん。
そんな不安も、とりあえず、夕刻になってから榎木津が不機嫌なまま帰宅して安堵に変わった。
美由紀が平日に事務所に訪れることは少ないが、バレンタイン当日に来ることが出来なかったのだから、律儀な少女のことだから謝るにしろ説明しにくるにしろ近いうちにチョコを届けに来るに違いない。
今すぐにでも、こんにちは、とドアを開けて美由紀が姿を見せるはずだ。
――しかし、そんな予想は次々にはずれ、美由紀は土曜日になっても姿を見せなかった。
榎木津はもはや寝室から出てこない。
一週間後の日曜日。今日も来なかったらさすがに電話してみよう、と益田が思ったときだった。
事務所の扉を叩く音がした。
益田は弾けるように顔を上げ、台所にいた寅吉も慌てて出てくる。
ドアに映る影は赤い。――美由紀だ。
「どうぞ！」
益田と寅吉の声が重なった。
カチャリという音がして、ドアが開くまでの時間が妙に長く感じた。
カラン、と鐘が鳴る。
呉美由紀が顔を覗かせ、二人の姿を見るといつもの笑みを浮かべた。
「こんにちは」
「美由紀ちゃん！」
「美由紀さん、いらっしゃい！！」
良かったー！ と二人は地面に崩れそうなくらいに大きな息を吐いて安堵する。
「どうしたの！ 先週来なかったんだって？ 心配したんだよ」
「本当にすみませんでした」
美由紀は申し訳なさげに頭を下げる。
「ああもう、いいのいいの」
益田は美由紀を招いた。
「榎木津さんがまた何かしたんじゃないかって話していたところなんだよ。ね、和寅さん」
「はい」
「え」
美由紀は慌てたように首を振った。
「違います違いますっ、私も来たかったんですけど――」
バン、と大きな音を立てて寝室の扉が開いた。
「探偵さん……」
「榎木津さんッ」
「先生――ッ」
榎木津礼二郎が立っていた。怒って――――は、いない。むしろ、感情を無くしたように無表情なのが益田には怖かった。
「あ、あの、榎木津さん」
「うるさいマスカマ」
美由紀をじっと見つめた榎木津は、一瞬だけ眉をひそめると、何か云いたげに口を開くが、結局は言葉にならず、
「もういいのか」
とだけ口にした。
なんのことだろう、と美由紀を見れば、少女は静かに微笑んでいる。
「はい」
「……美由紀ちゃん？」
説明を求める益田の視線に、美由紀はインフルエンザだった、と云った。
「インフルエンザ……」
「ただの風邪かと思ったんですけど、土曜日の夜から急に熱が出て。タイミングが悪いですよね」
ちょうどいま全国の学校で流行っていると、新聞やラジオでも連日その話題ばかりだ。
榎木津が近づいてきて、美由紀の前に立つ。
「探偵さん」
美由紀は持っていた小さな紙袋をそのまま差し出した。
「一週間遅れなんですけど、貰ってください」
榎木津はまっすぐに美由紀を見つめ、紙袋ではなく、美由紀の顔に手を伸ばした。
額に手を当てる。
「熱は」
「もう下がりました」
「……心配した」
「電話も出来なくてごめんなさい」
「別の奴にあげたのかと思った」
「え？」
美由紀は瞬き、驚いたように云った。
「まさか！ 探偵さんだけです」
美由紀が笑う。
ああ、と益田は思った。
彼女の笑みが、自分たちに向けられる笑みとは違うことに気づいてしまったから。
嬉しくても。
楽しくても。
ただひとりにだけ見せる顔。
――すごいよ、美由紀ちゃん。
榎木津礼二郎にあんな顔をさせるのだから。
益田から見れば、美由紀が誰を好きであるのかなど一目でわかるのに、榎木津には自分の言動ほどには美由紀が自分を好いてくれているという自信がないというのがなんとも可笑しい。
榎木津が袋を受け取ると、美由紀の頬が照れたようにうっすらと紅くなる。
「開けてみてください。溶けてないといいんですけど」
「別に溶けていてもいいよ」
榎木津は、今年初めて貰う本命チョコに心から嬉しそうに笑った。
「――和寅、珈琲！」
「はいはい、ただいま入れますよう」
嬉しそうに寅吉が答える。
益田も笑って、
「和寅さん、僕も手伝います」
寅吉に続く。
ふと振り返ると、榎木津が身を屈めて美由紀に何かを囁いている。
幸せそうに破顔する男と、目を細めて嬉しそうに笑う少女。
それは見ているだけで幸せな光景で。
――ちぇ。
羨ましくて。
そして、少しだけ悔しくなってしまった。
了
【恋をしている十の題／06】
2007.02.14
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