榎木津×美由紀
『悪態』
日曜日の昼、中野の京極堂へ来ると店先には骨休めの札が掛かっていた。雨の日ならばともかく、今は日傘が必要なくらいの天気だというのに。
「商売する気がないのかあいつは」
呆れたように呟く。京極堂の主が聞いたら「貴方だけには云われたくない」と云うに違いない。
いつもなら鍵の開いた母屋に勝手に入るが、かすかな水音に気づいて庭に回ると、店の主が釜を洗っていた。流しっぱなしの水の周囲に小さな虹が出来ている。
「うわははは！ また焦がしたのか！」
「榎さん」
京極が顔を上げた。まずいものを見られた、という顔をしている。この男は、妻がいないとき自分でご飯を作っていつも釜を焦がすのだ。
「来てやったぞ！」
「呼んでいませんよ」
京極は憮然と呟くと、再び釜を相手に格闘し始めた。
縁側で飼い猫の石榴がニャアと鳴いた。
「おお、にゃんこ、見学しているのか！」
石榴はニャアと鳴くと尻尾を振って庭先に下りた。
僕は笑い、猫と入れ替わるように縁側から座敷へと上がった。風通しの良い家だから、晴れている日は昼寝には最適だ。いつもの位置でごろりと横になり目を瞑る。
僕が勝手に振舞っても京極は何も云わない。あいつが文句を云うとしたら、襖をうるさく開けたときくらいだ。僕は勝手に寝て、勝手に起きて、勝手に帰る。時々ご飯を食べさせてもらうこともある。飼い猫というのはこんなものかもしれないと思った。もっとも、僕の場合はふらりと立ち寄る野良猫だろうが。
時々、本当に猫になれらいいのにと思うことがある。
「我輩は猫である」
口にすると、京極が手を止めた。
「読みたいのですか」
「いや別に」
サワサワと風が竹を揺らす音、風鈴の音、鳥の鳴き声、夏はそれに虫の声がプラスされる。どれもが神田では耳にすることのない音だ。反対に、わずらわしい車のエンジンやクラクション、人のざわめき、足音もここでは遮断される。空気だけでなく、町の音が違う。
聖域――という言葉が浮かんだ。
僕にとって、ここは確かに聖域のひとつなのだろう。心地良い場所。
目を開けて天井を見上げた。眠ろうと思っていたのに、なぜか目が冴えてしまう。指先に触れた本を取り、目の前に掲げた。
「吸血鬼ドラキュラ……」
それは、呉美由紀の記憶にあった本だ。
「あの娘は馬鹿なのか？」
思わず口にしていた。
名前は云わなかったが通じたようだ。京極は水道を止めた。ふう、と息を吐いて腰を叩く。
「榎さんと付き合うとみんな馬鹿になるんですよ」
「そうか、じゃあ、やっぱり馬鹿なんだな」
「何があったんです」
京極は釜を縁側に逆さに乾すと、たすきを取って縁側に腰掛けた。
「その本、美由紀君に貸したんですよ」
「知っている」
毎週土曜に、学校帰りに事務所へ立ち寄る少女。彼女がいるときだけは、事務所も聖域になる。
昨日は、呉美由紀の記憶に一冊の本が浮かんだ。女性の背後から首筋に歯を当てる男の表紙。学校で怪奇ものが流行っているのだと以前云っていた事を思い出した。
「女学生君。僕の秘密を教えてあげようか」
そう口にすると、彼女は瞬き、緊張したように姿勢を正した。はい、と口にする顔は真剣だ。
僕は笑い、美由紀の頬に手を伸ばすと、顔を近づけてそっと囁いた。
「僕はね、本当は吸血鬼なのだよ――」
笑い飛ばされると思ったのに、あの娘は数秒硬直した後、笑うことなく、話の真贋を確かめるように僕の目を見た。僕が真面目な顔で彼女を見ていると、美由紀も真面目な顔で、
「おなかがすいているんですか？」
と云った。
思わず返す言葉を失っていると、美由紀は左の袖をめくって「飲みますか？」とまで云う。
「馬鹿だろう！ 馬鹿じゃないか！」
普通、そう返すか！？
話を聞いた京極は声を出して笑い出した。
「彼女らしいじゃないですか」
「なんで信じるのだ！」
「榎さんが云ったからでしょう」
「僕が明日地球は爆発すると云ったら信じるのか？ 京極が女だと云ったら信じるのか！？」
「信じるでしょうねえ」
「なんで疑わないのだ」
京極はククと笑い続けている。
「それで、まだ信じているんですか？ 貴方が吸血鬼だと」
「……」
真剣な美由紀の顔が浮かんだ。
彼女は僕が吸血鬼であると本気で信じたのだろうか。それとも嘘を嘘とわかった上で信じたふりをしたのだろうか。差し出された手首を掴むと、かすかな震えが伝わってきた。首筋に顔を近づけても、美由紀はギュと目を瞑ったが逃げようとはしなかった。心臓の高鳴りだけが掴んだ手首から伝わってきて。
思わず――笑った。
「冗談だと云ったら怒られた」
真っ赤になって。
すぐに信じてしまったことが恥ずかしかったのだろう。
手洗いから出てきた益田が気づいて騒ぐと、美由紀は紅潮した顔のまま僕から逃れて、唇が触れた首筋を押さえながら「からかうのはやめてください」と小さな声で呟くように云った。その表情がすごく可愛いかったから、可愛いと云うと、本当にからかわれたと思ったのか、美由紀は怒ってすぐに帰ってしまったのだった。
あの本がここにあるということは帰りに京極堂へと寄ったのだろう。
京極が溜め息をついた。
「気をつけなさい。そのうち、何を云っても信じてもらえなくなりますよ」
盲目的に僕の言葉を信じる少女。
「今だって信じてもらえていないよ」
こういった嘘は信じるのに、彼女に対する賛辞も好意も本気と思われていない。
可愛いと云っても、好きだと云っても、困ったような顔をする。いや、信じているから困るのだろう。だが、それは戯れで口にしたと思われているのだ。
「嘘は信じるくせに、本当の言葉は信じないのだ」
おそらく、僕が本気で望めば彼女は与えてくれるだろう。その身さえもためらわず。
「だから不満なんですか？」
「……」
黙ったままでいると、京極が笑った。
「おなかがすいているんですか……か。なるほど、美由紀君も勘がいい」
僕の視線に京極がニヤリと笑う。
大丈夫ですよ、と云った。
「古今東西、女の子が大人になるのはあっという間です。男の方がいつまでも子供なんですから、榎さんなんてすぐに追い抜かされますよ」
京極は本を取り上げると、ぺち、と僕の額を叩いた。
「それまで、せいぜい飢えを我慢するんですね」
了
【古風気味な百の題目／055】
2007.03.08
「京極部屋」に戻る
≪炎帝月帝≫TOP