榎木津×美由紀
『舌戦』
「探偵さんの馬鹿ー！」
珍しく月曜日の放課後――平日に事務所へやってきた呉美由紀は、扉を乱暴に開けると、開口一番にそう叫んだ。
彼女が来訪した理由を察してにっこりと笑うと、美由紀は顔を真っ赤にして、最奥の机にいる僕をキッと睨んだ。
「もう信じられない！」
駅から走ってきたのか、美由紀の息は荒い。
「どうしたの美由紀ちゃん」
ソファにいた益田が立ち上がった。
「だからいつも云っているじゃない、オジさんのことを簡単に信じたらダメだって。それで、榎木津さんが何したの？」
「益田さぁ〜ん」
ふええ、と美由紀が泣いた。
「ひどいんですー」
「お嬢さん！」
益田の向かいに座っていた男がすっくと立ち上がった。馬面の男は、下がってもいない銀縁の眼鏡を指で上げる。
「それは一大事だ。さあ、この探偵が何をしたのか私に話してみなさい！」
「――」
美由紀はようやく事務所に客がいたことに気づいたらしい。彼女が口を開く前に男が手で制止した。
「いやいや私のことは気にしないでくれたまえ、もう用件は済んだからね。君のことは知っているよ、呉美由紀君。私は弁護士の増岡という者だ。柴田氏に頼まれて、君が学校を移る手配をしたのは私なのだよ。君とは縁がないわけじゃない。この男を訴えたいのであれば私が弁護してあげようじゃないか」
早口で一気に云う。
益田が同意するように頷いた。
「美由紀ちゃん、そうしてもらいなよ。お金は事務所で出してあげるから」
誰もが僕のことなど無視だ。
第一、なぜ訴えられる僕が訴える側の弁護費用を負担しなければいけないのか。増岡の依頼とてこちらはまだ了承していないのだ。美由紀の乱入に便乗して、断る間を与えないつもりらしい。
「ほら、美由紀ちゃん座って座って。何があったのか話してごらん。この弁護士さんは優秀だからきっと榎木津さんを有罪にして懲らしめてくれるよ」
「もちろんだとも、任せたまえ。さあ、呉君、遠慮なく云うのだ」
「……」
美由紀は大人しくソファに座って、うつむいた。
「私も悪いんです……」
「そんなことはないよ！」
ボケマスが拳を握る。
「悪いのは全部オジさんに決まっているんだから」
――こいつは後で絞め殺そう。
美由紀は益田を見、増岡を見、小さく頷くと、先週の土曜日なんですけど、と話し出した。
「ここで宿題をやっていたんです」
「ああうん、覚えているよ。国語だよね。僕は途中で仕事で抜けたけど、――ま、まさかあれから何かされたの？」
「……」
美由紀はうつむいて涙目になった。
「次の意味を答えろって問題があって」
「うん」
「敏夫と真理子は舌戦を繰り広げた……って例文があったんです」
二人ともうんうんと聞いている。
美由紀は両手で顔を覆った。耳まで真っ赤だ。
「探偵さんが、これは敏夫と真理子が長く激しい接吻をしていたってことだねって」
「…………」
「…………」
男たち二人の視線が、同時に僕に向けられた。
「榎木津さん……」
「それは……」
益田は笑いを堪えた顔で口を覆い、増岡も笑いを堪えているためか、大きな鼻の穴がさらに広がって、唇が震えている。
「美由紀ちゃん……それを書いたの？」
「はい」
美由紀は、うわっと膝に顔を伏せた。
「今日、先生にちゃんと辞書で調べなさいって云われて！ 先生は笑っていたけど、辞書を見て、私、もう、恥ずかしくて」
益田と増岡は堪えきれなくなったのか同時に吹き出した。
「ひ――ひどいっ！」
美由紀が目に涙をためて叫んだ。
「二人とも笑うなんて……！」
「ご、ごめん。うん、それは確かに榎木津さんが悪い！ 重罪だ！ ねえ、増岡さん」
「そうだとも、これは有罪だ！」
「笑わないでください！ 私、本当に顔から火が吹き出そうになったんですから！」
「おやおや」
台所から寅吉が出てきて、美由紀の前にお茶を置いた。
「二人ともそんなに笑って、ひどい話じゃないですかい。先生に騙されて、かわいそうに」
「和寅さあ〜ん！」
「本当にひどい人たちですねえ。こうなったら美由紀さん、先生と益田君と増岡さんを訴えてやったらどうですかい。私が証人になりますぜ」
「ええっ、和寅さん、僕も訴えられるの！？」
「私もかね！」
「当然ですよう」
よしよし、と寅吉は美由紀の頭を撫でて、僕を睨んだ。
「先生も、あんまり美由紀さんをからかっていると、嫌われますぜ」
「もう嫌いです！ 大嫌い！」
「僕は好きだぞ！」
叫ぶも、美由紀はそれを無視して和寅の足に抱きついた。
「和寅さんは好き！」
「うわあ、それは嬉しいなあ。私も美由紀さんが大好きですよう。よしよしー」
――なにがよしよしだ……！
僕は寅吉を睨んだ。
――こいつも後で絞め殺しの刑だ！
それからしばらくして増岡が美由紀を送って行くことになったが、彼女は最後まで僕を無視し続けた。
増岡は帰り際にちゃっかり「それじゃあ依頼の件はよろしく」と云って去く。どんな依頼だったのかまったく記憶にないが、下僕が覚えているだろうから問題はない。
カランカランとドアの鐘が徐々に小さくなり、事務所に静寂が走ると、ケケケと益田が笑った。
「振られちゃいましたね、榎木津さん。ぷぷッ」
「黙れボケマスめが！ 死ねッ！」
「ギャ！」
とりあえず益田を絞める。寅吉はそれを止めることもなく、それで、と呑気に云った。
「先生、ゼツセンってのは、どういう意味なんですかい」
「この馬鹿者！」
知っていたなら、こいつも笑っていたに違いない。寅吉が美由紀の頭を撫でる姿を思い出して苛立った。
「辞書を見ろッ！」
それからしばらく、美由紀は僕を無視し続けた。
了
【痴話喧嘩で10のお題／06】
2007.03.09
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