榎木津×美由紀 ※恋人設定。
『近寄らないで』
半径5メートル内に近づくなと云われた。
事務所に来て早々、可愛いからと、抱きしめたりキスをしたりしていたらついに切れてしまったらしい。
わざわざ和室から物差しを持ってきて5メートル測り、これ以上近づいてきたらダメだとまで云う。一歩でも近づこうものならキッと睨む。
気にしないで近づくと、自分から5メートルの距離をとって離れていく。視線をそらさず、まるで威嚇する猫のよう。
最初は面白がってわざと近づいていたが、美由紀が本当に嫌がるので面白くなくなってしまった。
「そんなに嫌か」
美由紀を睨むと、睨み返してきた。
「嫌です」
僕はムッとして、ならいいよ、と云った。楽しかった気分が一気に霧散してしまった。
「好きにすればいい」
云い捨てると、寝室に入って乱暴にドアを閉めた。ベッドに横へなり目を瞑る。大人気ないと自分でも思った。
事務所からは物音ひとつしないが、美由紀は今ごろホッとしているに違いない。そのうち勝手に帰るだろう。
やめてください、と何度も云っていた。
確かにやりすぎた――と思う。思うが、本当はもっとたくさんしたいことを我慢しているのだ。恋人なのに、抱きしめたり口付けて何がいけないのか。彼女がいつも嫌がるように、人前なわけでもない。
二人きりなのに。
僕に会えて嬉しくないのか？
苛々とした気分が治まらない。
カチャリとドアの開く音がして、寝室に事務所の光が漏れてくる。益田も寅吉もいないから、入ってきたのは美由紀だ。
「探偵さん」
伺うような声に答えずにいると、彼女が一歩中に入ってきたのがわかった。静かにドアが閉まる。
「……怒りましたか」
「怒ったよ」
顔だけを彼女に向けた。
美由紀はしゅんと肩を落としている。気にするな、と云いたかったが、結局無言のまま彼女から視線を逸らした。
やりすぎてごめんと、謝るべきだったのだろうか。
ふざけすぎた、と。
だが、あんなに嫌がられたら僕だって傷つく。
美由紀に背中を向けた。
「また来週、来るのだろう。今日は帰りなさい」
「探偵さん」
「もう何もしないよ」
「探偵さん」
声が、一歩分近づく。
「……ごめんなさい」
――なぜ彼女が謝るのだ。
震える声で。
「ごめんなさい……」
悪いのは僕なのに。
美由紀がベッドの側まで来たのがわかった。
「5メートル以内に入ってきているぞ、僕に近づいて欲しくないのだろう」
「……」
美由紀は黙ったまま何も云わない。
「……探偵さん」
小さく、泣きそうな声。
――くそッ
結局、負けたのは自分のほうだった。怒りを収めるようにふうと息を吐く。
「怒ってないから」
本当に今日は帰りなさいと云おうとした。
「……私のこと嫌いになりました？」
「――」
はあ？
何でそんな結論になるんだ。
振り返るが、想定した場所に美由紀の姿はなかった。ベッドから身を起こすと、彼女は膝を抱えて顔を伏せている。
美由紀の記憶は、僕が彼女に背を向けて寝室に消える姿と、寝室に入ってからずっと背を向けている姿ばかりが映っている。
「美由紀」
ベッドに腰かけ、あまり口にすることない彼女の名前を呼ぶと、美由紀は抱えていた膝をさらに強くする。泣いているのだろか……わからない。
彼女はあのときどんな顔をしていたのだろう。
どんな思いで僕の背中を見ていたのだろう。
「嫌いになるわけじゃないか」
喧嘩をしても、嫌いになったことなど一度もない。むしろ、やっと恋人になれたというのに、今のやりとりで彼女のことを本気で嫌いになると思われているとしたらそっちのほうがどうかしている。つまり、信用されていないということじゃないか。彼女に対する思いを。
「嫌いになったりしない」
美由紀の頭に手を伸ばしたが、触れる寸前で止める。また嫌がられたら――と思ったのは一瞬、彼女の髪に触れても、頭に手をおいても美由紀は逃げなかった。
「何でそう思うんだ」
「……私が子供みたいなことをしたから」
思わず笑ってしまった。
「嫌なことは嫌と云って当たり前だろう？ 唯々諾々と意思のない人になってもらいたいわけでも望んでもいない」
美由紀は顔を上げた。噛み締めていたからか下唇が赤くなっていたが、泣いてはいなかった。
「探偵さんが嫌いになったわけじゃないです」
「わかっているよ」
「触れられるのも……嫌じゃないです」
「がっつきすぎたのだな」
「が……」
美由紀の顔が赤くなった。こく、と頷く。
「がっつきすぎです……」
「うん。でも、これからは触れて欲しくないときは半径50センチ内に近寄るなと云いなさい。5メートルは遠すぎる」
「…………50センチ？」
「50センチだ」
美由紀は瞬き、小さく笑った。ホッとした表情で。
「それじゃ手が届きます」
「だから良いんじゃないか」
「そんなのおかしいです」
「おかしくない。キスが嫌なときは半径5センチだ」
美由紀は顔を伏せて笑った。
「そんなの変」
「変じゃない」
「変ですよ」
頭をくしゃりと撫でると、くすぐったそうに笑った。可愛くて、ほら、もう抱きしめたくなってしまっている。彼女の頬を包んだら、ゆっくりと目を閉じて触れた手に寄りかかってくる。猫が甘えるようだと思った。
彼女の赤くなった唇を親指でなぞる。
美由紀の口元に優しい笑みが浮かんだ。
「私が探偵さんに触りたくなったら？」
「たくさん触ればいいとも！」
僕が叫ぶと、美由紀は目を大きく開いて、破顔した。
彼女が笑うと嬉しくなって。
ああ、と思った。
どうしてあんなに苛々したのか。
――彼女が本気で嫌がったからだ。
いつもは嫌がっても、困っても、本気で僕を拒否することなどなかった。
彼女にあんな顔をさせてしまったのだ。
「僕はいつでも大歓迎だよ、女学生君」
「本当に？」
「本当に」
美由紀はくすりと笑った。
子供みたいに無邪気な笑み。
たくさんの笑みを彼女は持っている。
嬉しくてたまらない。
目の前に手を差し出して、重ねられた彼女の手を引く。ふわりと持ち上がった身体を抱き寄せて、そのままベッドに倒れた。
「うわ――っ！」
「さあ、どんどん触りたまえ！」
腕の中に閉じ込めると、美由紀が吹きだすように笑った。
「なんですかそれ」
あはは、と声を出して。
美由紀は腕を立てて、覆うように僕を見下ろした。深い色の瞳が優しく笑む。
「なんだか私が探偵さんを襲っているみたい」
「それはいいね」
美由紀は瞬くと、ふふと笑って額に口唇を落とした。
優しい唇の感触に、愛しくなる。
美由紀が囁いた。
「襲っても、逃げないでくださいね」
「逃げないよ」
――逃げるはずがない。
彼女の口付けを受けながら、襲い返しても嫌がってくれるなよ、と願うように思った。
了
【痴話喧嘩で10のお題／09 半径5メートル内に近寄らないで】
2007.03.11
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