榎木津×美由紀
『悪い癖』
「あれー、美由紀ちゃん」
薔薇十字探偵事務所に戻ってきた益田は、ソファにひとり座っている少女――呉美由紀を見て瞬いた。
「益田さん――お帰りなさい」
益田は明らかにホッとした様子を見せる美由紀に首をかしげた。
今日は金曜日で、しかも午後の二時。いつもならまだ学校にいる時間だ。
「今日は午前だけ？」
「はい」
「なんだそっかあ。だったらもっと早く帰ってくれば良かった。榎木津さんは？」
出かけてしまったのだろうか。こういうときは後で美由紀が来ていたことを知ると機嫌が悪くなるので困る。
そんな益田の心配をよそに、あそこです、と美由紀は寝室を指差した。
「機嫌を悪くしちゃって」
「なに、喧嘩でもしちゃった？」
「喧嘩というか……」
美由紀は苦笑を漏らす。
「拗ねちゃったというか……」
どうも煮えきらない。
事務所の中は石鹸やシャンプーの匂いが漂っている。榎木津が昼に起きてから入ったのだろう。事務所は居間を兼ねているから、特に珍しいことではないが。
ははあ、と益田は口の中でつぶやいた。
「もしかして、また腰巻だけで出てきた？」
はい、と美由紀が頬を染めてうなずいた。
「それで、驚いて叫んじゃったんです……」
「そりゃあ叫ぶよ。僕だって叫ぶ」
だが、そんなことはいつものことで、榎木津が拗ねるほどのことでもない。他になにがあったというのだろう。
益田がさらに話しかけようとしたとき、勢いよく寝室のドアが開いた。益田は思わずビクリと腰を浮かせるが、視線を向けた先に立つ人物はきちんと服を着ていた。
寝室の入り口に榎木津が仁王立ちになっている。益田をひと睨みし、ツカツカと歩いてくると、探偵と書かれた三角錐の乗った机へ向かって不機嫌そうな顔のままどっと腰を下ろした。
息を止めていた益田はホウと息を吐いた。
「なに拗ねているんですか。せっかく美由紀ちゃんが来てくれたのに」
「ギャアと云ったのだ」
「……は？」
一瞬、何のことかと益田は思う。
「はあ？ 当たり前じゃないですか！ 腰巻いっちょで男が現れたら女の子は誰だって悲鳴を上げますよ」
「だから、ギャアと云ったのだ！ ワアでもキャアでもない、ギャアだ！ ギャアだぞギャア！ 失礼じゃないか！ 僕は痴漢でも変態でもないのだッ！」
「はああ〜？」
益田は真っ赤になってうつむいている美由紀を見た。
「ギャア……って叫んだの？」
「叫びました……」
だって、と美由紀は真っ赤になった。
「布が取れるんですもん……」
「――！！！」
益田は飛び上がった。
「見たの！？」
「見てませんッ！」
美由紀は首と手首を左右に振った。
「取れる前に目を瞑りました！ 本当ですッ！」
「はあ……」
なるほど、と大体の事情を掴んで、益田は脱力した。
もともと美由紀はキャアといった可愛らしい悲鳴を上げることがない。ウワ、とかワア、とか。それを榎木津は気に入っているのだが、さすがに「ギャア」はいただけなかったようだ。
確かに女の子に――しかも好きな娘に自分の裸を見てギャアと言われたら男としてショックだろう。
だが――。
「榎木津さん……」
益田は口をへの字にしている榎木津を呆れたように見やった。
「立派な変態じゃないですか」
「見せたくて見せたわけじゃない！ 落ちてしまったのだ！」
「当たり前ですよ！ 見せたくて見せたらそれこそ警察沙汰じゃないですか！」
「予行演習と思えばいいのだ」
「なんのですか！」
益田はツッコみつつ、美由紀のほうへと向いた。
「美由紀ちゃん、もしもこういう変なオジさんと遭遇したときには、キャアとか云うのは逆効果だからね」
「そうなんですか……？」
「そうだよ。だって、露出狂は女性にキャー！って云ってもらいたいからするんだし。それが快感なんだ」
「詳しいなマスヤマ。お前もしたことがあるんだろう」
ボソリと呟く榎木津を、益田は横目に睨む。
「榎木津さんは忘れているようだから云っておきますが、これでも僕は元、警・官・ですからね」
益田は美由紀を見てにっこりと笑った。
「露出狂と遭遇したときはね、鼻で笑ってこう云えばいいんだよ。――小さいわね！」
「……小さいわね？」
美由紀が小首をかしげる。
榎木津がうわはははと笑った。
「僕のは大きいぞ！」
「榎木津さんは黙っていてください！」
キッ！ と益田に睨まれ、珍しく榎木津が黙る。
そのことに美由紀が目を丸くし、ぷ、と吹き出した。
「美由紀ちゃん……」
「すみません、可笑しくて」
くすくすと笑いが止まらない美由紀に益田は苦笑する。
「冗談じゃないんだからね」
「はい」
もっとも、美由紀の前に露出狂が現れたら、榎木津の死刑宣告を受けるようなものだ。
「美由紀ちゃん、――いい？ 大きくても、小さいって云うんだよ」
「わかりました。よくわからないけど、そう云えばいいんですね？」
笑いを収め、美由紀は真面目に答える。
益田はうなずき、だけど、と付け加えた。
「本当に好きな男の人には、絶対に云ったらいけない言葉だから、気をつけて」
益田の真剣な顔に、きょとんとした顔が返ってくる。
「えっと……絶対に？」
「絶対に」
「……」
美由紀は小首をかしげたが、にっこりと笑い、わかりましたと云った。その視線が榎木津を捉えて、くすりと笑う。
「絶対に云いません」
「うん。――ということで」
益田は榎木津のほうへと向いてキッと眉をあげた。
「とりあえず、いつ美由紀ちゃんが来てもいいように、榎木津さんには風呂上りに腰巻ひとつでうろうろするのをやめてもらうことからはじめてもらいましょうかね！」
「うろうろなどしてないぞ！ それに僕は気にしない！」
「「気にしてください」」
美由紀と益田の言葉が重なった。
益田は立ち上がると、腰に手を当てて上司を睨んだ。
「美由紀ちゃんに限らず、いつ何時、女性の依頼者が来るかわかりませんから！」
い い で す ね！ と強気の益田に、榎木津はしばらく黙ったあと、美由紀に視線を向け、「フン」と鼻を鳴らした。
了
【古風気味な百の題目／035】
2007.03.29
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