榎木津×美由紀
『甘い』
美由紀さんどうぞ、と事務所で出されたのはチーズケーキだった。
全体がうすいクリーム色。薄いスポンジが下地になっていて、側面は滑らかだ。バターとクリームチーズの甘い香り。すごく美味しそうで、思わず頬が紅潮した。
「紅茶と一緒に、奥様からいただいたんですよう」
和寅さんが嬉しそうに云った。
「奥様は紅茶がお好きなんです」
奥様、というのが誰なのかわからずにいたのが分かったのか、探偵が私の前を横切り、隣に腰を下ろして「母だ」と云った。
「探偵さんの……お母さま？」
うん、と探偵は云うと、和寅さんが用意したケーキを手で掴み、一口で食べた。驚く私に、口をもぐもぐさせたままにっこりと笑う。
探偵は紅茶で口の中のケーキを流し込み、和寅お代わり、と叫んだ。
「女学生君も早く食べなさい」
「探偵さんはもっと味わった方がいいと思います……」
「ちょびちょび食べても美味しくないだろう」
「そんなことないですよ」
きっと、探偵は昔から美味しいケーキとか良く食べているから、高級品を少しずつ味わおうという習慣がないのだろう。こんなに美味しそうなのに、一気に食べてしまうなんてもったいない。
フォークで切るとス――と入った。一口サイズよりさらに小さく切って口に運ぶ。歯で噛むまでもなく、舌の上で蕩けた。濃厚な甘さとチーズの味が口の中に広がって。
――うっわ。美味し〜い！
じたばたしたくなってしまう。今まで食べたケーキの中でも一・ニを争う美味しさだ。少しずつ口に運びながら、ゆっくりと堪能していたのだが、探偵が横からじっと見ているのが気になってしまう。
「……あの」
困ったように視線を向けると、笑顔が返ってきた。
「美味しい？」
はい、と云うと探偵はニコニコと嬉しそうに目を細めた。
「それはよかった。――和寅、お代わり！」
和寅さんが台所から顔を覗かせた。
「今用意してますよう」
「紅茶じゃない！ ケーキ」
「さっき出したじゃないですか。先生の分はもうありませんぜ」
「まだ残っているじゃないか。マスカマになどあげる必要はないのだ！」
「益田君がまた泣きますよ」
「あいつはナキヤマだから思いっきり泣けば云いのだ。早く持ってこい！」
「だめです」
和寅さんは探偵のわがままに素っ気無く返して再び台所に隠れてしまった。
益田さんはちょうど京極堂へ「お使い」に行っているのだ。
「探偵さん」
私はケーキの皿を探偵の前に出した。
「食べます？」
探偵は半分に減ったケーキを見て、
「うん」
と云った。
「食べさせてくれるならね」
「は？」
探偵の意図することが分かり、私は呆れた。
「ひとりで食べてください」
「じゃあいらない。すごく食べたいけど、女学生君が意地悪をするからいらない」
――なんだそれは。どこが意地悪。何が意地悪！
じゃあいいです、と一度は手を引っ込めるが、探偵の視線がやっぱり気になってしまう。
ケーキをフォークで切り、探偵を見ると笑顔が返ってくる。私は溜め息をついて、探偵の前にフォークを出した。
「……はい」
探偵は前かがみになって嬉しそうにフォークを咥えた。ぱく、と擬音が聞こえてきそうなくらい。顔を上げた探偵は、目を細めて口角を上げた。
――う、……可愛い。
思わず頬が紅潮した。慌ててうつむくと、探偵が咥えたフォークの先に目が行ってしまい、余計に顔に熱が溜まる。
ど、どうしよう。
このまま私が続けて食べるのは恥ずかしい。私はもう一度ケーキを切ると、フォークを探偵の前に差し出した。
探偵は嬉しそうにそれを食べる。ふふ、と楽しそうに笑うから、私も笑ってしまった。本当に、子供みたい。
可愛い顔して。
なんだか私も楽しくなってくる。こういうのって、何かに似ている。えっと、確か……そう、餌付け？
ふふ、と私が笑うと探偵も笑う。
「ちょびちょびもいいね」
それを繰り返しているうちに、ケーキは最後の一口まで全部探偵の口に入ってしまった。
「あ！ 何しているんですか先生！」
最後の一口をあげているところを見られたのか、和寅さんがお代わりのポットを持って、太い眉を吊り上げた。
「美由紀さんの分まで食べて！」
私は慌てた。
「あ、あの、私があげたんです」
「先生が欲しがったんでしょう、だめですよこの人、朝にも食べているんですから！」
「すみません……」
「女学生君が謝ることはないのだ！ 悪いのはケーキを出さない和寅だ」
「悪いのは先生です！」
和寅さんは紅茶を乱暴に注ぐと、キッと探偵を睨んだ。
「甘いものばっかり食べて、また虫歯になっても知りませんぜ」
フンと鼻を鳴らすとぶつぶつと文句を云いながら再び台所に行ってしまう。
彼の姿が台所に消えると、私は胸元を押さえて息を吐いた。和寅さんに叱られたのは初めてだ。
「……びっくりした」
私の呟きに、探偵が笑った。
「母が女学生君に食べさせたくて持ってきたのに僕が食べたから、それで怒っているのだ」
「……お母さまがここに来たんですか？」
「うん」
「……」
私は立ち上がると台所に行って、柱からそっと顔を覗かせた。
「和寅さん」
台所にある椅子に腕を組んで座っていた彼が慌てて立ち上がる。
「ああ、すみません、美由紀さんを怒ったんじゃないんですよう」
私は笑って気にしていないことを伝えると、台所に入って、美味しかったですよ、と云った。
「すごく美味しかったです」
「ちゃんと食べました？」
「はい。探偵さんのお母さまに会ったらお礼を云っておいてください」
「あ、まだケーキがあるんで――」
私は笑って彼を止めた。
「益田さんが泣きますよ？」
しゅんと肩を落とした和寅さんの顔を覗き込むようにする。
私は笑った。
「紅茶、私にもお代わりもらえますか？」
事務所に戻ると、探偵はソファの背もたれに腕をかけて台所から出てきた私を見ていた。
「僕を放置するとはいい度胸だな、女学生君」
「紅茶のお代わりをお願いしに行っただけです」
「ふうん」
まるで信じていないような口調だ。
「わ、って云っていたぞ」
「え？」
「和寅が、何しているんですか先生！ って云ったときに」
自覚はないが、確かに心臓が跳ねるくらい驚いたから、思わず声が出ていたのかもしれない。
探偵は思い出したのか、突然くすくすと笑い出した。あまりにも笑っているから、なんだか恥ずかしくなってしまった。そんなに変な顔でもしたのだろうか。
「探偵さん」
「ん？」
「笑わないでください」
「うん」
それでも探偵は楽しそうに笑っている。こうなると止めるのは不可能だろう。私はソファに座り、ふう、と溜め息をついて、紅茶を入れに来た和寅さんに礼をする。
再び台所に戻ろうとするので、私は慌てた。
「和寅さんも休んでください」
「いやぁ、夕飯を作らないといけないんで……」
はは、と笑いながら相撲取りのように右手を縦に振った。
「本当ですよう」
それじゃあお邪魔しましたと、なんだかいかにも気を配っているとバレバレな一言を残して和寅さんは下がっていった。
「気にしなくてもいいぞ。和寅は台所が好きなのだ。ゴキブリだからな」
「探偵さん」
キ、と彼を睨むと、探偵は鼻を鳴らした。
私は溜め息をついた。益田さんもとっくに帰ってきていい時間なのに――。彼も気を使っているのだろうか。もしそうだとしたら、そういうのは困るってちゃんと云わなくちゃ……。
探偵が膝をコツンと私のそれにぶつけた。
「溜め息をつくと幸せが逃げるぞ」
「……じゃあ、探偵さんが探してください」
探偵は口角を上げた。反応が気に入った時の表情だ。わはは、と笑った。
「うん、よし。探してあげよう！」
私としては、探してくれる前に溜め息をつかないようにしてもらいたいんだけどな。
思わず溜め息が漏れそうになって、慌ててそれを止めた。紅茶の湯気を見つめ、視線を探偵に向ける。
「チーズケーキ……好きなんですか？」
「美味しいものは好きだよ。女学生君も好きだ」
「……」
後半は軽く無視して。
チーズケーキが好きなら探偵のために作ってこようかと思ったけれど、こんなに美味しいケーキをいつも食べているなら、自分のような未熟な腕で作ったものなど恥ずかしくて持ってこれそうもない。
たぶん、たとえ上手く出来なかったとしても探偵なら美味しいと云って食べてくれるだろうけど。
――あ。
探偵の顔を見て、返ってきた笑みに紅潮した。
「だめです」
「何が？」
「そんな、食べたそうな顔をしてもだめです」
「僕は何も云ってないぞ」
「……作りません」
「僕は何も云ってない」
「うそ！ 待ってるって顔してます」
「僕は何も云ってない」
云いながらも、探偵は笑っている。
「云ってないぞ。思っているだけだ」
「ほら！」
「食べたいなって」
「やっぱり！」
「それでまたしよう」
「……は？」
「またするのだ」
「……する？」
「……」
探偵は怪訝そうな顔つきで。
「さっきのに決まっているだろうが」
私には何のことだかさっぱり分からない。
「さっきの？」
「……女学生君」
「はい」
「……」
――え、なに。
探偵の次の言葉を真剣に待っていると、探偵は頭を垂れてハアと特大の溜め息をついた。溜め息をつくと幸せが逃げると口にしたのは彼だったはずだけど。
探偵は顔を上げると、眉を吊り上げた。
「新婚さんに決まっているじゃないか！」
「は！？」
「はじゃない！ フォークで、はいあーんってしていただろうが！」
「ああ！」
餌付け、と思わず声が漏れてしまった。
「餌付け！？」
探偵は突拍子もない声を上げると、今度は腰から前のめりに折れて、膝の間に顔を埋めた。なんだか試合に負けたボクサーのよう。
「あ、あの、探偵さん……」
「僕は女学生君に嫌われているのか？」
「違います！ え、餌付けっていうのは、その、深い意味はなくて」
むしろ、嬉しいというか、愛しいというか。そういう気持ちというか、思いというか。焦って上手く言葉にできない。
「その、好きですよ？」
「…………」
「好きです」
「……」
探偵はフウと長い息を吐いて、前髪をかきあげながら身を起こした。そのまま疲れたようにソファに背をもたれる。しばらく天井を見上げ、首を横に倒して真っ直ぐに私を見た。
「……僕が好き？」
「好きです」
「……本当に？」
「本当に」
「……」
「好きです」
探偵は仕方がないといった表情で微苦笑を漏らした。目を細め、手を伸ばして私の横髪に軽く触れた。
「作っておいで」
優しい声が囁くように云った。
「一番食べたいものはちゃんと我慢しているのだからね」
了
【キスに関する10のお題／08】
2007.04.12
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