榎木津×美由紀
『ご褒美』
「じゃあ、美由紀ちゃんだ」
益田さんがにやりと笑ってそう云うと、探偵は一拍を置いて渋い顔をした。
「何で女学生君なのだ」
「だって、一番好きなものを我慢しないといけないわけでしょう。だから美由紀ちゃん。――それとも、榎木津さんにとって美由紀ちゃんは一番じゃないとでも？」
益田さんが意味ありげに私の方を向くから、私は困って探偵の方へと視線を向けた。
探偵はますます渋い顔。
益田さんがケケケと笑った。
「大丈夫だよ。ご褒美が美由紀ちゃんだもの、あっという間に解決するって！ ――ですよね、榎木津さん」
「このバカオロカ」
探偵は舌打ちをして溜め息をひとつ、椅子からすっくと立ち上がると机を回って、通り際にぽかりと益田さんの頭を叩いた。そのまま靴音を響かせて私の方へとやってくる。
足が長いから近づくのはあっという間だ。カツ、と音が止まって、探偵は私の目の前に立った。口をへの字にして、ひどく不満そうに私を見下ろしている。
「あの……」
なんだか嫌な予感。
思わずひるんで一歩下がるよりも早く探偵の長い腕が伸びてきて、ぎゅむ、と私を抱き寄せた。
「うわっ」
やっぱり、と私は思う。
「探偵さん……！」
「君が変なことを云うからだぞ！」
身体が軽く浮き上がるほど強く抱きしめられて、探偵の肩口に顔が押し付けられている。頭上に口付けられたのがわかって一気に紅潮した。
うわ。心臓が爆発する――。
「た、探偵さん！ 離して」
腰に回る腕が一瞬だけ強くなって、次の瞬間、探偵はあっさりと私を解放した。
頭に血が上ったからだろう、くらくらと眩暈がする。大きく息を吐いて、真っ赤になった顔を腕で隠しながらよろめくようにして二歩三歩と離れた。いきなり何を、と探偵を睨むも、恥ずかしくて紅潮した顔のままではまったく効果がない。
探偵は腰に手を当て、ふんと鼻を鳴らし、
「充電だッ」
まるで当然のことのように主張した。
――何でこんなことになったのだろう。
私が事務所に来ると、午前中に榎木津元子爵と柴田財閥、そのほかに二件、合計四件もの依頼があり、探偵がそのすべてを益田さんに押し付けていたところだったのだ。
簡単な事情を聞きながら、端で和寅さんが笑いを堪えているので大体の察しはついた。依頼の中のひとつ、父親からの電話で云い負かされたので機嫌が悪いのだろう。文句を云いながらも結局は受けることになるのだから、最初から素直に受ければいいのに――。
さすがの探偵も父親には弱いらしい。和寅さん同様になんだか笑いがこみ上げてくる。
「やる気が出ないのだ。お前がやれ」
「榎木津さんのそれはやる気が出ないじゃなくて、端からやる気がないんでしょうに。面倒だとか、僕向きの仕事じゃないとか。――ああもう、ねえ美由紀ちゃん、このおじさんにやる気を出させる一言をなんか云ってやってよ！ 働いている探偵さんって素敵ーとか、かっこいいわぁとか」
益田さんの戯言に苦笑を返し、そうですね……と考えてみる。当然、そんなことは云うはずもなく、やる気を出させる方法を。
「一番好きなものを我慢してみたらどうですか？」
「一番好きなもの？」
なにそれ、という顔をする益田さんに私は説明した。
「煙草とかお酒とか、好きなものを我慢するんです。それを仕事が終わったときのご褒美にしたら、きっとやる気が出てすぐに終わりますよ」
にっこりと笑うと、ああ、と益田さんは拳と手のひらを合わせたのだった。
「じゃあ、美由紀ちゃんだ」
――なんで私。
云いたいことはたくさんあったのだけれど、探偵は仕事が終わったときのご褒美を「呉美由紀」と勝手に決めてしまったらしい。さっきの充電でスイッチが入ったのか、すっかりやる気になっている。
探偵は益田さんにいくつかの指示を出して、和寅さんに出かける、と云った。
「女学生君！」
駅まで送ると云われて、私は鞄を持って益田さんたちに挨拶をした。帽子を被った探偵が事務所の扉を開けて待っているので、その前を潜り抜けて事務所を出る。
探偵に続いて階段を下りていると、半身が振り返り、手を差し出された。私は右手を伸ばしてそっと重ねる。こうして手をつなぐのも当たり前みたいになってしまった。
探偵が今回の仕事を終えるまで会えなくなる。――でも、終わらなかったらどうするのだろう。そのまま会わずにいるのだろうか。
今までだって大きな事件のときは危ないから事務所へ来ないようにと連絡が来たし、試験や学校の行事で忙しいときは事務所に顔をだしていない。一月も会わないときだってあったのに、今さら不安に思ってしまうなんて。
――探偵は私に会えなくても平気なのかな。
そんなことを思うから胸が痛むのだろうか。
つないだ手を見て、ああ――と思った。そうか、私にとっては、探偵に会えることがご褒美だったのだ。それに気づいたら可笑しくなってきた。思わずくすりと笑うと、どうした？ と目線で問われたので、首を横に振った。
こうして手を握っているのも充電になるのだろう。
さっき、探偵は私を抱きしめて充電と云った。
「充電が切れたらどうするんです？」
探偵が振り返ったので、私はハッとした。まるで私のほうから催促しているみたいだ。頬が紅潮するのがわかった。馬鹿なことを云った――。
探偵は握る手を少しだけ強くして、ふふと笑った。
「充電しに行くとも」
「……」
「会いに行くよ」
は？ と私は瞬いた。
「それじゃ、ご褒美にならないじゃないですか」
「煙草も酒も、見るのを禁止されているわけじゃない。だから、君に会うのもいいのだ」
「……」
私は呆れた。
「じゃあ、何を我慢するっていうんです」
「今だってずっと我慢している」
探偵は子供が拗ねるみたいに唇を尖らせた。今までしたい放題で、いったい何を我慢しているというのだろう、この人は。
探偵は握った手を楽しそうに振る。
「ご褒美はたっぷりもらうからね」
「たっぷりって……」
「覚悟しておきなさい」
「……」
楽しみ楽しみ、と呟いている探偵を見ていると、このまま解決しないほうが良いような気がしてきた。
私はつないでいた手を引き抜いた。
ん？ といった表情の探偵に、
「充電は終わりです」
と云った。
「……」
探偵は空になった自分の手を見て、むっとしたように眉を寄せた。
「終わってない」
「終わりです」
「まだ充電してない」
「さっきしたじゃないですか」
「まだ足りないのだ」
「十分です」
「十分じゃない！」
「第一、もう見るだけ――なんでしょう？」
「……」
探偵は一瞬だけ傷ついたような顔になり、次いで、古書肆のように渋い顔をしてから不満をあらわにした。
「女学生君」
「我慢してください！」
私は軽く笑い、彼を追い越してビルを出るが、しばらく待っても探偵は姿を現さない。
「探偵さん？」
入り口を覗き込むと、置いていかれた探偵は影の中で腕を組んで仁王立ちになっていた。まるで欲しい玩具を前に買ってくれるまで動かないぞと主張している子供のようだ。
まったく――。
「探偵さん、送ってくれるんじゃないんですか？」
「充電」
「しませんって」
「しないと動けない」
「……」
本気で云っているんだろうか、それとも冗談？
なんで私はこんな人が好きなんだろうという疑問まで湧いてくる。
「探偵さん、私、行きますよ」
「充電！」
「だから」
「充電ッ！」
こんなことなら、手をつないだまま駅まで行けばよかった。
探偵は、子供が抱っこと云うかのように私に向かって両手を広げた。
「充電！」
壊れた玩具だ。いったいあなたは何歳ですか、と膝をあわせて問い詰めたい。
私は溜め息をついた。
「全然我慢してないじゃないですか」
ぶつぶつと呟きながら探偵の前まで行くと、はい――と右手を出した。
「行きますよ」
探偵はそれじゃだめだとでも云うかのようにそっぽを向く。
「充電だよ、女学生君！」
彼が何を望んでいるのかわかってしまうのも問題だ。私は眉を寄せた。
「我慢をするからこそのご褒美でしょうに」
探偵がにっこりと笑った。
「明日から我慢する」
「……」
ダイエットは明日からと云ってデザートを食べる女学生と変わらない。
「もう……」
結局、私は探偵に甘すぎるのだろう。
漏れたのは溜め息。
「……少しだけですよ？」
「うん」
早く早く、と探偵の表情が急かす。いい大人が、子供みたいに――。
私は右手を下ろして、左手に持っていた鞄を足元に置いた。
――子供だ子供。相手は小さな子供と思えばいいのだ。
頭の中で呟くも、本当にそう思えるはずもなく――。
恥ずかしくて探偵の顔は見れない。
うつむいたまま一歩一歩ゆっくりと近づいて、広げた探偵の腕の中に入った。
少しだけ手を広げて探偵に身体を寄せる。こつ、と彼の鎖骨に額がぶつかるのと探偵の腕がそっと私を包んだのは同時。先ほどとは違った優しい抱擁に心臓が高鳴って止まらない。
探偵は満足そうに大きく息を吐き、私もまたそっと息を吐いた。
探偵の匂いに――胸の広さにホッとしてしまう自分がいやだ。
「……少しだけですからね」
「わかっているよ」
本当にわかっているのかどうかは激しく疑わしい。
探偵を甘やかしすぎなのか、それとも、甘やかされているのは私なのか。
本当に……。
――大きな子供で困ってしまう。
私が背中に回した手でぎゅと抱きつくと、探偵は嬉しそうに笑って「充電充電」と耳元で囁いた。
了
【古風気味な百の題目／066】
2007.06.01
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