榎木津×美由紀
『記憶違い』
「益田さん」
美由紀ちゃんの声がする。
「益田さん」
「……美由紀ちゃん」
目を開けると、上から覗き込んでいた少女の顔が泣きそうに歪んだ。
「よかった……！」
「どうしたの……？ ッ痛」
身を起こそうとして、右の後頭部に激痛が走った。
「なにこれ、痛ー」
触るとこんもりと膨らんでいる。こぶ？
「棚の角にぶつかって意識を失っていたんですよ。目を覚まさないからどうしようかと」
「そっか、――大丈夫みたいだよ、美由紀ちゃん」
彼女を安心させるように笑うと、小さな笑顔が返ってきた。ああ、本当に可愛いなあ。
「それにしても、どうして転んだんだろ」
「――益田さん、覚えてないんですか？」
「え？」
「蹴られたんですよ」
「蹴られた？」
美由紀ちゃんが寝室を睨む。
「ああ、榎木津さんか」
なんで蹴られたのか記憶になかった。どうせくだらない理由だろう。
美由紀ちゃんは台所に向かうと、濡れたタオルを持ってきて頭に当ててくれた。ひんやりとして気持ちがいい。
「ありがとう。榎木津さんは？」
「叱ったら拗ねて寝室にこもってます」
「……叱ったの？」
当然です、と美由紀ちゃんは眉を上げた。それから寝室に向かって「れいにい！」と叫んだ。
「益田さん気がついたよ！ ちゃんと出てきて謝って！」
れいにい、と美由紀ちゃんは再度叫んだ。
「れいにい！」
……れいにい？
「早く！ ――お兄ちゃん！」
「……」
――お兄ちゃん？
「あ、あの、美由紀ちゃん、お兄ちゃんって？」
美由紀ちゃんに兄がいたとは知らなかった。
「礼二郎お兄ちゃんです」
「……」
礼二郎……お兄ちゃん？
ああ、「れいにい」って「礼兄」ってことか。――なんて思いながら、頭の中ではクエスチョンマークが浮かび上がっていた。え、いったい、何事。
「あの、美由紀ちゃん」
「はい？」
振り向き、きょとんと瞬く少女は、なんですかと問うように小首をかしげた。
「礼二郎って、榎木津さん？」
「そうですけど」
「いつから榎木津さんのことをお兄ちゃんって呼んでいるの？」
「いつからって……前からじゃないですか」
「前から？」
「……益田さん、大丈夫ですか」
怪訝と心配が入り混じった表情で美由紀ちゃんは不安そうに僕を見た。
自分の知らないところで二人の間ではそう呼び合っていたのだろうか。榎木津さんへの物言いも、いつもの彼女らしくない。
バタン、と寝室のドアが開いた。
「なんだ、復活したのか！ そのまま死んでもよかったのに」
「礼兄！」
仁王立ちの探偵に、少女もまた立ち上がると腰に手を当て仁王立ちになった。
「ちゃんと益田さんに謝る！」
「やだよ」
「やだよじゃない！ 謝らないなら、私、もうここには来ないよ！」
「ちょ、美由紀ちゃんっ」
いいよいいよ、と僕は彼女のスカートを引いた。だが、彼女は僕を睨んだ。
「益田さんまでお兄ちゃんを甘やかして！ ひどいことされたんですから、もっと怒ってください！」
「いや、いや」
僕は苦笑を返すばかり。いったいなにが起こったというのだろう。
「別に、なんてことないよ」
いつものことだし、と内心で呟いた。
美由紀ちゃんは複雑そうな顔をしてから、申し訳なさそうな表情で前屈みになると、すらりとした手を僕の頭の後ろへと伸ばしてきた。
「本当にごめんなさい。痛いでしょう」
「大丈夫大丈夫」
はは、と僕は笑った。本当はものすごく痛かったのだけれど。
「美由紀！」
美由紀ちゃんの背後に榎木津さんが立った。
「そんな男に触るんじゃない」
「あのねえ」
美由紀ちゃんは心底嫌がるような表情で溜め息をついた。
「私が接触する男の人全員に敵意を抱くのやめてくれない？」
「下僕でも敵だから当然なのだ」
「そんなこと云ってたら、私、結婚できなくなっちゃうじゃないの」
「美由紀はお兄ちゃんと結婚するからいいのだ」
「だからもう！ 実の兄だから結婚できないの！」
榎木津さんの顔がガーン、と頭に石をぶつけられた表情になる。今にも泣きそうな顔。
――なにこれ。なんのお芝居？
「そんなこと誰が決めたのだ」
「前から云っているじゃない。云うたびに凹まないでよ」
「でも、美由紀はお嫁には行かないのだろう？」
「なんでよ。行くに決まってるじゃない」
「じゃあ僕のところに」
「礼兄とは結婚しません！」
ガーン、と再び表情が固まる。見ている方が胸が痛むような切なくなる表情で、榎木津さんはなんでとつぶやいた。美由紀ちゃんがそのまま無視していると、肩を落として、とぼとぼと寝室の中に消えていった。
「まったくもう……」
美由紀ちゃんは溜め息をついて、唖然としている僕を見てにっこりと笑った。
「変な兄ですけど、これからもよろしくお願いします」
「あ、うん。いや――」
どこからつっこめばいいのかわからない。
美由紀ちゃんは微苦笑を漏らした。
「さっき云ったこと、内緒にしてくださいね」
「さっき云ったこと？」
「今度私がお見合いすることです」
「み、美由紀ちゃんがお――！？」
「益田さん！」
お見合いと云う前に、慌てた少女に口をふさがれた。
「だ、か、ら！ 黙っていてくださって云ったじゃないですかっ」
小声で――でも必死の形相で囁かれる。
「また蹴られたいんですか？ さっきだって『お見舞い』だってごまかすのが大変だったんですから」
「……」
こくこく、と僕はうなずく。なるほど、同じように叫んで、この状況を見た榎木津さんに蹴られたのだろう。
美由紀ちゃんは僕から離れて、ほうと息を吐いた。
「礼兄に知られたら大暴れされちゃいます」
「榎木津さんがあとで知ればもっと暴れると思うけど」
「……」
美由紀ちゃんは軽い沈黙の後、そうですよね、と云った。はあ、と深いため息をつく。
「でも、いい加減、妹離れしてもらわなくちゃ。礼兄にだって素敵なお嫁さんが来た方が私は嬉しいのに」
「……え」
「だって、ずっとお姉ちゃんがほしかったんですもん。中禅寺の敦子さんなんてどうかなあとか思うんです。もしかして益田さんも好きでした？ だめですよ！ 私が礼兄のお嫁さんに狙っているんですから、邪魔しちゃいます」
無邪気に笑う彼女が、心からそう思っているのがわかる。――演技じゃない。
「あ、あの、美由紀ちゃん」
「はい？」
「美由紀ちゃんの苗字って……」
「榎木津ですけど……」
「榎木津美由紀？」
美由紀ちゃんは怪訝な表情になった。
「……やっぱり益田さん、どこか打ち所が……」
「ああ、ううん、ちがうちがう。ただの確認」
へへ、と僕は笑った。
「美由紀ちゃんは榎木津さんの妹……だよね？」
「……はい。――本当に大丈夫ですか？」
「うんうん、で、榎木津家の末娘……なのかな？」
「……」
やっぱり病院に、と美由紀ちゃんは僕の腕を引いた。
「礼兄！ 礼兄！ 出てきてよ！」
寝室から現れた男は、僕の腕にしがみついている美由紀ちゃんを見て明らかに気分を害して眉を吊り上げた。榎木津さんの視線が本気で怖い。
「礼兄、益田さんが変なの、医者に連れて行こう！」
「こいつはいつも変だから、それは正常なのだ」
云って、榎木津さんは美由紀ちゃんの二の腕を掴んで立ち上がらせた。
「もう帰りなさい、寮に送る」
「今日は総兄のところに行くから遅くなっても大丈夫。泊まらせてもらうの」
「……」
「それより、益田さんを病院に連れて行かなく――」
うわ、と美由紀ちゃんは悲鳴を上げた。榎木津さんが彼女の脇を掴むと、そのまま抱き上げたのだ。子供のように腕に座らせて、足をしっかりと抱いている。
「ちょっと！ 礼兄！」
「それならここに泊まりなさい」
「いや！」
「なんで！」
「いつも一緒に寝ようとするじゃない！ 私、もう子供じゃないよ！」
「知ってる。女の子だろう」
「女の子だからだめなの！」
もう降ろしてよ、と美由紀ちゃんは榎木津さんの頭をぽかぽかと叩く。だが、榎木津さんは笑いながら嬉しそうだ。親バカというか、兄バカ？
「榎木津さん」
思わず声をかけてしまった。
なんだよ、と冷たい視線が向けられて、そこには「邪魔するんじゃない」という意図が見え見えだった。なんていうか、いつもの榎木津さんよりも敵意があからさまだ。
そうか、と思う。ないのは余裕なんだ。
「榎木津さんもお兄さんのところに泊まってきたらいいじゃないですか」
「……」
わはははは、と榎木津さんが突然笑い出した。
「うん、たまには下僕も良いことを云うな！」
「えええ！ 礼兄も来るの！？」
「当然だッ！」
「来なくていいよ！」
「なんで！」
「だって明日お見合い――」
あ、と美由紀ちゃんは言葉を飲み込んだ。
「お、お見舞いに行くから」
「お見合いって云った」
「云い間違えただけ。お見舞いに行くの！ お見舞い！」
「……」
榎木津さんは口をへの字にして、不機嫌極まりない険悪な顔になった。
「誰とお見合いするのだ」
「……」
「美由紀」
「……だれかは、わからないけど」
美由紀ちゃんの声が沈むのは、榎木津さんの怒りが伝わってくるからだろう。
「親父が手配したのか」
「今出川のお兄さん」
「――」
くそっ、と榎木津さんは舌打ちした。やはりこちらでも今出川さんは榎木津兄弟に見合いさせようと奔走しているらしい。ここではターゲットが兄から妹に変更されているみたいだが。
「美由紀はお兄ちゃんと結婚するからお見合いはしませんって断りなさい」
「なんで！」
「云いなさい！」
「礼兄と結婚なんて出来ないもん！」
「そんなことを誰が決めたのだッ！」
「もしもお見合いをぶち壊したら、礼兄とは口も利かないからね！」
またしてもガーン、とショックを受けている榎木津さんに、僕は思わず同情してしまった。
「益田さん」
「益田さん！」
美由紀ちゃんの声に目を覚ますと、上から覗き込んでいたいた彼女の顔が泣きそうに歪んだ。
「益田さん……！ ああ、良かった！」
なんだかデジャブ。
「あれ？ 美由紀ちゃん……」
「大丈夫ですか！？」
「――え？ ああ、うん」
身を起こそうとして、後頭部に痛みが走った。
「痛……ッ。榎木津さんに蹴られて転んじゃったのか」
「なんで僕のせいなのだ。このバカオロカ、嘘をつくなッ！」
「え？」
美由紀ちゃんの背後に、ずうううんと、榎木津礼二郎が仁王立ちになっている。
「自分で帽子を踏んですってんころりんしたのだろうが！ バナナで滑る人間は多いが、帽子で滑る人間は初めて見たぞ！」
「え？」
美由紀ちゃんを見れば、その通りというかのように、うんとうなずいた。
「驚きました。思いっきり後ろに倒れたんですよ？ 大丈夫ですか」
そう云われてみると、調査から帰ってきて事務所に入ると、ソファのところに榎木津さんと美由紀ちゃんが座っていて――。
ただいま帰りました、と手を上げていたらツルッといってしまったような気がする。
ていうか、よく見たら足元に帽子がたくさん転がっていた。
「なんでこんなに帽子が……？」
「探偵さんが飛ばして遊んでいたんです。今日見た映画で、登場した探偵が名乗るときに帽子を飛ばしていたから……」
なるほど、僕もやるとか云い出したのか。
「なんだ、やっぱり榎木津さんのせいじゃないですか」
「お前、さっき僕が蹴ったからだとか云っていたぞ」
「え？ あ――あはは！ って、痛たた……」
痛みが走って顔をしかめると、美由紀ちゃんが慌てて僕の頭に手を伸ばしてきた。
「念のため、お医者さん行きましょう」
「やだなぁ、これくらい平気だよう」
「だめです！」
美由紀ちゃんが眉を上げてきっぱりと云った。僕の腕にしがみついて立ち上がらせようとする。
「本当にすごい音がしたんですよ！？ 医者に見てもらってください！」
「大丈夫だって。血も出てないし」
「血が出てないから心配なんです！」
美由紀ちゃんは絶対に譲らない、と真剣な顔で僕を睨んだ。が、次の瞬間、急に泣きそうな顔になった。
「お願いですから、ちゃんと見てもらってください」
――うわ。それは反則。
「わ、わかった、行くよ」
思わず顔が赤くなってしまった。視線を感じて上を向くと、榎木津さんが真っ直ぐに僕を見ていた。やばい、と焦っていると長い腕が伸びてきて、僕の襟を掴んで猫の仔みたいに持ち上げた。
「……」
「早く行って来い」
「あ、ありがとうございます……」
「益田さん、行きましょう」
美由紀ちゃんがしっかりと腕を支えてくれている。ひとりで大丈夫だよと云うも、一緒について行くと譲らなかった。
「途中で倒れたらどうするんですか！」
僕は困って助けを求めるように榎木津さんを見た。いつもなら放っておけとか云いそうなものなのに、視線が合うとなにを勘違いしたのか、
「金なら出してやるぞ」
と云った。
「ほら、大丈夫ですから、行きましょう」
美由紀ちゃんに支えられながら、僕は事務所を出た。榎木津さんはその後をついてきている。
実際、まだ頭に痛みは走るが美由紀ちゃんに支えられるほどのことじゃない。腕を組んで歩くのは正直恥ずかしさと嬉しさが入り混じった。時折、大丈夫ですかと美由紀ちゃんが囁いてくる。
若い男女が腕を組んで、周囲からはデートしているように見えるのだろうか？
後ろを歩く榎木津さんは、妹のデートを見守る兄といったところか。いったいどんな顔をしているのやら――。
想像すると楽しくて、思わずくすくすと笑ってしまった。
「ま、益田さん……？」
いきなり笑い出した僕を、美由紀ちゃんが心配そうに見ている。
「だ、大丈夫ですか？」
「だいじょうぶだいじょうぶ。ははは…！」
美由紀ちゃんはますます不安になったようだ。
「探偵さん……」
助けを求めるように背後を向く。
「大丈夫なのか、益山」
へへ、と僕は笑った。榎木津さんの声もまた心配しているのがわかったから。
「大丈夫ですよう。僕ァ、こっちの世界の方が好きだなっ」
「…………」
「…………」
そのあと慌てた二人によって、僕はものすごい勢いで医者のところまで連れて行かれることになる。
あとで聞いたところによると、「こっちの世界」などと云うから、気を失っているときにあの世に行きかけたのだと本気で心配したらしい。
実際に検査の結果、頭の中に血が溜まっていて、そのまま放置していたら朝には死んでいる可能性もあったというから、強引にでも病院へ連れていこうとした美由紀ちゃんの判断は正しかったのだ。
あの世界の僕は――。
兄妹だった二人は――。
夢か、幻か。
そういうのはパラレルというのだと見舞いに来た中禅寺さんが教えてくれた。
本当にあるかもしれない世界。
本当にいるかもしれない人たち。
気を失った僕が作り出したのか、それとも迷い込んだのか。
こっちのほうがいいと――。
よかったと――。
僕のためじゃなくて、榎木津さんのためにそう思った。
「こちらの世界は、美由紀君と結婚できないことを不満に思った神が作り変えた世界かもしれないよ」
中禅寺さんが、彼らしくないことを云った。それでも、僕も関口さんも、
「そうかもしれないなあ……」
思わず納得してしまったのだった。
「お、噂をすれば」
騒がしい声が病室に近づいてくる。
バン、と大きな音を立てて扉が開いた。
病室に入るなり「まだ生きていたのか！」うわはははと高笑いをしていつも看護婦に怒られる探偵と、花束を両手に抱えて僕に向かって笑う少女。
「益田さん、具合はどうですか？」
「うん、とてもいいよ――」
幸せな世界に、僕は笑い返した。
了
【古風気味な百の題目／061】
2007.06.18
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