榎木津×美由紀
『無意識の衝動』
あ。
声が聞こえたわけではなかったが、美由紀が息を飲んだのが分かって顔を上げた。
カタンと音がしたのは包丁をまな板の上に置いたのだろう。その後、今まで台所から聞こえてきていた音がぴたりと途切れた。彼女がなるべく息や気配を消そうとしているのが分かって、僕は手にしていた雑誌を置いてソファーから腰を上げる。
蛇口を捻った音がして――。
「切ったのか」
台所に顔を出せば、美由紀の身体は驚いたようにビクリと跳ねた。
「探偵さん」
水につけていたのは左手の指。慌てて隠そうとするが、その前に手首を掴んだ。
「どこを。見せなさい」
「あの、ちょっと切っただけですから」
美由紀は手を引くが、男の力に敵うはずもない。
「女学生君」
少し強めに云うと、彼女は困ったように眉を寄せてから、息を吐くように力を抜いた。
濡れた手から水が滴る。指を一本一本確認すれば、親指の先に一センチほどの切り傷があった。血は流れていない。
ね？ と美由紀が小さく笑った。
「本当にちょっと切っただけなんです」
だから心配するほどじゃありません、と言外に伝えてくる。
確かに大した傷ではなかった。ジャガイモの皮を剥いている途中で切ったのは現状を見れば分かる。
「バンドエイドを貼れば大丈夫」
「そのようだな」
軽く息を吐くと、美由紀もホッとしたように息を吐いた。
だが、彼女の手を離そうとしたとき、指先に軽く血が滲んだ。
「あ」
と口にしたのは、自分だったのか美由紀だったのか。
血を見たときには彼女の手を引いて親指を口に含んでいた。美由紀の顔が真っ赤に染まり、身体が強張った。
掴んでいる手首も熱くなっていく。
「あ、あの……！」
脈が早い。
美由紀は眉を下げ、困ったような、泣きそうな顔。その根底にある羞恥心から紅潮した顔は思わず意地悪をしたくなるくらい可愛いのだけれど、そのことを彼女はまったく分かっていない。
「探偵さん……」
軽く吸うようにしてからゆっくりと口から離すと、ちゅ――と小さく音が鳴った。
「ツバをつけておけば治る。――と、木場修の親父が云っていた」
「……それは、お祖父ちゃんも云ってましたけど……」
舐めるのなら自分で、と彼女がつぶやく。
「知らないのか？ 他人のツバじゃないとダメなのだ」
思いっきり嘘をつくと、美由紀は「そうなのか」と本気で信じた顔になって大人しくなった。
本当に可愛いなあ。どうしたものだろう、この生き物は。
すでに血の出ていない指先を二度、三度と舐めると、うつむく美由紀の顔は耳まで赤くなっている。
よし、と彼女の手を引いた。
「バンドエイドは僕が貼ってあげよう」
「それは私が……！」
「ひとりじゃ貼れないだろう」
「でも――」
「ほら早く来なさい」
握った手を引くが、彼女の身体は強張ったまま抵抗するように身体を後退させる。
僕は眉を上げた。
「早く来ないとチュウするぞ！」
「――は！？」
「嫌だったら大人しくしなさい」
「……」
美由紀は困ったように眉を寄せ、しばらく考え込むように僕の目を見てから諦めたようにフッと身体の力を抜いた。いかにも仕方がないといった様子で身体を一歩前に進める。
――嫌だったら大人しくしなさい。
自分で云った言葉だが、なんだかムッとした。
「なんで大人しくなるのだ」
思わず声が低くなった。
美由紀は怪訝そうに顔を上げた。
「は？」
「僕のチュウがいやなのか？」
「あ――当たり前です！」
眉を上げて怒った顔も可愛い。憤慨しているが、本気で怒っているわけではないのが分かるから、なおさら可愛い。
だから。
なんだかムッとしたのとムラッとしたのが混ざって、美由紀の手を引くと身を屈めて彼女の頬に口付けた。
「――――！！」
「今度また嫌がったらチュウするから覚えておきなさい！」
僕が胸を張って宣言すると、美由紀は右手で紅潮した頬を押さえ、唸りながら射抜くように睨んできた。
「信っじられない！」
「信じたまえ！ 僕は嘘をつかない」
「矛盾だらけじゃないですか！ だったらどうすればいいんです！」
「今みたいに可愛い顔しない！」
「か――！？」
「可愛い顔！」
でなければ、したくなってしまうからね。
僕がにっこりと笑うと、美由紀は言葉に詰まり、困ったように眉を寄せた。
「可愛い顔なんてしてません……！」
「ほら、もうしてるじゃないか！」
僕は叫ぶと、また彼女に口付けた。
了
【キスに関する10のお題／04】
2007.09.21
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